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2012年8月

イタリアテレビの女性キャスターたち

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 このところマニアックな内容の話が続いたので、フィレンツェ編終了の区切りとして柔らかい写真を掲載してみましょう。イタリアのテレビ局は女性のキャスター・アナウンサーが大活躍している番組が多いように感じます。今回の旅では雨にたたられてホテルの部屋にいる時間が比較的多かったので、テレビをよく見ました。その中からピックアップした何人かの女性キャスターをご覧ください。

 最初は1チャンネル月~金の朝のワイドショーメイン司会者。2年前くらいまでは別のかなり妖艶な女性でしたが、今回見たら健康的な明るい女性に変わっていました。

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 こちらは2チャンネル午後の番組。なぜかちょっぴり悲しそうな表情を見せる女性です。

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 娯楽番組の司会をしていたキャスター。かなりワイルドな感じでした。

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 夕方のニュース番組を仕切っていた女性。いかにも利発そうで、歯切れの良いアナウンスが印象的。

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 早朝5時ころにテレビをつけたら7チャンネルでやっていた番組の司会者。多分再放送だと思いますが、朝からこんなに魅惑的な表情をされたらチャンネルは釘付け!?

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 1チャンネルの土曜日午前中にやっていたワイドショー司会者。この女性はもうこの番組の看板キャスターのようで、おなじみの人。

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 2年前にアッシジに行った時、やはり土曜日のテレビで彼女にお目にかかりました。髪型が変わったりして一見別人のようですが、多分同一人物です。

 イタリアのテレビは、特に女性キャスターがメインの番組では、日本の何倍もキャスターのアップが繰り返されます。視聴者がそれを求めているんでしょう。従って、アップ写真は比較的撮りやすい。それで、こんな企画をまとめてみました。

 次回からは少しイタリアを離れ、アドリア海を越えてクロアチアの特集です。

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ルネサンスの恋愛スキャンダル・フィリッポとルクレツィア

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 プラートに来たのはドゥオモをみるためだが、実はもう一つの目的があった。この土地は、あのフィリッポ・リッピとルクレツィア・ブーティの運命の場所だった。

 フィリッポは1406年フィレンツェのアルノ川左岸、カルミネ教会裏手の肉屋の息子として生まれた。両親が早死にしたため僧侶になることを条件に同教会に預けられた。成長するに従って絵の才能が認められ、フィレンツェ祖国の父・老コジモも認める画家となって行く。

 しかし、肉屋のDNAがそうさせるのか、かなりの肉食系男子。すぐに女性に夢中になってしまい、そうなると仕事が手に付かない。ある時、コジモはその姿を見かねて、「ちゃんと仕事をせよ」と、アトリエに閉じ込めてしまった。ところがフィリッポはへこたれない。シーツを細く切って結び合わせてロープを作り、窓から逃げ出して女性のもとに通った。これにはコジモもあきれて、もう拘束するのをやめたという。

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 一方、ルクレツィアは1433年フィレンツェに生まれた。愛くるしく上品な女の子だったという。絹織物の店を共和国広場の片隅に出すつつましい家庭の子供だった。18歳になると妹スピネッタとともにプラートのサンタ・マリア・マルゲリータ女子修道院に入り、尼僧としての生活を始める。

 さあ、舞台はプラートに移った。このS・M・マルゲリータ女子修道院を探すため、ドゥオモ広場の案内所で市内地図をもらって歩き始めた。

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 この日は復活祭明けの休日とあって町周回のマラソン大会があり、ドゥオモ周辺もマラソンランナーがたくさん走っていた。

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 そのコースに沿って行くと、メルカターレ広場という大きな広場に出た。半分は駐車場になっており、その北端から北西に向かう道がマルゲリータ通りという名前が付いている。その辺りだろうと見当をつけて向かってみた。

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 マルゲリータ通りの角の家の屋根に小さな鐘楼らしきものが見えた。聞いてみると、やはりここがマルゲリータ修道院だった建物だという。

 ルクレツィアの修道院入りの翌年、フィリッポはプラート大聖堂の壁画制作のためにプラートにやってくる。本来この仕事はフラ・アンジェリコに依頼されたのだが、フラは多忙を理由に断り、フィリッポにお鉢が回ってきたというわけだ。ただ、すぐに2人の恋が始まったわけではない。

