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2012年9月

ドゥブロヴニクの城壁巡り3 旧港から海側を歩く

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 旧港にある聖イヴァン要塞を過ぎると、アドリア海を臨む海沿いの城壁を歩くことになる。

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 振り返ると旧市街から新市街にかけて丘陵に建ち並ぶ家並みが見渡せる。

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 こうして見ると、本当にびっしりと家が立ち並んでいることが良くわかる。

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 そんな中にセルビア正教会の塔がひょっこりと頭を出している。この教会のすぐ近くにあるパン屋さんのパンがとてもおいしくて、毎朝買いに行っていた。

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 城壁越しに海がのぞける。ちょっと黒ずんだくらいのアドリア海の水の青さが印象的だ。

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 城壁に沿った岩壁は狭いスペースしかないのだが、そこで遊んでいる人たちも結構いる。

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 かと思うと、のぞき窓のような空間にすっぽりはまって休憩している女性も。この日も雲一つない晴天で、城壁巡り中は直射日光にギラギラとさらされ続けなくてはならない。その暑さを遮る唯一のスペースがこんな場所。大事な避難スポットになっていた。

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 ここにも。

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 あらら、人形のおじいさんまで避暑中?

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 この大砲は旧港の入り口方面に向いていた。

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 3つもの鐘を吊った鐘楼が。

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 角度を変えてみると、なかなか美しいフォルムをしていた。

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 こちらの岩場では結構な人たちが思い思いにバカンスを楽しんでいる。

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 そして、ようやくプラツァ通りに帰ってきた。一周するのに早ければ30分でも見て回れるが、私は1時間半もかかってしまった。暑いのには参ったが、どちらを見回しても美しい風景が続くのでその度に足を止めてしまい、すっかり日焼けしてしまった。晴れた日の城壁巡りは日焼け止めと水分が必須アイテムになりますよ。

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ドゥブロヴニクの城壁巡り2 ミンチェタ要塞から旧港付近へ

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 ミンチェタ要塞に別れを告げて、東側レヴェリン要塞に向けて進む。次第に聖ヴラホ教会が近づいてきた。

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 すぐ手前の建物に目を奪われた。一つの建物なのに瓦の色が極端に違う。これも1991年の内戦時に破壊されて新しく瓦を葺いたた所と残った所のはっきりわかる家だ。民宿のクリスティーナおばあちゃんによると、住民たちは建物の修理の際、極力昔のものを生かすという前提で修復したのだという。そんな努力が世界遺産の危機リストからの復活につながったのだろう。

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 他の建物でも、新しい瓦と

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 古い瓦ではこんなにも違う。ここのへこみは銃弾の跡かも。

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 城壁外の新市街の住宅は、瓦の色はオレンジでも壁の白さが全く違う。

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 レヴェリン要塞に近づいてきた。ドミニコ会修道院の鐘楼がすっきりと立ちあがっている。

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 見事にオレンジで埋まる旧市街の風景。よくぞここまで調和のとれた街並みに復活したものだと、感嘆してしまう。

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 プラツァ通りに建つ時計塔が目前に見えてきた。大きな鐘が収まっている。

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 アップして見ると、こんな鐘突き男が毎日、時を知らせる仕事に精を出している。ごっくろうさーん。

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 レヴェリン要塞に着いた。旧港全体が見渡せる場所だ。

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 港にはボートたちがずらりと並ぶ。

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 港側からミンチェタ要塞を見上げる。まさに堅固な要塞だ。

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 特に何の変哲もない煙突だけど、2つ並ぶとどことなくスタイリッシュ。

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 2個並び繋がりで、セルビア正教会の双子の塔。

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 海側の城壁を歩く人たちの姿が豆粒のように見える。この城壁が造られたのは8世紀だが、今のような形になったのは16世紀に入ってから。東西交易の拠点として栄えた。ラグーサ共和国時代の1667年に死者5000人を出す大地震に見舞われたが、この城壁だけはほとんど被害を受けなかったという。

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 もちろん怖いのは地震だけではない。敵国からの攻撃に備えて大砲が常時配備されていた。今でも城壁の何か所かにそのなごりがあった。

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ドゥブロヴニクの城壁巡り1~ピレ門からミンチェタ要塞へ

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 ドゥブロヴニク観光の目玉・城壁巡りに行ってみよう。

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 城壁は厚さ6mの石壁が1940mに渡って旧市街を取り巻いている。北西(この写真だと左奥)の一番高い所がミンチェタ要塞、南西(写真の右手前)にボカール、南東に聖イヴァン、北東にレヴェリンと、4つの要塞をつないでいる。

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 ピレ門をくぐって旧市街に入るとすぐ左手に階段がある。そこを上がったところがスタート地点だ。

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 正面にプラツァ通り、時計塔が見下ろせる。

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 目の前の鐘楼はフランシスコ会修道院、奥の一際高い建物が聖イグナチオ教会。外に張り出したフライング・バットレスが特徴的だ。

