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2011年6月

プラハ 聖ヴィート大聖堂1

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 陽光がまぶしい。凍てつく寒さと、どこからか忍び寄る湿気を伴った暗さ。特に理由もなく、3月初めのプラハをそうイメージしていた先入観は、あっけなく吹っ飛んだ。透き通る明るさに後押しされて、まずはプラハ城へ。

 昨夕プラハ本駅で買った24時間フリー乗車券は、地下鉄、トラムが1日乗り放題。あっという間にホテルから城入口まで運んでくれる。

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 正面入り口を入ると、第2の中庭から、建物の右上に白地に赤い色のついた大統領旗がはためくのが見えた。大統領がいるという印だ。この旗には「真実は勝つ」というチェコ語が記されている。ドプチェクらによる改革運動「プラハの春」が挫折し、長年にわたった実質的ソ連支配から、ビロード革命によって一滴の血も流さずに解放を成し遂げた1989年、ヴァーツラフ・ハヴェル大統領はこの城を大統領官邸とし、旗にこの言葉を入れた。宗教改革の先駆者ヤン・フスが残した言葉だ。ハプスブルク、ナチス、ソ連と気の遠くなるような被支配の歴史を背負ってきた民族の、心の叫びにも聞こえる。

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 圧倒されるのは、聖ヴィート大聖堂の巨大な尖塔だ。もともとはロマネスク様式のシンプルな建物だったが、カレル4世の時代に改築が始まり、建築家パルレーシュによって高さ96mのゴシックへと変貌をとげた。入口アーチの細かな像の細工にも目を奪われる。

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 全長124m、幅60m、高さ33mという大きな堂内に入って最初に驚いたのは、向かって右側礼拝堂のステンドグラスからこぼれ落ちる光の粒だった。

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 一番手前のバルドニ礼拝堂は、赤を基調としたシュヴァビンスキーの作品が据えられているが、そのガラスを通して、朝の透き通った光が堂内に降り注ぎ、その光が手前の壁に集まって虹の結晶のように輝いている。

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 次の聖墳墓礼拝堂でも、神の慈悲の心をテーマにしたステンドグラスから壁に光が伝えられる。

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 何と清々しい朝の光景なのだろうか。

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 オープン時間の午前9時に合わせて入場したのは、この光を期待してのことだったが、これほどの輝きに遭遇できるとは思ってもみなかった。

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 奥に進むと、天地創造をテーマとした薔薇窓があり、チェコの守護聖人であるヤン・ネポムツキーの墓碑がある。2トンの銀を使って作られたというネポムスキーの像を含めたすべて銀製のギラギラが、特別の人だったことを象徴している。

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 この像はちょっと優しげで、マリア像かも。

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 燭台持ちが空中に浮かんでいた。

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 ここには17世紀のプラハの街の様子が描かれている。中央のカレル橋が格別に強調されているようだ。

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 向かって右側中ほどにある聖ヴァーツラフ礼拝堂。ここにはヴァーツラフの遺品が納められており、星形になった天井が美しい。壁画は彼の生涯を描いたものだ。

 ここの本当の見ものはムハ(ミュシャ)のステンドグラスだが、それは次回のお楽しみ。

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プラハ カレル橋の夜明け

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 早朝、窓を開けると、身を引き締める冷気の感触と共に、上空に瞬く星を見つけた。ああ、今日は晴れそうだ。日中は人で埋め尽くされるカレル橋も、未明から夜明けにかけての数時間だけ、喧騒がピタリと収まる時間帯がある。「誰もまだ渡っていないカレル橋を一番乗りしてやろう」 。カメラを片手にホテルを飛び出した。

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 何といってもこのホテルは、地の利という点では非の打ちどころがない。カレル橋から1分。道路に出たら目の前に橋塔が見える。

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 600年の歴史を誇るゴシックの橋塔をくぐった時、一瞬ブルッと震えが来た。この橋が造られた15世紀には、旧市街地側の川に突き出た場所は処刑場として使われていた。十字架はその罪人たちの最後の祈りのために建てられたという。この暗闇に幾多の迷える魂がうごめいているせいかもしれない。

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 橋の両側に立つ像は合計30体。

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 わずかに色づいてきた東の空を背景にうっすらと浮かび上がる。

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 行に耐える修行僧、あるいは「人とは何ぞや」と思索にふける哲学者?

