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2011年8月

プラハ旧市街地で中世の夜を味わう

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 プラハの街並みにはどこか中世の香りが漂う。まして、細い三日月の昇る夜はより一層濃厚に中世を感じてしまいそうだ。そんな空間を求めて夜の街に出かけた。

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 市民会館のある共和国広場に出ると、ホテル・ゴールデン・ストーンのビルが早くからライトアップを始めた。

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 そのビルの西側奥には旧市街広場にそびえるティーン教会の尖塔がシルエットとなって小さく見えている。

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 ヴァーツラフ広場に通じる通りもうっすらと夕暮れの装いだ。丸い街灯が良い雰囲気。

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 でも、市民会館は屋根の部分が少しポッと明るくなったくらいで、全体的には暗いまま。今日はライトアップはないようだ。

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 ホテル側の通り上空は美しいブルーに染まり出している。

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 市民会館隣の火薬塔も、ライトアップはなさそう。それで、ここでの撮影は諦めて、旧市街広場に向かう。

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 ホテルパジーシュ横では、見事にアズーリに染まった空に出会えた。

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 広場の裏側に来た時、ちょうどティーン教会の尖塔とほぼ同じ高さに三日月が輝いていた。こんな光景を、何世紀も前のチェコ人たちも見ていたのだろう。

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 広場に入って、表側から見たティーン教会。中央の壁面にはマリア像が白く輝いている。

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 西側にはミクラーシュ教会。

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 その教会と競い合うようにヤン・フス像が、今しがたすっくと立ち上がったばかりのように凛々しく前を向いている。まさにここは15世紀の世界。

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 向かい側に建つ旧市庁舎を包むかのように、ちょうど薄雲がたなびいて、嵐の前の静けさ、といった風情になった。

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 この広場には何度も来たのに、名物の時計を撮っていなかったことに気付いて、1枚だけ。

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 カレル橋側からの旧市街広場入口付近で、市庁舎、ティーン教会の両方が1枚の写真に収まる定番ポイントでシャッターを押した。名残惜しさに、ここの前にあった出店でホットワインを買い、いつまでもこの光景を見つめ続けていた、この夜広場に居たたった一人の日本人が私だった。

 


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マサリク堤防沿いの建築群 壁面装飾

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 午後になると、春の太陽は急速に南西の空に傾き始める。そんな時間帯にヴルタヴァ川沿いに建ち並ぶマサリク通りを眺めると、まるで壁面に金箔をはったかのようにキラキラと輝きを増して行く。そんな建築群を散歩がてら観察に出かけた。

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 この通りは国民劇場から始まるが、その向かい側224番地に建つ館は、旧東ドイツ大使館。今はゲーテ・インスティチュートというドイツ語の学校になっている。

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 入口のガラス面や扉の装飾も凝っている。

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 屋上には黄金の太陽、翼を広げた鷲もいて、賑やかだ。

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 236番地の黄色いビル中央壁面には「いざ出陣」と張りつめた表情の戦士が張り付き、足元には町の様子を描いた壁画が飾られている。

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 その隣の玄関には大皿?を抱えた2人の子供が向かい合って立つ。

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 234番地、鳥の家と呼ばれる館にはあちこちに鳥があしらわれている。

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 その玄関のフクロウが、最も象徴的。

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 238番地は玄関両側に上半身裸のうつむく労働者が、労働の真っ最中だ。

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 248番地は、この通りでも最も有名なフラホル合唱団の館。3階壁面の4体の彫像が一番目立つが、もう少し近寄って見よう。

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 アール・ヌーヴォー調の壁面装飾がたっぷり施されている。下面に黒い3つの鉄板のようなものが見えるが、これはスメタナなどプラハの代表的音楽家の肖像だ。

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 そして、入口に描かれた七色の鳥の羽根の装飾。見事な装飾に見入ってしまった。

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 少しへこんだ通りの建物にあった女性像。堂に入ったポーズなど、もう少し埃を拭いたら見事な像なのだろうが、汚れ具合がちょっと残念だ。

