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2008年11月

サルーテの祭り3

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 祈りの言葉が一段落すると、信者たちは中央祭壇に列を作って進み、聖母像に短い祈りを捧げて祭壇の裏に回る。祭壇裏の聖具室にはティントレットの「カナの婚礼」やティツィアーノの「アブラハムとイサク」などの秀作が展示されているが、この日だけは聖具室も贅沢な通路と化してしまった。ミサは一日何度も行われ、市民はこぞってこのミサに集い、家族の健康と街の平安を祈るのだ。

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 界隈では祭りならではの風景も見られる。仮橋は一方通行なので、帰りは教会の横手からザッテレ方面に進むことになるが、この道には日本の縁日さながらの屋台が軒を並べていた。テントの上に突き抜けるように沢山の風船が浮き上がり、さまざまなお菓子が所狭しと並ぶ。綿あめはイタリアでも健在だった。

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 顔と同じくらい大きな砂糖菓子を買って、ほおばりながら歩いていると、いつの間にかザッテレの海岸に出た。ジュデッカの海を赤く染めて、夕陽が静かに沈んでいった。

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サルーテの祭り2

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 中央祭壇に掲げられたグレコ・ビザンチン様式の聖母像は強いライティングに煌々と照らし出され、その周囲を彩る祭壇飾りも輝きを放っている。この、ジュスト・クールの手によるバロックは、祭りの意味と深いかかわりを持っている。上部にある3体の彫像のうち、中央が聖母、向かって右が、老婆の姿で表現された逃げ出そうとするペスト。そしてひざまづいて聖母に祈る左の女性が、ヴェネツィアを象徴した像なのだ。ペスト追放を聖母に感謝して建立されたこの教会のいわれをそのまま体現した主祭壇の周りに、信者たちは集まっていた。

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 この祭りには、夏のレデントーレの祭りのような華やかさは無い。まして、豪華な衣装に仮面の男女が闊歩するカーニバルに比べれば、全く外に向けてアピールする要素は持ち合わせていない。しかし、人々はこぞって祭りに参加し、ひたすら祈りの時を過ごすのだ。

 ミサの言葉を聴きながら、私は深紅のビロードで背景が飾られた、ヴェネツィアを現した女性像を見つめていた。

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 以前私は14歳でこの世を去った少女を取材したことがあった。急性骨髄性白血病。スポーツが得意な活発な少女は、突然の発病で、心の芯まで打ちのめされてしまう。「昨日まであんなに元気だったのに、どうして今はベッドに縛り付けられなくてはいけないの。友達はみんな毎日楽しく過ごしているのに、どうして私だけ。どうして、どうして」。悔しさ、悲しさ、ジェラシー。四角く切り取られた青空に向かって嘆く少女の行き場の無い感情が、母への反抗となって表れた。

 しかし、すべてを受け止めて献身的な看護を続ける母の姿に、少女は次第に感謝の言葉を発するようになるのだった。病は治らなかった。でも、少女は死の間際に、こう母に言葉を捧げた。「有難う、ママ」

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 崩れ落ちそうになりながらも、ひざまずいて聖母を見上げるその目からは、強い意志の力が伝わってくる。当時は不治の病だったペスト。壊滅的なダメージの中でも、ひたすら聖母を慕い続けるヴェネツィアの姿に、私はあの少女の影をダブらせていた。

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サルーテの祭り1

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 コートを脱いで行こうかと迷うほどの暖気がヴェネツィアを包んでいた。太陽は雲の奥に隠れたままだが、北風もまだ自らの出番を自覚していないらしい。11月21日。サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会の祭りの日だ。

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 サルーテ教会の起源は400年近くも前に遡る。17世紀に北イタリアを襲ったペストは猛威を振るい、1630年から31年にかけて46490人の死者を出したと記録されている。ようやく疫病がおさまった時、国は感謝の教会建設を決めて工事が始まり、1687年11月21日に、教会は落成した。これを記念しての祭りが、以来途絶えることなく続いているというわけだ。

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 前日から、カナルグランデ(大運河)を歩いて横断するための仮橋が渡され、市民たちは壮麗なゴシック建築の教会に列を成して詣でるのだ。教会正面で、長さ1mもある長いロウソクを売っていた。これを買い求め、携えて中に入って行く。このロウソクが、感謝と安寧を願う象徴なのだという。