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 もちろん、この中央に立つ聖ヴァーツラフを始めとしていずれ劣らぬ聖人たちなのだから当然だが、輪郭しか見えない時間帯だからこそ、なおさら崇高さが増すような気がする。

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 やがて、次第に東の空に赤みが差してきた。プラハの夜明けだ。

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 30体の像にはそれぞれのエピソードがある。以前アメリカのクリントン元大統領が来た時、チェコのハヴェル大統領はカレル橋に案内し、この橋の上で2時間もそのエピソードを語り続けたという。それだけチェコの人たちにとっては思い入れの深い橋なのだそうだ。

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 遠くに見える像は、右側が聖フランチェスコ・ザビエル、左側が聖キュリロスと聖メトデウス像。

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 この朝は本当に雲一つない空。オレンジ色が徐々に青の中に勢力を広げて行く感じが面白い。

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 ザビエル像は、間近かで見ても見事なシルエットを演出してくれる。

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 王宮側に近い場所の川の中に、こんな騎士像が建っている。金色の剣を持ったブルンツヴィークだ。敵が攻めてくると、彼の軍隊「ブラーニク」を招集して戦う、プラハを守る戦士だという。

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 「神秘を他の言葉で言い表すとしても、思いつくのはプラハという言葉だけである。暗く彗星のように物悲しげな都市。その美しさは、燃え上がる炎を思わせる」    アンジェロ・リベリーノ「魔都プラハ」より

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 聖人たちの様々なシルエットのパフォーマンスに見とれているうちに、朝がやってきた。滞在初の朝にもう、とても素晴らしいひと時を味わうことが出来た。さあ、プラハは、次はどんなサプライズを用意してくれているのだろうか。

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ウイーンからプラハへ プラハ城とカレル橋の夜景

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 ウイーンから約5時間の電車の旅を終え、プラハ本駅から地下鉄を乗り継いで、ホテル近くのスタロメスツカ駅に着いた。階段を上り切った時、アーケードのアーチ越し、正面にキラリと輝いたのは、勝利の女神ニケの像の背後に浮かぶ漆黒のプラハ城だった。

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 地下鉄構内の陰鬱な閉塞感から一挙に解放された瞬間、目に飛び込む光景は、人に強いインパクトを与えるものだ。それが、何とその街のシンボルだった時の、あまりにも突然の衝撃は、決定的な印象として脳裏に刻み込まれてしまう。それが、私にとっての2011年のプラハだった。

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 あわただしくチェックインを済ませて、早速カレル橋に出向いた。もう日は沈んでいたが、夕映えの残照はまだ橋の周りに漂い、多くの人でにぎわっていた。

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 ライトアップが始まった橋塔には、中央に聖ヴィート、カレル4世、聖ヴァーツラフというこの都市の形成に寄与した3大スターが並ぶ(この3人はこれからもブログにたびたび登場するので、御記憶を)。さらにその上、薔薇のアーチの中に居る2人は、ボヘミアの守護聖人聖ヴォイチェフと聖ジグムントだ。

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 プラハ城の背後には黒い雲が浮かんで、ちょっと邪魔をしていたが、さすがにライトアップされた城は重厚感たっぷりだ。

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 橋から上流を見ると、国民劇場の丸いフォルムが一際大きく闇に浮かんでいる。

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 その手前、ヴルタヴァ川に灯りを映したビル群も美しい。

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 下流側にはドヴォジャーク(ドボルザーク)ホールのあるルドルフィヌムが雄大な姿を見せる。