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 小さな広場に面した角の建物はご覧のように彫像のオンパレード。

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 少しアップしてみると、こんな具合。ここの先には以前紹介したポストモダンのダンシングビルが建っている。

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 国民劇場まで引き返して、その向かいにある「カフェ・スラヴィア」に入った。この大きなビルの1階。滞在中、この通りを走る17番トラムを何度も利用し、その度に一度は入って見ようと思っていたカフェだ。

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 ウイークデイの午後とあって、何やら商談をするビジネスマン、買い物帰りの母娘、ゆったりと新聞を読む紳士など客層はさまざま。春江一也唯一の秀作「プラハの春」でも主役のカテリーナと豪介がこのカフェで語り合う場面が描かれている。国民劇場の隣りとあって演劇の場面を映した写真があちこちの壁に貼られてあり、ヴルタヴァ川の流れを眺めながらゆったりとひと時を過ごすには格好の場所だった。

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ヴィシェフラド  プラハのルーツ、偉人たちの眠る場所

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  チェコにはこんな伝説がある。7世紀、ヴィシェフラドという土地にリブシェという美しい姫が住んでいた。彼女はヴルタヴァ川を遥かに見下ろす丘に立ってこう宣言した。「ここに大きな町を造るがいい。その町をプラハと名付けよう」

 それから1400年もの歳月が流れ、まさにリブシェが宣言したその場所に、プラハの街が広がっていた。

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 トラム17番に乗ってヴィトン停留所で降り、キュビズムの住宅を左手に見ながら坂を上って行くと、高い2本の塔を持つ聖ペテロ聖パウロ教会が見えてくる。

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 教会の先の公園の一角に、リブシェの沐浴場と呼ばれる展望台があり、ここがビューポイントだ。

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 ちょうどヴルタヴァ川が蛇行する地点を間近に見ることが出来る。

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 そして、パラツキー橋を手前にして、プラハ城を含む川の左岸全体が一望できる。それはまさに、リブシェが思い描いた、美しく繁栄するプラハの今日の姿だ。

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 ここには大きな墓地が作られている。浅い知識ながら、知っている著名人の墓探しを始めた。すぐに見つかったのが作曲家スメタナの墓。周囲の群を抜いて大きな角柱が目印だ。彼の代表的な交響曲「我が祖国」の第1楽章のタイトルは、「ヴィシェフラド」。ここに造られた大きな城にまつわるエピソードが歌われて、私たちがよく知る第2楽章「ヴルタヴァ(ドイツ語でモルダウ)」へとつながって行く。そんな歴史と川の流れが感じられる場所で、スメタナは眠っている。

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 もう一人の有名な音楽家ドヴォジャーク(ドボルザーク)の一際大きな墓は、墓地を囲む塀沿いにあった。胸像は威厳たっぷり。交響曲第9番「新世界より」のような情感あふれる曲を作った人の顔とは思えない強面の感じ。

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 カレル・チャペックの墓を見つけた。「ロボット」という言葉の生みの親であるチャペックの墓は、ロケットのような変わった形。

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 本を模った石碑に名前が刻まれている。科学が本来の役割を外れて戦争の道具になり、人類を不幸にするという、社会の危険性を指摘した作家でもあった。

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 もう一人、アルフォンス・ムハ(ミュシャ)の墓があるはずだと、何回も墓地を回ったが、どうしても見つからない。そんなところに墓掃除の係員が来たので尋ねると、すぐそばのスメタナの墓の先を指さす。いや、その辺りは見たはず。大きな石碑がどんとあるだけだ。でも係員は「そこだよ」。そう強調されて、もう一度石碑の周りをゆっくり眺めて見た。

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 あ、あった!大きな石碑を何十もの黒い墓石が囲んでいるが、その中の1つに名前が刻まれていた。