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 大聖堂の「聖ヨハネの生涯」壁画に取り掛かっていた彼に、よりによってマルゲリータ修道院長から聖母子像制作の依頼が舞い込んだのだ。いたずらな運命の歯車が回り始めてしまった。当然修道院に向かったフィリッポは、ルクレツィアと出会う。フィリッポ50歳、ルクレツィア23歳の時だった。

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 それからほどなくして、1456年5月1日がやってくる。この日は前回紹介したとおりプラート大聖堂に保管されている聖母の腰帯の祭りの日だ。日ごろ厳しい戒律の下で生活する修道女たちにとっても、年に数回しかない外出許可の出る日。

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 この日を待っていたフィリッポは、ルクレツィアを大聖堂左となりにある自らの工房に連れ込んでしまった。僧侶と尼僧、公の許可のない同棲生活が始まった。そして翌年、2人の間に愛しの長男が生まれる。後のフィリピーノ・リッピだ。修道院の関係者たちは、この逃亡事件を公にせずに、修道院に戻るよう説得を続けていた。これにほだされたのか、ルクレツィアは駆け落ちの3年後た一旦修道院に戻った。しかし、1年も過ぎた頃、我が子が気がかりだったのか、再びフィリッポの許へ。

 そんな時、1461年5月、フィレンツェ政庁に僧侶と修道女の駆け落ちを告発する手紙が舞い込んだ。もう、秘密にはしておけなくなった。本来は宗教裁判となるところだが、コジモのとりなしで、特例として還俗・結婚が許されたという。

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 スキャンダルではあったが、この恋愛事件は美術史上大きな遺産を残した。その第一がこの絵だ。「聖母子と二天使」は1465年の制作。晩年に手掛けた、フィリッポの聖母子像の中でも最高傑作と言われる。聖母はルクレツィア、キリストはフィリピーノをモデルとしたといわれる。

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 優美で高い気品に溢れる雰囲気の中にも柔らかい母性の親しみを感じさせる聖母の表情は、ルクレツィアというモデルなしには完成しなかったのではないだろうか。ちょうどこの年はプラート大聖堂の壁画が完成し、大仕事が一段落した年。ようやく肩の荷が下りて、最愛の妻と子を聖母子の姿に託して描き上げた渾身の作だ。

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 また、息子フィリピーノはその後ボッティチェッリの弟子となり、画家として大成する。父が見て育ったカルミネ教会ブランカッチ礼拝堂の壁画を最終的に完成させたのもこのフィリピーノだった。

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 修道院跡の向かいに建物がある。フィリッポの死後画家となったフィリッピーノは、母ルクレツィアが波瀾の青春時代を過ごした思い出の地プラートに母の家を購入した。その建物がここにあった(今は別の建物になっている)。

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 その建物跡に碑が掲げられている。「フィリピーノ、天使の庭に咲く 花のような聖なるあなたの姿を 何度ガラス越しに垣間見たことでしょう・・・」

19世紀の詩人ダンヌツィオの詩が刻まれていた。

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 また、同じ建物の窓の下には、ここにフィリピーノの壁画があったが空襲で壊されたことが記されている。

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 少し、街の風景も眺めてみよう。こんな素晴らしい城がある。神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世による13世紀の城。「皇帝の城」と呼ばれる。同皇帝がプーリアに造った世界遺産のモンテ城を連想させる。

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 サンガッロの代表的な建築であるカルチェリ教会。ミサ中で中には入れなかった。

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 市立美術館。先ほどの壊されたフィリピーノの壁画は修復されてここに保管されているらしいが、時間がなくて見ることが出来なかった。

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 ドッグレースが行われたらしく、表彰式が城の近くであった。

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 キャンペーンガールらしき女性も。

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 超派手派手なタクシーも。プラートはなかなか捨てがたい街だった。