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 後ろを振り返ると、旧市街側の橋塔や教会などのクーポラ、尖塔が空に突き出ている様がわかる。百塔の街のイメージが少し理解できる。

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 このカレル橋は、14世紀後半から15世紀にかけてカレル4世時代に建造されたもの。全長520m、幅は10mあり、今は車両通行禁止となっているため、昼夜を問わず観光客であふれている。3月は観光シーズンではないのだけれども、さすがに世界的名所なだけに、夜になっても人の往来が途絶えることはなかった。

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 橋には30体の聖人像が置かれている。その中でも十字架を掲げた聖フランシスコ・ザビエルの像がなぜか気に入って何枚も写真に撮ってしまった。

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 プラハ城は周囲が暗くなるにつれてますます輝きを増してくる。

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 下に位置するマラー・ストラナ地区が暗いだけに、夜の闇とに挟まれてその冴え冴えとしたライトアップがなおさら浮き出して見えるのだろう。

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 周囲を散歩して戻ってきたカレル橋。夜9時を過ぎるとさすがに寒さもあって人通りは少し減ってきた。右の聖人は洗礼者ヨハネ。

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 橋を戻って、旧市街側の聖十字架修道会広場に来た。クレメンティヌムという、教会を含む複合建築には国立図書館やコンサートが良く開かれる礼拝堂など様々な施設が入っている。手前左の像がカレル4世。この橋の着工を命じた王で、アルプス以北では初の大学となったカレル大学の設立趣意書を手に持って立っている。初日はまあこんなところで、ホテルに帰ろう。

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ウイーン 旅立ちの朝に 第三の男のロケ場所

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 ホテルのチェックアウトには少し時間があるので、王宮付近まで散歩に出た。滞在中毎日通ったリンク通りにある国会議事堂前のアテナの女神像とも今日でお別れ。遠くにシュテファン大聖堂の尖塔(左端)も見える。

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 アテナ像の下にあるこの優雅な像は、ドナウなどハプスブルク時代の領内の川を擬人化したものだそうだ。

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 王宮近くにあるパラヴィチーニ宮殿を見つけた。これはあの名作「第三の男」で、オーソン・ウエルズの友人が事故にあったとされる現場の建物だ。

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 ちょうどその前を馬車が通った。絵になるなあ。

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 玄関入口にはアントン・ツァウナーによる古典的な女性像が4体並んでいる。この像をある作家は「理想郷の泉のほとりで、水甕を頭に載せたまま井戸端会議に花を咲かせる娘たちのような風情」と描写している。確かにまったりした雰囲気だ。

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 王宮前に戻ると、また白馬の馬車が通りかかる。何とも中世風だ。

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 などと思いながら馬車を見送っていると、王宮のまん前にスターバックスの店があるのに気付いた。カフェ文化の誇り高いウイーンのど真ん中にもアメリカ資本の現代的な店が出来ていたことに、ちょっと意外な気分。

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 ウイーン伝統のカフェに行きたくなって歩いている最中に通りかかったミノリーテン教会で、これまた意外な発見をした。何と、内部にあのダヴィンチの「最後の晩餐」の絵が・・・。よく見るとコピーであることがわかるが、ミラノの絵がどうしてここに再現されているのかはわかりません。

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 カフェ・ラントマンに座った。クリムト、フロイト、マーラーらが訪れた歴史的なカフェ。日曜の朝は、朝食を摂る人たちでにぎわっていた。家族連れが多い中で、旅行者、カップル、老人。雑多な人たちののどかなおしゃべりが、高い天井に反響する。帽子をかぶり、十字架のイヤリングをしたレディの笑顔、政治面を読んでいるのか、額にしわを刻む老紳士、食器の触れ合う金属音。そんな人と音とが混じり合う空間を支配するのが、コーヒーの濃厚な香りだ。

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 窓の外にはヴォティーフ教会の絹糸のような細長い塔が見える。