 独立した立派な墓石を想像していただけに、拍子抜け。聖ヴィート大聖堂のあの素晴らしいステンドグラスを思い起こしながら、改めて手を合わせた。

 パリでの大成功の後プラハに帰ったムハが、あのステンドグラスを製作したのは71歳の時。さらに大作「スラヴ叙事詩」を描き上げたが、ナチス侵攻時、チェコの民族意識を強調する危険人物とされてゲシュタボに逮捕され、健康を害して間もなく命を落としてしまった。77歳だった。

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 この墓地には著名人以外にもユニークな墓がいくつか見受けられた。この細い女性像は、彫刻家オルブラム・ゾウベック作。

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 だれか芸術家の墓だろうか?とても前衛的。こんな光景に、この墓地を「死者のギャラリー」と呼んだ作家もいるという。

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ヴァーツラフ広場 プラハの春と崩壊、ビロード革命

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 今日は8月20日。43年前のこの日、世界の歴史に刻まれる、ある事件が起きた。その現場はプラハ・ヴァーツラフ広場。

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 ヴァーツラフ広場は、華やかな演劇の舞台のように目の前に広がっていた。

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 両側に建ち並ぶ宮殿とみまごう建築群に挟まれた縦長の広場は、750mの先に国立博物館が偉容を見せる。1348年に造られたこの広場は、チェコを揺るがす様々な歴史的事件を見つめてきた。

 1968年、共産主義時代のチェコで民主的改革を唱えたドプチェク政権は、検閲廃止、集合・結社の自由など人間の顔をした社会主義を進めようとした。しかし、これをソ連への反抗とみなしたワルシャワ条約機構軍は、このヴァーツラフ広場に戦車を乗り入れ、チェコ全土を制圧した。「プラハの春」がもろくも崩壊した瞬間だ。そのソ連侵攻が43年前の8月20日だった。P3075114


 その時、市民たちは非武装での抵抗を続けたが、圧倒的な武力の前には空しかった。ただ、チェコ人が言葉の民であることを象徴するこんなエピソードがある。侵攻に対して、市民たちの抵抗は戦車の兵士たちに語りかけることで説得を試みた。そんな中、「反革命分子の一斉摘発」(ソ連の意向に反する人間狩り)の情報が流れると、一夜にして街路名、番地、アパート名などの標識や文字が一斉に撤去された。地理に疎い外国人たちの摘発を極力遅らせるための非暴力の抵抗だ。そして、この広場への「自動車進入禁止」の標識が「戦車侵入禁止」に替えられ、残った標識は「モスクワへ1800キロ」だけだったという。したたかな国民性を表わす話だ。

 こうした記録は、先日まで恵比寿の東京都写真美術館で開かれていたジョセフ・クーデルカの写真展「INVASION PRAGUE 68」でも見ることが出来た。

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 広場の一角に小さな碑が作られている。武力侵攻に抗議して焼身自殺した若者の記念碑だ。

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 青年の名前は大学生ヤン・パラフとヤン・ザイーツの二人だ。パラフは遺書に「絶望の8月を忘れるな」と書いた。

 また、ドプチェクを始めとした改革派は大使から医師まで公職追放され、掃除人夫に身をやつした。その当時の様子を克明に描いたのがミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」だ。これはフィリッピカウフマン監督によって映画化されたが、当時のヴァーツラフ広場の実写が使われている。

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 不屈の精神は脈々と受け継がれ、1989年11月には、一滴の血も流さないビロード革命によって共産主義政権は崩壊、この広場を30万人の市民が埋めつくした。この像は聖ヴァーツラフ。

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 その市民たちの前で、新大統領に就任することになるヴァーツラフ・ハヴェルが高らかに勝利を宣言した。ハヴェルは軍人でも政治家でさえなく、当時は劇作家だった。

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 そんな広場で一際目につくのが、ホテル・エウローパ。

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 屋上部分には浮かぶように立つ女性たちの像、半円形に仕切られたスペースにはHOTELの文字が入り、至る所にアールヌーヴォーの装飾が施されている。