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プラートのドゥオモでサロメに出会う

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 復活祭の翌日、好天に誘われてプラートまで足を伸ばした。フィレンツェの北に位置する小さな町で、電車で20分ほどで到着してしまう。町内に2つの駅があるが、ドゥオモに近いのはチェントラーレ駅ではなくプラート・セッラリオ駅。フィレンツェ駅の窓口で「セッラリオ往復」と切符を頼んだら、駅の係員が「ああ、ドゥオモに行くんだね」と話しかけてきた。街に詳しい人間になったような気がしてちょっといい気分。

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 駅に着くとまっすぐ伸びるマグノルフィ通りを3分も歩くともうドゥオモ広場についてしまう。13世紀建設のドゥオモは白と緑の2色の大理石を横縞模様に配した大胆なデザイン。この町の近くの山で採掘される大理石だ。今はかなり色あせた感じになっているが、修復すればきれいな模様に戻るだろう。高い鐘楼と左右非対称のファザードが特徴的だ。

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 目立つのは向かって右にある「聖なる腰帯の説教壇」。腰帯とは、聖母マリアが昇天した際、それを疑った使徒トーマスにマリア自身が天からこれを与えたと伝えられるもの。それを12世紀にこの町のミケーレ・ダゴマーリという商人がエルサレムから持ち帰ったとされている。その腰帯はドゥオモ内に保管されているが、このバルコニーは、広場の信者たちに説教をする場所だ。

 キリスト教に関する聖遺物は、ヨーロッパを歩いているとあちこちで見聞することになる。キリスト教徒でもなく聖書も完読していない身としてはかなり眉唾風にも思える物がいろいろあるけれども・・・・。

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 側面一杯にある浮き彫りはドナテッロの「踊る子供たち」。本物は付属美術館に保管されている。

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 正面入り口上部にあるのはアンドレア・デッラ・ロッビアの彩色陶板「聖母と聖ラウレンティウス、聖ステファノ」。

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 主祭壇の壁面に描かれているのはフィリッポ・リッピが12年の歳月を費やして完成した「聖ステファノと洗礼者ヨハネの生涯」の連作。ただ、この場所にはロープが張られて立ち入り禁止となっていたのでネットから画像を拝借した。最も有名なのが「ヘロデの宴」。時のイスラエル王ヘロデの宴の席でサロメが舞いを踊り、その褒美に洗礼者ヨハネの首を求めるという、あの場面だ。フィリッポはこの1枚の絵の中に3つの場面を描き込んだ。

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 画面中央には、サロメの踊り。華やかさ、妖しさ、残酷さ。サロメの衣装の襞の複雑な流れは実に魅力的だ。また、サロメの憂いを帯びた表情も忘れ難い。この絵の制作には弟子としてボッティチェッリも参加していたことは確実とみられる。そういえばヴィーナスの誕生の線のタッチや表情などは、フィリッポから彼に引き継がれて行ったのだろうと容易に想像できるものがある。

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 複写なので画面が荒れてしまったが、こちらは左側に描かれたヨハネの首をもらいうける場面。

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 そして右側ではヨハネの首を母ヘロデアに捧げる場面。素人としては教会の主祭壇にこんな凄惨な場面を描いていいのかなあと思うけど・・・。絵としては素晴らしい。

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 こちらはヨハネの少年時代の光景。これも3つの場面が描かれる。右側中ほどの、ヨハネ少年がひざまずいて合掌しているのは、天の声を聞いている。左では岩山も上から人々に祝福を与えて説教するところ。

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 そして、右下では、天の声に従って苦行の道に入るべく、両親に別れを告げるヨハネを、母エリザベツは心を込めて肩を抱いている。父ザカリヤも背後からじっと見守る。親子の別離の瞬間を見事に劇的に表現している。全体の中の一部分ではあるけれども、親子の情愛が濃密に滲み出ているような気がしてとても好きな絵になってしまった。

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 この場所が主祭壇。近くでじっくりと見られなかったのが心残りだった。

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 右側の礼拝堂などには入ることが出来た。

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 多分これもフィリッポの作品だと思うが、真偽のほどは不明。でも美しい絵だ。

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 こちらはちょっと時代を溯った作品のようだ。

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 そんな訳で、ドゥオモはフィリッポ・リッピ好きにはたまらない空間になっていた。

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フィレンツェの夜を歩く・ルネサンス幻想

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 さわやかに澄んだ春の夜、フィレンツェの街角に立った。吹きすぎる風に乗ってかすめる人々の言葉のかけら。