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 遠くに通り過ぎるトラムの音を聞きながら、ヴォティーフ教会を建設したフランツ・ヨーゼフ皇帝の時代を想いながら、旅人はウイーンの朝に名残を惜しむ。

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ウイーン 最後の夜の街歩き

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 ウイーン滞在最後の日、中世ウイーンの名残を求めて街に出た。

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 グラーベン近く、ヴォーグナー小路にある16世紀創業というエンゲル薬局の壁面には、天使像が入口両側に描かれている。

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 服装の色合いが上品で、広げた羽根もまた美しい。

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 同じ通りにはこんな看板もあった。黒い駱駝館のラクダの看板。レストランだ。

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 次第に夕闇が迫ってきた。空がピンクに色づいて情緒たっぷりになるこの時間帯が、たまらない。

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 グラーベンの通りから少し奥まって建つペーター教会はウイーンで2番目に古いという。祭壇の美しさは格別なものがある。

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 珍しい楕円形の天井画が印象的。聖母被昇天が描かれている。

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 教会から出ると、外はすっかり夜。北側のクレント小路に足を踏み入れると、グラーベンの賑わいとは打って変わって静寂が支配する。石畳、オレンジ色の街灯、高さを揃えたバロックの館が緩やかなカーブを描く。

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 この道を今、例えばモーツアルトの遺体を載せた黒い馬車が通り過ぎても、全く違和感がないだろうと思わせる佇まいだ。

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 実はこの通りにある小さなレストランで夕食にしようと思っていたのだが、予約で一杯だった。仕方なく通り一つ隔てたビアレストランに入った。

 さあ、そろそろホテルに帰ろうか。

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 王宮のミヒャエル門をくぐった時、突然あの完璧なスタイルをしたシシーの幻が目をよぎった。よく見ると右側のドアが開いており、内部のシシー博物館の入口が見えたのだった。身長172cm、体重50kg、ウエスト50cmと、飛び切りの容姿を誇った皇妃エリザベートのシルエットが扉に描かれていた。

 今回は時間がなくてエリザベート関連の史料はほとんど見ることが出来なかったが、最後の夜にお別れのあいさつに出向いてくれたシシーに感謝!

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 さらに、新王宮の前に差し掛かると、玄関に次々と車が到着し、着飾った人たちが、壁面に沢山の国旗を掲げた王宮に吸い込まれて行く。そう、今夜もまた、王宮で舞踏会が開かれるのだ。

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 こうしてウイーンの早春は軽やかに暮れてゆき、広場の片隅では、香水の残り香が束の間の華やかさを漂わせて、消えた。

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ウイーン 美しきランタン小路からドナウ運河へ

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 美術関係の話から、街歩きに戻ろう。シュテファン大聖堂の北側、ベッカー通りには、活版印刷術の発明で有名なグーテンベルグの像が建っている。彼はドイツ人で、ウイーン出身でもないが、この界隈には印刷所が多くあったことからこの像が造られたといわれている。ここから通りを東に進む。

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 途中、右に折れると皿より大きなウインナ・シュニッツェルを提供することで有名なレストラン「フィグルミュラー」の店がある。

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 食の誘惑に負けずにまっすぐ進むと、左手にあるのがイエズス会の大きな教会。イエズス会は反宗教改革の先鋒として豪華な教会建築で人心を引き留ようとしたことでも知られる。ローマのジェズ教会などはバロックの豪華建築の代表だ。

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 その例にもれず、この教会も豪華。

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 この天井は実は平面。いかにもクーポラがあるようなだまし絵のフレスコ画になっていた。

 その先辺りからシェーンラテルン小路が始まる。

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 道なりにカーブして行くと、怪物バジリスケンの看板がみつかる。バジリスケンとは、雄鶏とヒキガエルの子供で、一睨みで生き物を殺してしまうという伝説上の怪物だ。人々はこの怪物に苦しめられていたが、ある日、勇敢で頭の良いパン職人が、大きな鏡を持ってバジリスケンに立ち向かった。バジリスケンはその鏡で己の姿を見た瞬間、にらんでしまい、自らが死んでしまったという。その怪物の名前を付けたレストランだ。

