多くの悲哀と美しさ トリエステ
「多くの悲哀と美しさを、空と、街に持つトリエステ」。詩人ウンベルト・サーバは、自らの故郷であるトリエステを、こう表現した。
トリエステは、イタリアの中でも特異な位置を占める都市だ。イタリアに属しているのに、その場所はイタリア半島ではなく、まさにヨーロッパ大陸にある。
それ故に、アドリア海に沈む夕陽を見ることのできる、ごく稀なイタリア、ということになる。
歴史をひも解いてみれば、ビザンチン帝国、東ゴート王国、フランク王国、ヴェネツィア共和国、オーストリア帝国と、いくつもの国家によって支配される歴史が続いた。特にオーストリアによる500年を越す長期支配によって、この都市の原型が形成されたといえるだろう。
その後も、ナポレオンの征服、ナチスドイツの侵略、ユーゴスラビアによる統治などが繰り返された。イタリアの国家統一は1861年。昨年はその150周年ということで盛大な祝賀行事が行われたが、トリエステに関しては、イタリアに編入されたのは第二次世界大戦後の1954年と、実にその93年も後のことだった。
でも、街を歩くと、よく整備された美しい街並みがそこにある。鉄道駅から中心部に向かって行くと、碁盤の目のような通りにさしかかる。ボルゴ・テレジアと呼ばれる地区だ。
以前は塩田だった場所をハプスブルクのカール6世が埋め立てを始め、その後マリア・テレジアの時代にもオーストリア風の近代建築建設が進められた地区だ。
ハプスブルク帝国時代の末期、1913年の統計によれば、トリエステの人口は24万7千人。これは、同帝国首都のウイーン、現在はハンガリーの首都になっているブダペスト、チェコの現首都プラハに次いで同帝国4番目の大都市だった。
ハプスブルク帝国は広大な領地を持つ大国だったが、内陸に面していたため、トリエステが唯一の直轄港だった。従って他国との海を隔てた交易はトリエステを経由して行われていた。
その効率化のために、街の中心部には大運河が造成され、都市は繁栄を極めた
しかし、ハプスブルクの滅亡後、ヨーロッパの列強の駆け引きの道具として利用されたトリエステは、イタリア復帰も大幅に遅れた。しかも、待望の復帰を果たしたイタリアだったが、港だらけのイタリアでは地政学上の利点も失われ、辺境の1都市に過ぎなくなってしまった。
「多くの悲哀と美しさ」
そういえば、イタリア語では「triste」は「悲しい」という形容詞だ。嵐のような歴史を振り返る時、そんな言葉と1字しか違わない酷似した地名を持ってしまった都市「trieste」は、悲しみを背負う宿命にあったのかとさえ、感じてしまう。
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