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 「鮮やかな炎色の衣装をまとった女性が、現れた」。ダンテが神曲・地獄篇で描写したベアトリーチェの移り香が、目の前で香ったような気がした。

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 振り返ると、アルノ川の静寂。5世紀も前から変わらずにその流れを続けてきた、歴史の運び手。せせらぎが涼やかな音を届ける。

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 間もなくルネサンスの精華であふれるウフィツィ美術館にたどり着く。ミケランジェロの剛毅、ダヴィンチの尊厳、ラファエロの優雅。そしてボッティチェッリの華麗。世界中の人々を虜にしてやまない美の競演がここにある。

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 観客が立ち去った館内で、彼らは何を語り合っているのだろうか。

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 そして、すぐ隣には政の中心・ヴェッキオ宮殿がそびえる。メディチ家の振興と失脚、サヴォナローラの盛衰

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 麗しきシモネッタとジュリアーノの束の間の恋、いずれもがもう、歴史の襞の奥にまぎれてしまった。

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 仰ぎ見るドゥオモ。往時は世界で1,2を争う巨大建築だった。ブルネレスキの執念と共に今もその優雅は、微塵も衰えをみせない。

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 それどころか、夜の闇を突き抜けてそそり立つ雄姿は、どこまでもりりしい。

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 フィレンツェの市の花は白百合。浮かび上がるのは、まぎれもなく象徴の白をまとった「聖なるマリアの花の大聖堂」だ。

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 ジョットの鐘楼が空に突き刺さる。

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 小高い丘を上り、たどり着いたのはミケランジェロ広場。

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 半世紀近く前アルノ川の氾濫で壊滅的な被害を受けたサンタ・クローチェ教会も、今はいにしえの姿を取り戻した。

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 まるで箱庭のような狭いスペースに、あらゆる美のエッセンスが存在する街。まるで気が遠くなりそうな美の小宇宙。

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 明日はこの街ともお別れ。

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 そう。深呼吸を2回して、ダビデに見送られながら、

 もう一晩だけ、底知れぬBellezzaの迷宮に迷い込もう。

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サンタ・トリニタ教会、サン・マルコ修道院、バルジェッロ国立博物館

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 ブランド通りとも呼ばれるトルナヴォーニ通り・サルバトーレ・フェラガモ本店の向かいに地味な外観を持つサンタ・トリニタ教会がある。観光客などはほとんど見かけないが、中に入ると意外にも豪華な壁画に遭遇できる。

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 サセッティ礼拝堂にあるギルランダイオの「聖フランチェスコ伝」だ。サセッティ家はメディチ家の銀行の総支配人も務めたルネサンス期の有力者。自分の名前もフランチェスコだったことから自らの礼拝堂に聖フランチェスコの生涯の壁画を依頼した。これによって、礼拝堂装飾の代表的な作品が完成した。画面下側の祭壇画を挟んで向かい合うのがサセッティ夫妻の像だ。

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 壁面上部にあるのはフランチェスコが教皇から修道会の認可を受ける場面。実際にはローマで行われたのだが、ギルランダイオはフィレンツェのヴェッキオ宮殿とシニョーリア広場での場面に設定して描いている。

また中段では窓から落ちた子供を助けるシーン。これもローマではなくこのサンタ・トリニタ教会とサンタ・トリニタ橋が背景になっている。ルネサンスの花を開かせた当時のフィレンツェ市民は自分たちの街を「新しいローマ」と誇りを持って公言していた。その時代の空気を反映しているかのようだ。

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 下段の祭壇画は「羊飼いの礼拝」。誕生したばかりのキリストへの礼拝の場面が描かれている。右側で、横たわるキリストを指差しているのがギルランダイオ本人の姿だ。

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 また左側壁面では、上段に財産を放棄して修行の道に入るフランチェスコ、中段には聖痕を受ける姿が描かれている。

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 また、別の礼拝堂では聖母マリアの生涯を描いたフレスコ画も。

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 この祭壇画は聖母戴冠。

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 さらに、L・モナコ作の受胎告知もあった。こんな風にバラエティに富んだ絵画群がほとんど貸し切り状態で楽しめる教会だ。