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 すぐ向かいにポツンと一つの街灯が壁に取り付けられている。これが小路の名前の由来となったランタン。シェーンラレルンとは、美しいランタンの意味。昼はどう見ても美しいというほどではない。でも、夕方灯がともる頃には情緒たっぷりの小路になるのだろう。

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 斜め向かいのピンクの建物2階付近に銘板を見つけた。「シューマンがここに半年住んでいた」と書いてある。

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 すぐ近くの壁画も美しい。

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 また、こんなカギの看板も。「アルテ・シュミーデ」という鍛冶工房だ。

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 さらに北上すると、バグパイプを吹く男の看板が見つかる。この男はアウグスティン。17世紀のペスト大流行時期に、酔ってペストの墓穴に落ちたが、翌朝何事もなく生還して伝説の男になった。

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 そんな看板を掲げた店「グリーヒェンバイスル」のある通りは、ゴシック風な趣のある小路になっている。

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 こんな双頭の鷲の看板も。

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 そのすぐ先には、オットー・ワーグナーのモダンデザインで知られる郵便貯金局がある。

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 業務中なので、そっと少しだけ写真を撮らせてもらった。ガラスの天井に、アルミをふんだんに使ったしゃれた意匠。1912年当時の超モダン建築だ。

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 裏手から通りに出ると、すぐそこはドナウ運河だ。ドナウ川の本流はさらに2キロほど北東側を流れており、旧市街に接する運河は洪水などを制御しやすくするために造られたものだ。

 ドイツに源を発したドナウ川は、オーストリアを横断した後ハンガリー平原を蛇行しながら南下。ベオグラードやブカレスト付近を経由して黒海に注ぐ。つまり、ヨーロッパ内陸の主要国を貫いて、水運の重要航路として機能してきた。「文明の生成は異なる文化の遭遇によって触発されるものだ」(アーノルド・トインビー)との指摘の通りに、ハプスブルクの百花繚乱は、ヨーロッパのゲルマン、スラヴ、ラテンの三大文化が、ドナウを介して相互に触発され、融合された結果生み出されたものなのだろう。

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 新装オープンした船着き場からは、ブダペストやブラチスラヴァへの定期船が当たり前のように運行されていた。

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エゴン・シーレ 拒絶の絵画

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 左腕を膝に 右手を胸に当て  思い切り両目を開いている

 やっと拓ける未来に向けて   あらたな夢を見つめる目だ

 懐には 妻   その妻の足元に 赤子

 妻は新たな命を宿していた   

 少し先には確実に訪れるであろう  理想の家族の姿に思いをはせて

 まだ見ぬ赤子をも含めた そこにあるべき形を描いたのは

 シーレ28歳のときだった

 だが 妻の眼差しは  どこかうつろだ

 忍び寄る病に  怯えているかのように

 同じ年 スペイン風邪がヨーロッパ全土を襲った

 妻は病に倒れ 我が子にこの世の光を与えることもできないまま

 ともに天国に旅立つ

 その三日後 シーレもまた 同じ病で命を落としてしまう

 永遠に実現せずに凍りついてしまった  家族の姿

 赤子の無垢な表情が その絶望を一層 深くさせる

 特別展が開かれていたベルヴェデーレ宮殿で、エゴン・シーレの「家族」と対面した。少し照明を落とした仄暗い室内だというのに、強烈な個性を発散するシーレの作品群。その中でも特に、今にも激しい慟哭が聞こえてきそうな作品が この絵だった。

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 そして向かい側に飾られていたのが「死と乙女」。「家族」から溯ること3年。1915年は妻エディットと結婚した年だ。それまで一緒に住んでいた女性がいた。名はヴァレリー。彼女は4年にわたってシーレに忠実に尽くしてきた。だが、シーレは結婚相手には別の女性を選んでしまう。 それがヴァレリーにどれほどのダメージを与えたかは、シーレ自身がよく知っていた。