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 教会に入ったとたん、歌うように言葉を解き放つ威厳に満ちた声が響いてきた。司祭によるミサの最中だった。以前に来たときは静かで落ち着いた教会という印象だったが、さすがに祭りの当日は、全く異なった熱気が漂っていた。

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 入口近くには、特設された大きなロウソク立てが置かれ、何十本もの長いロウソクが炎をゆったりと揺らめかせている。炎に近づいた子供のほおが赤く染まり、好奇心に燃える瞳がきらきらとまたたく。

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チャイコフスキー、ワーグナー

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 チャイコフスキー    ホテル ロンドラ パラス (Hotel Rondra Palace)

 チャイコフスキーは1877年、スイス、ウイーンを経由してロシアからヴェネツィアを訪れている。この年は彼にとって激動の年だった。7月にモスクワ音楽院の教え子だったアントニーナ・イヴァノブナ・ミリューコヴァと結婚、しかしわずか1か月もせずに別居状態となり、9月にはモスクワ川に身を投げるという事件を起した。この結婚は同性愛者だった彼の精神を錯乱させたという分析もなされているようだ。そんな不安定な状態の療養を兼ねて訪れたヴェネツィアは、彼の目にどのように映ったのだろうか。

 宿泊したホテル、ロンドラパラスは、サンマルコ広場のすぐ近くで、スキアヴォーニ河岸の高級ホテル。彼の泊まった部屋からはサンジョルジョ・マッジョーレ島が真正面に見え、朝日がさんさんと降りそそぐ素晴らしい眺望の場所だった。

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 そうした環境に癒されたのか、一旦中断していた交響曲第4番の作曲を再開したと言われている。それを記念して、ホテル1階ロビーのガラスには交響曲第4番の作曲時の覚書が写しこまれて残されている。これは、ホテル正面入口の外側からの撮影。

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 こちらはフロントから右側にあるカフェスペースで、ホテル内側から撮影したもの。フロントを挟んで両側のガラスにはめ込まれている。

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 ワーグナー   カレルジ館(Pallazzo Vendramin Carergi)

 ワーグナーは1852年から9回もイタリアを訪れているが、うち6回はヴェネツィアに滞在した。特に後半はカレルジ館の中2階が彼の住まいとなった。庭に面した3室を使い、しばしばゴンドラでサンマルコ広場に出かけてはカフェ・ラヴェーナの決まった席に座ってはカフェを楽しんでいたという。1883年2月13日、妻コジマに看取られながら、この地で生涯を閉じた。

 初期ヴェネツィアン・ルネサンス様式のこの建物は、現在華やかなカジノとして使用されている。ある日、ワーグナーの滞在した部屋を見せてもらおうと飛び込みで訪ねたが、残念ながら「団体の予約でないと・・・」と断られてしまった。

 

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ゲーテ そしてモーツアルト

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 PONTE DEI FUSERI (フゼリ橋)のたもとの家

 モーツアルトの家からバルカローリ通りを進み、すぐに交差するフゼリ通りに左折すると、すぐにフゼリ橋がある。この橋から左の建物を見ると「GOETHE」という文字の入った銘板を見つけることが出来る。そこには「1786年9月28日から10月14日まで滞在した」と記されている。つまり、ゲーテは、モーツアルトより15年後にヴェネツィアを訪れたことになる。

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 ゲーテの「イタリア紀行」には「イギリス女王というホテルに気持ちのよい宿を取っている。サンマルコ広場から程遠からぬところにあるが、これがこの宿の一番の取り柄である。私の部屋の窓は高い家並みの間にある狭い運河に面しており、窓のすぐ下には虹型の橋が架かっていて、その向こうには一本の狭い賑やかな小路がある」と描写されている。

 確かにサンマルコ広場までは5~6分で行ける場所で、利便性は高い。ただ、それだけにうるさいこともあったようだ。10月4日の記述では「窓の下の運河で人々が何やら大騒ぎをしている。もう真夜中も過ぎているのに、彼らは良いことだろうと悪いことだろうと、いつも一緒になって騒ぎ立てるのだ」と、陽気なイタリア人の気性に、ドイツ人としての批判を漏らしている。