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 繋がっているHOTEL MERANの壁面にも天国の自然を表現したという優雅な装飾が広がる。ちょうど陽を浴びる時間帯だったので鮮明な姿を見ることが出来た。

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 その少し南にある「ペテルカ館」は、建築家ヤン・コチュラの最初の本格作品だ。プラハのアール・ヌーヴォーの中でも指折りの名建築。

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 最上階の窓に素晴らしい群像が据えられ、その下の階の彫刻と共に劇的空間を見事に演出している。コチュラは次第に合理主義建築に移行して行くが、この建物は装飾的要素を盛り込んで、初期の傑作として評価されている。今はこのビルにH&Mの店が入っていた。

 そんな訳で、ヴァーツラフ広場は今、市民たちの集いの場になっている。

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パリ通りの壁面装飾下 プラハのアールヌーヴォー

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  96番地「ヴィーナスの競演」

 

 螺旋階段のビルの隣りの玄関。フクロウを挟んで向かい合った豊満な2人のヴィーナスが、お互いに自分のスタイルを競い合っているようだ。壁には花模様がちりばめられ、角には母子像の絵画も飾られて、建物全体が輝いている。以前はこの建物は娼婦の館だったとのことだ。

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 68番地「メリクール像」

  このビル屋上には商業の神様・メリクール像が手を挙げている。まるでこれから空へ飛び出すかのような軽やかな姿が印象的。ここはグッチの店が入っていた。

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 同「ダンスはまかせて」

 天を仰ぎながら、今にも踊り出しそうな2人の女性。間もなく本番を控えたダンサー達のようにうきうきした雰囲気が漂う。

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 旧市街広場のビル群

 ここからはもうパリ通りの終点・旧市街広場になる。その向かって一番左のビルから。

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 パリ通り角「苦役に耐える」

 先ほどの女性たちとは全く反対に、厳しい労役中といった彫刻。でも、いつかはこの苦しみから抜け出していつかは我々の理想とする社会を、と内に闘志を秘めて耐えているイメージが伝わってくる。

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 夜に見ると、なおさらそんな苦しみのイメージが増幅する。

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 934番地「秘密の発覚」

 隣のビルには2階バルコニーで、何かを指摘するように指さす女性と、たじろぐ女性。今まで隠していた秘密が暴露された瞬間の劇的な場面に見える。

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 チェコ通産省ビル「勝利を我らに」

 先ほどの旧市街広場写真の左から3番目のビル。アオルヌーヴォーの華麗な装飾が素晴らしい。屋上の兵士は高らかに勝利を宣言しているかのようだ。

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 2階部分の中央には王冠が備えられ、甕を持つ2人の天使が祝福している。

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 カプローヴァ通り16番地「プラハの人魚」

 両手を軽く上げ、両サイドに合計10匹の鯉に囲まれた像は、まるで水辺に浮かぶプラハの人魚のようだ。

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 1067番地「健やかに育て 我が子よ」

 ルネサンス期などの母子像とは全く違う、かなり現代的な構図の母子像だ。

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 ビルコーヴァ通り132番地「5人の労働者」

 ビルコーヴァ通りを市民会館側に進むと、労働者たちが腕を組んで待ち受ける。レンガ色の建物だけにいかにも日焼けした労働者風だ。

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 カフカの生家

 カプローヴァ通りに入る角にはフランツ・カフカの生家があった。城、変身など不条理の小説で有名だ。今はここが博物館になっている。

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 すぐ近くにはカフェ・カフカも。

出来るだけ建物の順序に説明したつもりだが、番地の数字はかなり不規則に付けられており、完全に正確でない部分もあるのはお許しください。装飾の名称は、姿の印象などから勝手につけたもので、一般的に決まった名称はありません。なお、「プラハのアールヌーヴォー」(田中充子著)を参考にしました。

 