 ここにいる乙女はヴァレリー。死はシーレ本人だ。しがみつく骸骨のような細い腕の 何という頼りなさ。相手との絆を断ち切られた深い悲しみでもう既に、心はうつろだ。対して、怯える目のシーレ。どうにもならない自らの打算とエゴイズムへの罪悪感。ヴァレリーは間もなく、志願してバルカン半島の戦場に赴き、あっけなく命を絶った。

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 カプチーノ教会でハプスブルク家の棺の列を見た翌日、シーレの絵に接した。会場の出口付近には死の床にあるシーレの写真が展示されていた。ウイーンに死の香りが立ち込めていると感じたのは、まさにこの街が、激しい死とのかかわりを幾重にも積み重ねてきているからなのだろうか。

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 レオポルド美術館は、まさにシーレの美術館と呼んでもよいほどにシーレコレクションが充実している。彼は数多くの自画像を残しているが、その中の一枚「ほおずきのある自画像」は、別の一枚と左右対称になるように描かれた。

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 それが「ヴァレリーの肖像」。この絵が描かれた時期は、少女誘拐容疑で逮捕されたりして不安の中にあったシーレを、ヴァレリーが懸命に支え、二人の絆が深まった頃だった。

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 まさに、レオポルド美術館の前の道路には、その2枚の絵を合わせて造られたポスターが飾られてあった。

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 「隠者たち」(1912年)

前の若い男はシーレ自身。背後から抱きつくのはクリムト。二人の親密さの一方で、シーレが浮かべている不敵な面構えは、クリムトからの精神的自立をも表わしているのだろう。父親ともいうべきクリムトを敬愛しながらも、個性の違いは必然的に師から離れなくてはならない状況を造り出す。世紀末という時代もまた、それを求めていた。

 クリムトの時代はまだ主観主義と客観主義との間に均衡が保たれていた。だが、シーレの時代には主観は強く解放を求める。そんな葛藤する心が、この絵にも鮮明に表れているように見える。

 シーレはこの絵についてこう語っている。「これは灰色の天国ではありません。二つの肉体がうごめく陰鬱なこの世の姿なのです。(中略)この二つのシルエットは、形を取ろうとしても力なくすれ違ってしまう、地面を舞う土煙のようなものとみなさねばなりません」

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 「母と娘」(1913年)

 長い髪を束ね、やせ細った娘が必死にすがりついている。母は正面を向いてはいるものの、娘を抱き締めるわけではなく、半ば戸惑っているかのようだ。鮮やかな赤いドレス、それは母としてではなく女として生きようとする決意の表れなのか。暖かい家族の触れ合う瞬間には、どうしても見えない。「母と娘」というタイトルから受けるイメージとは遥かに離れて、画面一杯にあふれるのは、緊張感。この二人はこれからどこに歩んで行くのだろうか。短い生涯の中で安らぎの場を持てなかった足跡が、この絵からも浮かび上がってくるようだ。

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 特別展開催中だったことで、シーレの作品「エドヴァルド・コスマックの肖像」のポスターが、市内各所に張り出してあった。夜、レストランからの帰り道、ばったり出会ったエドヴァルドさんの鋭いまなざしに、びっくりさせられた。

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クリムトを追って 4 応用美術博物館、レオポルド美術館

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 クリムトを追ってウイーンの街を巡る試みも、今回が最後となる。上に掲げたのは後期の傑作「死と生」の部分。タイトルは緊張を覚えさせるものだが、このように生の側に描かれた母と子の柔らかく豊かな表情は、金の装飾の時代とはまた違った魅力にあふれている。

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 少し溯ってクリムトの足跡をたどって見る。オーストリア応用美術博物館には貴重な作品が収蔵されている。ストックレー邸食堂壁面に描いた装飾の下絵がここにあるのだ。