受胎告知に接したということで、フィレンツェで最も有名な受胎告知も紹介しよう。サン・マルコ修道院にあるフラ・アンジェリコの代表作だ。

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 2階廊下に昇る時に見えてくる「受胎告知」。詳しくは今年3月にアップしたブログでどうぞ。

      http://jun-gloriosa.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-6de4.html

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同修道院の2階には僧房だった沢山の小部屋があり、それぞれの部屋に1枚ずつキリスト伝の絵が残されている。そのうち、これはキリスト磔刑。

 
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 聖母戴冠の図。

 
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 そして、小部屋にも受胎告知はあった。こちらは一層簡潔で清々しくさえ感じられる空間だった。

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 さらにもう1か所。バルジェッロ国立博物館の一部を。以前の司法長官の館が今は博物館になっている。

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 中庭に並ぶ彫刻群。

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 壁面には当時の貴族・有力者たちの紋章などが飾られている。

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 落ち着ける中庭のスペース。

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 最後にミケランジェロのバッカス像。駆け足だったが、見どころ十分の博物館だった。

 

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ダンテとベアトリーチェ・街角に残る「神曲」の言葉

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 フィレンツェの美術についてはいろいろ見てきたが、この街は文学に関しても偉大な人物を輩出している。そう。ダンテだ。彼の作品を解説する能力は私には全くないので、フィレンツェに残る彼の足跡を追ってみた。

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 ある日、サンタ・クローチェ教会に行こうとしてコルソ通りを歩いていると、トスカーナ銀行の壁に細長いプレートが張り付いているのを見つけた。「DONNA M’APPARVE・・・」=女性が私の所に現れた・・。何これ?

 辞書を持っていなかったので全体の内容はわからなかったが、ちょっと興味深い一節だ。周りを見回すと、そこから右に入るマルゲリータ通りに「CASA DI DANTE」と書かれた看板を見つけた。

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 看板に従ってマルゲリータ通りを入ってみると、とても短い通り奥の右手にダンテの家という建物があった。後で調べたところによると、ここはかつてダンテの生家のあった場所で、100年ほど前に建てなおし、今は博物館になっていた。

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 壁にはこんな肖像が据えられて、観光客を迎えてくれる。

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 今回は中に入らず、さっきの道を戻ろうとしたら、狭い路地の右手に小さな教会を見つけた。小さくて暗い堂内に何人もの人がいる。興味をひかれて入ってみた。

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 中に、こんな絵がある。ダンテとベアトリーチェが出会った場面だという。聞くと、この教会はサンタ・マルゲリータ・デイ・チェルキ教会といい、ダンテはここで結婚式を挙げ、永遠の女性となったベアトリーチェの墓がある所でもあるということだった。

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 ここですこし2人の関係をおさらいしてみよう。あの「神曲」を著したイタリア史上最高の文学者。1265年にフィレンツェで生まれた。9歳のとき、彼は“運命的な出会い”をする。自宅から路地を抜け、コルソ通りに面した屋敷に到着すると、同じ9歳のベアトリーチェを見かけた。全く会話をしたわけでもなく、ダンテが一方的に「見かけた」といった形らしい。上の絵のような感じだったのだろうか。でも、ダンテにとっては大変な衝撃だったようだ。

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 初めに見つけたプレートはそのコルソ通りにあった。「純白のヴェールにオリーヴの冠、鮮やかな炎色の衣装に緑のマントをまとった女性が、私の前に現れた」。これはダンテが神曲・煉獄篇に書いた文章の一節だった。この建物がベアトリーチェのポルティナーリ家の住まいだった。

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 そして9年後の18歳のとき、今度はヴェッキオ橋から1つ先にあるトリニータ橋のたもとでもう一度ベアトリーチェに出会う。「ベアトリーチェは年長の娘と一緒に歩いていた。ダンテはその姿を見つけ、じっと見つめていると、丁重に挨拶をしてくれた。この上ない幸福、神に近づく憧憬・・・」

 え、たったそれだけ? そう、2人の関係はたったそれだけ。

 ベアトリーチェは裕福な貴族の娘で、ダンテとは家柄の差があった。ベアトリーチェは間もなく銀行員と結婚したが、25歳で病死する。一方ダンテもジェンマ・ドナーティと結婚する。ただ、夭折してしまったベアトリーチェへの思慕の念はますます高まって、彼女への愛を綴った長編詩「新生」を発表し、これが新曲へと繋がって行く。天才は凡人とは全く違うということだろうか。(絵の作者はヘンリー・ホリデイ)

 それにしても、5人の子供を育て上げ、生涯貞淑な妻だったジェンマについては著作でも全く触れていないという。これも天才ゆえ?