 ふと気づいたら、13日にアクセス数10万件を突破していました。最近は1日200件を超える日もよくあります。本当に読者の皆様に感謝です。

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パリ通りの壁面装飾 上

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 プラハで最も魅力的な通りの一つは、旧市街広場からチェコ橋につながるパジースカ(パリ)通りだろう。その街並み散策に出かけた。

 この通りはプラハの都市大規模再開発によって生まれた新しい道だ。この地区はユダヤ人たちの居住区を塀で取り囲んだ閉鎖的なゲットーだった。だが、その中でも豊かな層は快適な別の場所に引っ越し、そこに移住した低所得のチェコ人と残された貧しいユダヤ人のスラム化した状況が続いていた。そんな中、1891年の産業博覧会開催などで意識に目覚めた国が、スラムクリアランス法を制定して、スラム解消の再開発に乗り出した。

 19世紀半ば、オスマン知事によって都市改造に着手したパリ、城壁撤去を機にリンク通りを造ったウイーン。それらの都市にわずかに遅れたが、内容は抜本的なものだった。この地区に約600軒あった建物は高さを揃えた83軒のビルに整理され、10本の直線道路が造られた。その際、建築様式はアール・ヌーヴォーが採用された。この頃ヨーロッパではアール・ヌーヴォーは衰退の兆しを見せていたが、プラハではそれに様々な別様式も加味し、意匠を凝らした百花繚乱の街並みが形成されて行った。

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126番地 「王と王妃」
 

さあ、そんな街を、チェコ橋そばのインターコンチネンタルホテル側から歩きだした。いろいろな姿をした像たちには勝手にタイトルを付けて遊んでみよう。126番地のビルにはこんなレリーフが。君臨する王夫妻が幸せそうに互いを見つめ合っている。

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 同「隙あらば・・・」

 だが、その下の階では、家臣と思われる男が隙あらば謀反でも起こそうかといった風情で街を見下ろす。

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 同「私は中立」

 その中間にいる壁の女性は、馬耳東風。私は政治には無関心・・とでも言いそうな気楽なムード。

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 シロカー通り角「ロシア生まれの娘たち」

 荷物を背負った2人の娘。1人はつぼを手に、もう1人は肩に載せている。この2人はビルのオーナーの娘で、ロシアで生まれたのだそうだ。このビルは今プラダの店になっている。

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 130番地「見返り美人」

 菱川師宣の浮世絵のチェコ版。振り返る女性のレリーフ。ただし、こちらは大胆な格好。

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 97番地「聖イジーの竜退治」

 ビル4階角で槍を振り上げる戦士は聖イジー。伝説に基づくエピソードで、聖ヴィート大聖堂横の庭にも同様の像があった。このビルには面白い顔が集まっている。

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 同「俺たちは知っている」

 2階部分には深刻な顔をした男たちが額を寄せ合っている。「沢山の困ったことを、俺たちは知ってしまった」

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 同「神よ助けたまえ」

 なんとか今の事態を立て直さねば。神よ我々にお恵みを!

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 同「偵察中」

 玄関入口では兵士たちが中をうかがう感じ。中には何があるのだろうか。じゃあ、中に入って見ようか。

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 同「輝ける螺旋階段」

 入って見ると、階段好きの私としては歓声を上げたくなるような素晴らしい螺旋階段があった。管理人の叔父さんに撮影の許可を求めると、あっさりOKが出た。

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 螺旋のグラデーション、上から差し込む光の明暗の具合など、素晴らしい。有難うと、礼を述べると、叔父さんは「それはよかった」と、私の肩をたたきながら一緒に喜んでくれるなど、とてもフレンドリーな人だった。

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朝霞彩夏祭 よさこいソーラン踊り

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  先日の日曜日、ちょっとした縁で朝霞市の彩夏祭という夏祭りに行ってきました。そこで、はつらつとしたよさこいソーラン踊りの競演に出会ったので、その模様を少し紹介しましょう。(プラハシリーズは1回お休みです)