 ベルギーの実業家アドルフ・ストックレーはウイーン在住中にウイーン工房の主宰者ヨーゼフ・ホフマンに邸宅の設計を依頼した。ただ、彼の父が死亡し、その邸宅はブリュッセルに建設されることになった。ヨーゼフは友人クリムトに壁面装飾を依頼して、部屋の三方の壁を飾る「生命の木」シリーズの9点の下絵を描いた。

 向かって左側に描かれたのは「憧憬」。若い女性が何かに気付いたかのように後ろを振り向き、両手で異様に長い頭を抱えている。その手の形はまるで日本の鼓を抱える女性のようだ。体を包むのは鋭くとがった三角の黄金。目は強い力を放ち、ある一点を凝視している。その視線の先にあるのは生命の木。隅々まで枝が自由に広がっている。

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 対して、右側にある「成就(充足)」は、抱き合う男女だ。ここの女性からは視線が姿を消して眼は閉じられ。直線的な腕で男の背中を捉えている。男の顔は見えない。太い輪郭からは安定の安らぎが漂う。そして、こちらの服に描かれる中心的な図形は丸。憧憬から成就への移行を象徴しているようにも見える。

 抱き合う男女のモチーフは「ベートーベンフリーズ」の中の「歓喜」(1902年)、この「成就」(1905~9年)、そしてベルヴェデーレ宮殿の「接吻」(1907~8年)と3回登場するが、「歓喜」に比べるとさらに装飾性が強まり、クリムトの装飾絵画の独自性がひとつの極みに近付いている作品と感じた。

 そんな傑作のあるストックレー邸だが、その建物の内部は専門家も含めて一切外部の人間には公開しておらず、完全に幻の絵となってしまっている。

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 この博物館特有のすばらしいコレクションがある。椅子コレクションだ。

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 陳列の方法もユニーク。部屋に入ると中央通路からはカーテン越しの椅子のシルエットだけが見える。

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 脇に回ると、こんな風に実物も見ることが出来る。椅子の形も展示法も遊び心いっぱいの空間だった。

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 このクリムト探訪の旅で最後に訪れたのはレオポルド美術館。美術史美術館の裏側に出来たミュージアム・クオーターの中にある。ここにはウイーン大学講堂のために描かれた天井画の写真が飾ってあった。

 1894年に依頼を受け、約10年の時を経て完成した3点のうち2点。こちらは「医学」。大学側から教育の場に飾るにはふさわしくないとの激しい批判と攻撃の嵐にさらされた。素裸の女性の描写などが、お堅い大学の教授たちにはお気に召さなかったためだ。

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 こちらは「法学」。

 クリムトは結局これらの絵を自分の手元に買い戻してしまった。その後彼は公的な仕事には一切関与しなくなってしまう。これらの作品は個人コレクターの手に渡ったが、1945年、疎開先でナチスの放った火によって焼かれてしまった。これもまた幻の作品となった。

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 クリムトの黄金様式は1910年頃には終わり、その後は暖色系の色彩を多用した作風に変わって行く。この美術館に展示されている「死と生」は骸骨こそいるものの、「生」の部分の女性たちの笑みを含んだ柔らかい表情は、見る者を包み込む温かさにあふれている。

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 その暖かさと陶酔感は、プラハ国立美術館で出会った「乙女たち」からも同様に感じられた。

 クリムトを追って訪ねた場所はプラハを含めると7つ。生涯のパートナーだったエミーリエ・フレーゲの肖像画のあるカールスプラッツなど、時間がなくて行けなかった場所もあったが、クリムトのたどった変遷の概要くらいは見ることが出来たかなと思う。それにしても、画家の人生の奥深さには打ちのめされるくらいの強い印象を覚えた数日間だった。