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 教会に戻ろう。観光客の1人から「あれがベアトリーチェの墓よ」と言われて撮った写真がこれ。絵画の下側に白い浮彫で女性が横たわっている。いかにもといった感じだったが、帰国後書かれていた文字をよく見たら「ベアトリーチェの乳母モンナ・テッサの墓」と書かれてあった。やれやれ。

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 トスカーナ銀行の壁のように、神曲から抜粋されたダンテの文章のプレートは市内30数か所に設定されているという。これは生家近くにあったプレート。「私は美しいアルノ川のほとりの大きな都で生まれた」

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 こちらはトリニータ橋付近。「アルノ川の橋の上で・・・」

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 「平和が最後を迎えようとしている時、街を守っている石像が壊れてしまったら、フィレンツェは何か犠牲を捧げなければならない」。トリニータ橋付近。

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 「フィレンツェは古い城壁に中にあり、平和で控えめでつつましかった。その城壁では、3時と9時に鐘が鳴る」

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 サンタ・クローチェ教会前広場にあるダンテ像。この教会内にはミケランジェロ、ガリレオ・ガリレイなどの著名人の墓があり、ダンテの墓もここに造ろうとした。しかし、ダンテは当時の政治闘争で追放され、ラヴェンナで死去した。フィレンツェ市は遺骨の返還を要請したが、ラヴェンナ市はこれを拒否。同教会にあるダンテのスペースは「墓」ではなく、「記念碑」となっている。

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ドゥオモ付属美術館再訪下・キリストの洗礼、マグダラのマリア

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 ドゥオモ付属美術館にあったもう一つの群像は「キリストの洗礼」。中央にいるキリストに対して右の洗礼者ヨハネが洗礼を施している。

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 これもまたサン・ジョヴァンニ洗礼堂を象徴する彫像として天国の門の真上に取り付けられていた。本物は保護のために美術館に収まり、今はレプリカが飾られている。

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 洗礼者ヨハネは、大天使ガブリエルがマリアに受胎告知をした時、従姉妹のエリザベツも妊娠しているよ、と告げたが、そのエリザベツから生まれた。つまりキリストとは親戚で、ほとんど同い年ということになる。だが、キリストが洗礼を受けるのは30年ほど経ってからのこと。ヨハネが苦行を乗り越えて預言者となってからだった。この時のヨハネは首を切られた時の表情とは一変している。待ち望んだ救世主との巡り合いを喜ぶとともに、洗礼を授けるという神聖な場面での緊張がみなぎる鋭いまなざしが素晴らしい。

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 洗礼の方法は主に滴礼(頭に水をかける)と浸礼(全身で水に浸る)の2つの方法があるようだ。この像で見ると、キリストは滴礼によって洗礼を受けている。この時、聖霊が鳩となって空を飛び、天から祝福の声が聞こえたという。

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 この場面での天使は特に大きな役割を果たしているわけではないが、軽く手を合わせて洗礼の様子を見守ることによって、温かな高揚感を発散させる役目をしているように思える。

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 他の作品も見て行こう。この聖母子像は、母子が一緒になって本当に楽しそうに笑っている。いろいろな聖母子像を見てきたつもりだが、こんなに明らかに笑っている聖母子は初めてみた。見る側をもほんのりと幸せにさせてくれるかのようだ。

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 ドゥオモにあった聖歌隊席。踊る子供たちのはつらつとした姿が躍動感にあふれている。

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 古い時代の受胎告知像。マリアもガブリエルもルネサンス以降の姿とははっきり違ってぎこちない感じだ。