 この祭りは第28回目。よさこいフェスタが加わったのは平成6年からということです。約50組のグループが朝霞市青葉台公園などで踊りを披露しましたが、その中から数チームをピックアップしてみました。最初は「朝霞なるこ遊和会」。地元のチームで1994年結成と経験豊富。

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 表情豊か。はつらつぶりが伝わってきます。

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 各種大会での受賞歴もあるようで、元気一杯。

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 しっかり後継者も育っているようですね。

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 「TAKEKO」。名前の由来は不明ですが、昨年結成の若いチーム。先頭集団の演舞は迫力に満ちていました。

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 こんな熱演に、ついこちらも引き込まれてしまいます。

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 リズミカルな感じが伝わるでしょうか。

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 このチームは衣装が3つに分かれていて、赤いほうのグループはしなやかさ担当といった感じ。

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 猛暑の中でも軽快な動きです。

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 「粋(いっき)」。朝霞のチーム。統制のとれた演舞で、挙げた手もしっかり揃っています。

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 「銀輪舞隊」。2000年結成の東京のチーム。江戸・元禄を思わせる衣装に身を包んでさっそうと登場。のっけからダイナミックに走りだしました。

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 かと思えば、静の瞬間の決めポーズもばっちり。

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 群を抜く演技は、他のチームにはない独特の雰囲気も相まって観衆をぐんぐん引き込んでいきます。

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 このチームに出会えただけでも、彩夏祭に出かけた甲斐があったと思える内容でした。

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 ただ、今年はあの東日本大震災を忘れることはできません。このフェスタには福島のチームが特別参加していました。特別な衣装は着ていませんでしたが、ある少女のTシャツの背中にはこうプリントしてありました。

 今、僕らは 生きているか?

 明日も 生きていたいか?

 この子供たちが「明日も絶対生きていたい」ーと断言できる環境を早く造って行かなければ、と強く思う瞬間でした。

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プラハの夜景 チャペックの言葉

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やっとプラハ城のライトアップが始まった。薄明かりの残る空を背景に、聖ヴィート大聖堂の尖塔がすっくと立ち上がってきた。

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 正面のヴルタヴァ川越しに見えるスメラノーヴォ通りの家並みは、整然とした姿を見せる。左端にスメタナ博物館、その奥にティーン教会、まん前の位置中ほどの黒い三角帽子のような屋根は火薬塔だ。

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 北側にはルドルフィヌムが一段と明るく見えている。この中にあるドヴォジャーク(あの「新世界交響曲」を作曲したドヴォルザークの現地読み)ホールは、市民会館のスメタナホールとともにプラハの春音楽祭のメイン会場となる。「遠き 山に 日は落ちて・・・」という歌詞がこの風景を見ているうちに思い出された。

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 徐々に暮れてゆくプラハ。それと反比例してプラハ城は輝きを増して行く。

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 マラー・ストラナ地区は照明を受けた聖ミクラーシュ教会だけが明るく、周囲は青い闇に沈もうとしている。

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 チェコの国民的作家カレル・チャペックは、愛する祖国の中心地・プラハの夜の光景を、自身の著書の中で次のように描写している

「フラッチャーニ城(プラハ城)は照明灯の光線の中で、以前よりもっと明るく輝くき、電灯の花輪で飾られた大司教の宮殿は、さらに目立つように長く輝く光の列の冠をつけている。

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 今やそのイルミネーションの輝きはカレル橋の明るいアーケードを抜けて、こよなく美しき川ヴルタヴァにまで広がり、巨大な光のクール・ドヌール勲章のたすきとなって、クシジェヴィニーク広場のイルミネーションの仲間と結合し・・

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 国民劇場の気高いシルエットの辺りで閉じられている」。

今では、当時は存在しなかったテレビ塔のイルミネーションも加わって、一層華やかにプラハの夜を彩っている。

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 聖ヴィート大聖堂のゴシックの尖塔が重厚な輝きを帯びて、夜の帳が街をすっぽりと包み込む。

 