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クリムトを追って 3  分離派会館、ベルヴェデーレ宮殿

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 クリムトら若い芸術家が既成の芸術界に飽き足らず、新たな芸術運動を起こそうと建設した「分離派」の拠点「分離派会館」を訪ねた。

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 「時代には時代の芸術を 芸術にはその自由を」。あまりにも有名な言葉が記された“黄金の玉ねぎ”の建物は地下鉄カールスプラッツ駅近くにあった。建物の設計はヨーゼフ・マリア・オルブリヒ。

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 たまたまこの日は閉館してしまっていたので、壁面観察を始めた。まず目につくのは、内部にある「ベートーベンフリーズ」にも登場するゴルゴン3姉妹の顔。3人の髪の束から3匹の蛇がとぐろを巻いている。

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 その下側には下向きになったトカゲが2匹。

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 入口の両脇に据えられた大きな甕を支える4匹ずつ、計8匹のカメもいる。

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 側面に回って見る。アールヌーボーの植物の茎と葉が流れるように描かれた壁の、奥の棟の壁面に、何かいる。

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 フクロウだ。3匹1セットのフクロウ君たちが、両側面合わせて4組、12匹が浮き彫りになっていた。

 つまり、この建物の側面だけで25匹もの動物がうごめいている勘定になる。こんな遊び心満載の建物であることに、今回初めて気付いた。

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 「時代には・・・」の言葉の他にも、正面の壁に「VER SACRUM(聖なる春)」の文字がある。これは1898年の会館建設と同じ年に発行開始した機関誌の題名でもある。

 実はこの1898年は、あの皇妃エリザベートがスイスで無政府主義者によって暗殺された年でもあった。まさに、世紀末の不穏な空気が漂う真っただ中でのスタートだった。

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 別の日、ベルヴェデーレ宮殿に行った。ここの上宮はオーストリア・ギャラリーとして19・20世紀美術館になっている。

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 ここを最初に訪れたのは11年前になる。開館と同時に入館し、一目散にクリムトの部屋に進んだ。その時ちょうど、係員が窓のカーテンを開いた。夏の日がすっと室内に差し込み、窓と平行に飾られていた「アデーレ・ブロッホ・バウアーの肖像1」を照らしだした。金と銀とで仕上げられた彼女の服の、特に銀の部分がキラキラと白く輝き出し、日差しの及ぶ個所が次々とさざ波のようにきらめいたことを、まるで昨日のように思い出した。

 その作品は、今はもうこの美術館にはない。ナチスに没収された絵画の、旧持ち主への返還措置が決定され、いろいろな経緯を経て、今ははるかニューヨークのノイエギャラリーに移されてしまった。

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 しかし、クリムトの代表作「接吻」は健在だ。圧倒的な存在感と孤独感。相矛盾するような2つの感覚が、頭の中で渦巻いている。顔の精緻な描写と、パターン化した服装の文様、花園の楽園か崖っぷちの死の淵か。いくつもの対照を絵の中にはらみながら絢爛たる瞬間をつきつけるこの絵は、やはり特別な存在なのだろう。

 正面に立って見つめた後、細かな描写を確かめようと少し前に寄った。その時、男のまとった衣装の金がきらめいた。頭上の照明が、ちょうど絵のゴールドの光沢を輝かせる角度に入ったのだろう。100年前の、クリムトがカンパスに塗りこんだばかりの金の光を、直に体験したような錯覚を味わうことが出来たのだった。

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 また、11年前にウイーンでポスターを買い、ずっと自宅に飾っておいた「アッター湖畔の並木道」の実物にも再会できた。クリムトには珍しい、ゴッホ張りの骨太なタッチで描かれた風景画。こんなクリムトも好きだ。

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 ハプスブルクの将軍オイゲン公が建築家ヒルデブラントに依頼して建設したベルヴェデーレ宮殿の庭には、スフィンクスのような彫刻が置かれ、遠くにはシュテファン大聖堂が見える。クリムトの絵で圧倒された後、しばし休息をとるのにちょうどよい場所だった。

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