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 ルカ・デッラ・ロッビアの聖母子像。こちらはルネサンス期の作品で、マリアらの目鼻立ちがはっきりしていると共に、人間らしい自然な動きで表現されている。捨て子養育院美術館にあった受胎告知と同じ作者だ。

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 既に紹介済みだが、やはりこの美術館にきたらこの2つの像を素通りは出来ないだろう。1つはミケランジェロの「ピエタ」。

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 もう1つはドナテッロの「マグダラのマリア」。

この作品だけでは、マグダラのマリアの印象がおどろおどろしくなってしまうので、別のマグダラのマリア像もどうぞ。

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 ジョヴァンニ・バンディーニの作品。

マグダラのマリアは、以前は遊女だったがキリストの導きで悔い改め、キリストに献身的に仕えた。キリストの処刑にも付き添い、復活した時も最初に彼女の前に現れた。聖母マリアとともに聖書では重要人物の一人とさえ言えそうな女性。

 ある神学者の著書によれば、マリアは「輝くばかりのその身体の、愛らしい美しさにおいて並ぶものなし」と表現している。バンディーニ作品はその様子を再現しているようだ。

一方、マリアはキリストの死後南フランスに行き、瞑想と苦行の生活に余生を捧げたということで、ドナテッロ作品はそちらの苦行時代の晩年の姿をデフォルメしたものだということだろう。

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 随分前にこの美術館に来た時は、あのマリアがこのキリストと向かい合うように劇的な形で立っていたのだが、今回、キリスト像は別のところに移動していた。この像はジョヴァンニ・バルドゥッチョの作品だ。

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横浜・みなとみらい地区花火大会 2012

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 先日横浜みなとみらい地区で行われた花火大会に行ってきました。花火大会はかれこれ5年ぶりです。

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 会場に着いたのは開始1時間近く前でしたが、見学スペースはもうほぼ埋まってしまって、席探しに一苦労でした。

 ブログアップ前に花火の種類などを一通りリサーチしましたが、何しろ一夜漬けなんでほんの参考程度で見てください。

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 始まって間もなくこんな大きな花火が打ち上がりました。空がまだ青味が残していて、赤などの色が映えて見えます。

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 打ち上げ花火の種類は大きく分けて3種類。割物、ポカ物、型物になります。このように真ん丸にに広がり、同心円状に球を描くのが割物です。ポピュラーで、大会の中心的な花火ですね。

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 対してランダムな方向に星が飛び散って行くタイプがポカ物。開くときに「ポカッ」と音がするのでこの名前になりました。

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 一方、球でもなく、土星やハート型など特定の形を表現するのが型物。多分これも型物の一種ではないかと思います。

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 もともと火薬が発明されたのは、唐の時代の中国。兵器として使われ、次第に世界に普及して行きました。

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 花火という形で“平和利用”された始めは、イタリアのフィレンツェだったといわれています。

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 日本における最初の花火大会は1613年の駿府でした。徳川家康のところに明の商人の案内でイギリス人使節が訪れ、そこで花火を見せたという記録が残っています。

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 これも割物の一種ですが、小さな花が一斉に開くので千輪菊という名称が付いています。

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 ポカ物の典型。光の帯がゆっくりと枝垂れ落ちる「柳」という種類のようです。

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 花火大会でよく「スターマイン」という言葉を聞きますよね。私はそれが花火の種類の名称だと思っていましたが、全く違いました。スターマインとは花火を連射連発する打ち上げ方法のことでした。写真のようにいくつもの大輪が重なり合うのがスターマインの特徴。大会の華ですね。


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 日本の花火は本当に様々な形が次々に現れて、観客を飽きさせません。

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 打ち上げ花火は基本手作りなので、全く同じものはありません。しかもあっという間に消えてしまいます。まさに一期一会。

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 真夏の夜の夢

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 ゲーテは「瞬間こそ永遠なり」と言っていますが、花火のあの瞬間の美しさも、人の記憶に永遠に留まるものなのかもしれません。 そういえば、オリンピックの感動もまた、「瞬間の永遠」の一種でしょうか。

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ドゥオモ付属美術館再訪上・サロメは本当に悪女だったのか

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 フィレンツェの大聖堂などの美術品を所蔵しているドゥオモ付属美術館にもう一度入ってみた。前回は主にミケランジェロのピエタを中心に見学し、このブログにも掲載したが、今回は別の魅力的な彫像に出会った。