 ちょっと人恋しくなってきた。さあ、街に戻ろう。

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夕陽に染まるプラハ、モーツアルトの教会

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  かつて職場の先輩にこんな教えを受けたことがある。「まず、鳥になれ、そして次には虫になれ」。物を見るときは、最初に全体像を把握し、その後に現場の具体的なディテールに肉薄する。そうした鳥瞰図と虫瞰図による多角的理解が、状況判断のポイントだというわけだ。

 旅においてもやはり鳥瞰図は必要だ。夕陽に映えるプラハの街を上から見下ろそうと、ペトシーンのケーブルカーに向かった。

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 ここのケーブルカーは、トラムや地下鉄の1日券と共通なので、新しく切符を買う必要がない。通常ならペトシーン公園にある展望台に昇るところだが、ちょっとスタートが遅れてしまい、エレベーターのない展望台の階段を昇っていたら日が沈んでしまいそうだったので、途中駅で降りて夕景を見ることにした。駅から少し坂を上ると、街が一望できる小さめの広場がある。ここからだと、左側のプラハ城もほぼ目の高さと同じくらい。近い距離にある。

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 手前にはマラー・ストラナ地区、ヴルタヴァ川を挟んで旧市街、さらに遠くには近代的な新市街と分かれていることがよくわかる。

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 ヴルタヴァ川が東に蛇行して行く辺りに、西日を浴びて浮かび上がる建物は、ルドルフィヌム(芸術家の家)。チェコフィルハーモニーの本拠地だ。

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 ルドルフィヌムの手前に渡されている橋はマーネス橋。トラムでマラー・ストラナ地区に行くときに何度も渡った橋だ。その奥はチェコ橋。壁面装飾の美しいパリ通りに繋がっている。

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 チェコ橋にはこんな女神像がある。

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 カレル橋はもう日陰に入ってしまった。相変わらず人があふれている。

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 一方、プラハ城にはまだまだ西日が当たっていた。

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 すぐ手前の白いクーポラは聖ミクラーシュ教会。プラハには旧市街広場にも同名の教会があり、すでに紹介したが、こちらは1783年モーツアルトが訪れてオルガン演奏をしたことが記録に残されている。死亡時には、プラハ市民は世界で最初のモーツアルト追悼ミサをこの教会で行った。3000人もの市民が集まったという。

 ウイーンはモーツアルトの音楽は評価したものの、経済的援助をする人はいなかった。対してプラハの貴族たちは、ベルトラムカ地区に別荘を提供して暮らしを支えるなど、物心両面の援助の手を差し伸べた。モーツアルト自身も4度もプラハを訪れている。「ドン・ジョヴァンニ」はプラハ滞在中に仕上げたオペラで、民衆の熱狂的な支持を受けた。また「プラハ」というそのものずばりの交響曲まである。そんな経緯もあって、市民はモーツアルトへのシンパシーも強かったようだ。

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 教会のずっと後方に団地のようなビル群が見える。ここの中心街は丸ごと世界遺産に登録されており、3500もの建造物が文化財に指定されて勝手に改修は出来ない。その分、新しい建築は外周に造られることになるのだろう。

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 その旧市街を見下ろすと、広場にあるティーン教会の2本の尖塔がそびえ立っているのがわかる。

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 さらに右側の奥にはテレビ塔が立っている。国内最高の216mの高さの塔だ。東京スカイツリーのほぼ3分の1。でも高層ビルの少ないプラハではかなり目立つ。

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 次第に街が本当に赤く染まってきた。

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 城の背後の空が黄昏色に変って行く。喧騒に近い騒音も飛び交う市街地から一歩抜け出して、暮れなずむ空間に身を置くと、この街が何世紀にもわたって被ってきた被支配や敗北の歴史が、耳鳴りのような静寂の重みを持って迫ってくるような感覚に襲われる。

  寒さが忍び寄ってきた。広場に一軒だけあるレストランに飛び込み、カフェで暖をとり、トイレを済ませてプラハ城のライトアップを待った。

 

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