 地図を見ると、モーツアルトの宿とはバルカローリ通りを挟んで向かい合わせる形になるほどすぐ近くだ。ちょっとどちらかの訪問時期がずれていれば、二人がヴェネツィアで鉢合わせする可能性も十分あったのでは、と空想がふくらむ。ゲーテの宿は「ホテル・ビクトリア」というところだったようだが、今では高級そうな婦人服を売る店に変身していた。

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 ヴェネツィア滞在中、ゲーテは満潮時と干潮時の2回サンマルコ広場の鐘楼に昇っている。その感想は「類無い眺望だ」と絶賛している。彼の滞在時期は秋なので、こんなアルプスの雪の風景は見られたかどうかはわからないが、冬の晴れた朝などは、鐘楼からでも雄大な風景に接することが出来る。さらに、演劇も何度も鑑賞し、市場やキオッジャへも足を延ばしている。

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 また、もちろんゴンドラにも乗り、「アドリア海の支配者の一人であるかのように思えた」と、感嘆の言葉を残している。さらに「真昼の陽光を浴びて潟の上を舟で渡りながら、私は華やかな服装をして舟端に立ってゴンドラを漕ぐ舟人が、薄青い水面からくっきりと青空にその姿を描き出している様を眺めたとき、ヴェネツィア派の最も優れた最も鮮やかな絵を見る思いがした」とし、光の鮮烈さには「影に相当する部分でも、場合によっては光の部分として通用するくらいに明るかった」と感動している。北国の人・ゲーテにとって約半月のヴェネツィア滞在は、とても大きな思い出として印象付けられたと思われる。

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 なお、1763年、ゲーテが14歳のとき、当時7歳のモーツアルトがパリへの旅の途中フランクフルトに立ち寄り、演奏会を開いている。この演奏会をゲーテははっきりと覚えている。「あの小さな少年は手入れのよい髪をして刀剣を提げていたのを、今でもありありと思い浮かべるのだ」(エッカーマン「ゲーテとの対話」)。

 ゲーテのフルネームは「ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ」、対してモーツアルトは「ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルト」。二人のヴォルフガングは、同時代に生きた偉人だった。

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モーツアルト

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 PONTE DEI BARCAROLI(バルカローリ橋)たもとの家

ヴェネツィアのサンマルコ地区、フェニーチェ劇場のあるサン・ファンティン広場の少し手前に、バルカロ運河が流れている。ここに架かるバルカローリ橋に立って、前の建物の壁を眺めてみよう。そこに「ウオルフガング・アマデウス・モーツアルト」の文字が記された銘板が貼ってあるのに気づくだろう。その銘板には「1771年のカーニバルの間、ここに滞在した」と書かれている。

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 これが、その建物だ。当時のモーツアルトは15歳。1769年12月にオーストリアを出発し、ローマ、ナポリ、ボローニャなどイタリア各地を回った大旅行の終盤、2月11日にヴェネツィアに着いた。父レオポルドが妻にあてた2月13日の手紙では、「ひどい天候と驚異的な風のため、やっと謝肉祭の月曜日早朝にヴェネツィアに着いた」と報告している。ベルリンの国立図書館に覚書が残されているが、それによると「宿泊、バルカローリ橋そばのサン・ファンティーノ通り、カヴァレッティ家」と記載されているようだ。

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 この運河はゴンドラの一般的な周遊コースになっているようで、橋の上で銘板の文章をメモしている間も何隻ものゴンドラが通過して行った。中にはゴンドリエーレが「ここがモーツアルトが滞在した場所」と説明しているゴンドリエーレの姿もあった。

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 滞在中のモーツアルトは、まさにカーニバルの真っ最中だったこともあり、「ドイツ時間で夜の11時から12時にかけて私たちはサンマルコ広場の仮面舞踏会に出かけたのです」(レオポルドの手紙)など、大いにカーニバルを楽しんだようだ。当然この写真のような仮面を付けた人であふれる広場にモーツアルト父子の姿も見かけることが出来たのだろう。

 彼らは約1か月の滞在の後3月12日に、ブレンダ運河を船で渡ってパドヴァに出発している。ただ、モーツアルト自身が祭りで沸き返るヴェネツィアに、どのような印象を抱いたかは、記録には残されていない。

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