 前回の掲載内容は以下のURLでどうぞ。

http://jun-gloriosa.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-7ecb.html

 美術館入り口近くにあったこの3体の群像。向かって右に剣を振り上げる武将、中央にひざまずいて肩を落とす老人、左にその老人を見下ろす女性。

 全く予備知識なしに突然出会ってしまったため、何の場面かわからなかった。

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 それにしても女性のまなざしは鋭さと共に、どこか淋しげな気配も漂わせているように見える。

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 老人は節くれだった手を合わせ、一種のあきらめを伴って祈りに入っているようだ。緊張感に満ちた空間。

タイトルを読んでみた。「decollazione del battista」とある。「洗礼者の斬首」。つまり、洗礼者であるヨハネが首をはねられる場面のようだ。記憶の中から、以前に聖書の話を聞いた時のことを思い出していた。

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 それは、ヘロデ王の誕生日の宴の時だった。宴の場には妻ヘロデアとその娘サロメがいた。王の求めに応じてサロメが踊りを披露し、上機嫌の王はサロメに「望みのものを何でも与えよう」と提案する。これを聞いた妻ヘロデアは、かねてから疎ましい存在としていたヨハネの首を求めよ、とサロメに要求、これによってヨハネは命を失うことになる。

 つまり、左手で見つめる女性はサロメだった。

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 この時サロメは果たして、自ら進んでヨハネの首を求めたのだろうか。聖書(マタイによる福音書)にはこう書いてある。「母にそそのかされて」「ヨハネの首を盆に載せてここに持ってきていただきとうございます、と語った」。

 王の兄の妻だったヘロデアが、兄を捨てて弟に乗り換えたことをヨハネに非難されており、そのことでヨハネを憎んでいたヘロデア。彼女の悪知恵に娘が乗せられた結果のように思える。

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 それが、サロメ=悪女説が急速に普及したのは、オスカー・ワイルドの戯曲によるところが大きいようだ。1896年に発表された「サロメ」では、彼女はヨハネを男として求め、自らの意向に沿わないヨハネを、「自分の心の欲するままに」「ヨナカーン(ヨハネの戯曲上の名前)の首を!」と叫ぶ。

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 この彫像を制作したヴィンチェンツェオ・ダンティは、やはりサロメを悪女としては形作ってはいないようだ。このとまどいと悲しみを含んだ表情を見れば、そう確信できるように思う。

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 この群像は元々サン・ジョヴァンニ礼拝堂の南門の上に設置されていたが、今は修復を終えて美術館に移り、南門にはレプリカが置かれている。そういえば、サン・ジョヴァンニとは聖ヨハネのイタリア語読みだった。そして、彼はフィレンツェの守護聖人でもある。

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 ヨハネ関連の美術品がもう一つあった。銀の祭壇。14世紀の金銀細工の傑作といわれる作品だ。洗礼堂に飾るために、1366年、ヴェロッキオ工房に依頼があり、完成までに100年以上もかかって1483年に完成した。200kgもの銀が使われ、12枚の羽目板には洗礼者ヨハネの生涯が描かれている。左下、最後の1枚はやはりヨハネの斬首。

 ヴェロッキオ作といわれるが、遠近法、劇的なリアクション表現などは、当時弟子として同工房で働いていたレオナルド・ダ・ヴィンチの手になるものかも、とも言われている。2006年から修復作業が続けられていたが、たまたま私が行く1週間前から展示が始まったばかりだった。ラッキー!

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 さらに、同じ部屋には「サン・ジョヴァンニの宝の十字架」なるものも同時に展示が開始されていた。これも銀製。高さ2m、幅90cmとかなり大きな十字架だ。この中にはキリストが磔になった時の十字架の破片が保存されていたんだとか。

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 中間点で祈りを捧げる小さめの像が清々しい。

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 こちらもなかなかの出来栄えだ。

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 アルフォンソ・デイ・カンビオの聖母子像。

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 こんなテラコッタもあった。

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 ドゥオモのクーポラを完成させたブルネレスキのデスマスクもあった。

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