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 高台にあるミンチェタ要塞に向けて歩きだす。

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 城壁の所々に展望所のような場所がある。ピレ門につながる道路の様子が見える。

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 南東方面に、セルビア正教会の双子の塔と、その向こうに大聖堂が一直線に並んで見える場所があった。望遠で見るとすぐ近くにあるように見える。

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 海に面して、旧市街のすぐ隣の小さな岬に築かれたロブリエナッツ要塞がある。

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 ミンチェタ要塞に到着した。ここは高さ25mと城壁の最高地点。旧市街全体を見渡せるビュースポットになっている。さっきは同じ高さに見えたフランシスコ会修道院鐘楼が、あんなに下になっている。

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 左に目をやると、ロクルム島がぽっかりと浮かんでいた。

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 ロブリエナッツ要塞もはるか下。

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 こんどは上方・スルジ山を見上げた。標高421m。かすかに見える十字架はナポレオンの支配時代に建てられた。

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 その横にある残骸のようなものは、1991年のセルビア軍の攻撃によって破壊されたロープウエイ発着所の跡。この時は廃墟状態で、私は山頂に昇ることを断念したが、2010年に改めてロープウエイが復旧し、今では楽々と山に昇れるようだ。

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 こちらは東側の海岸線。この道路を行くとモンテネグロに通じている。

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 中央付近、高い石の城門はレヴェリン要塞。

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 もう一度旧市街を眺めた。左端にドームを持つ聖ヴラホ教会、奥のドームは大聖堂、そして海に面するように聖イグナチオ教会が見える。私が泊まったソーベは、この教会の右隣にあった。

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 真南方向。石造りのしっかりした建物は民俗学博物館になっている。どの方向を向いても海の青さと屋根のオレンジの対照に目を奪われてしまう風景だ。

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海洋国家の原点・旧港

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 ドゥブロヴニクを語る際に忘れてはいけないのが港の存在だ。ラグーサ共和国として発展した中世以前から、この地は東西交易の中継基地として重要な拠点であり続けた。その理由が天然の良港の存在だった。

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 今では旧港と呼ばれているが、以前はここが国の表玄関だった。ヴェネツィアにおけるサンマルコ広場のような場所だったわけだ。

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 港に入ると、スポンザ宮殿の屋根や時計塔、総督邸などが正面に見えてくる光景は数百年前と変わっていない。

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 防衛上の見地から造られた2つの要塞が港を囲んでいる。左手前が聖イヴァン要塞、右側に石壁の一部が見えるレヴェリン要塞だ。

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 旧市街から港に行くには大聖堂脇のポンテ門をくぐればOK。目の前に港が開ける。

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 港には沢山のボートが係留されていて、まるで何かのレースが始まりそうな賑わいだ。

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 聖イヴァン要塞の細い通路を通ってその先に行ってみた。

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 狭いスペースだったが、海水浴スポットになっていて、水着姿の人たちがたくさん。

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 その先を大型客船が悠々と通り過ぎて行く。

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 沖合の白い船とあくまでも青いアドリア海の水のコントラストが目に沁みる。

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 中にはこんな船も航行中だった。観光船だろうか。

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 港の広場の一角(写真でいうと右奥の)、大聖堂の真東に当たる所に、テントが張られている。

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 ここが地元でも人気のレストラン、ロカンダ・ペスカリアだ。テントの下にテーブルが並ぶテラス席がお勧め。一番人気のムール貝の白ワイン蒸しを注文した。鉄鍋一杯のムール貝は最高。中には海草をくわえたままで茹でられた貝もあったりでワイルド感たっぷり。値段も良心的だ。(料理の写真を撮るのを忘れました)

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 テント越しにしゃれた船を見つけた。

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 食事後に見物に行ったら、いつの間にか帆が張られていた。この船が、ヌーディストビーチのあることで有名なロクルム島に行く観光船だろうか。中世を思わす帆船だった。

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 雄大な姿。

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 舳先には人魚像が取り付けられていた。ロマンチック!

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 ふと岸を見ると、こっちには実物の人魚のようなスタイル満点の女性が立っていた。

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聖イグナチオ教会とドゥブロヴニクの夕陽

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 今日は聖イグナチオ教会に入ってみよう。ルジャ広場を南に進むと市場の立つグレンドゥリチェフ広場がある。その奥に大きな階段が見えてくる。

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 旧市街はほとんど坂なので沢山の階段があるが、大半は狭い幅の階段。しかしここの階段だけは堂々としたスケールだ。

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 私の泊まったソーベ(民宿)はイグナチオ教会の隣りだったので、ここは10回以上も上り下りした思い出の階段でもある。

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 上って行くと大きな屋根を持つ教会が見えてくる。これが聖イグナチオ教会だ。大聖堂より一段と高い場所にあり、ファザードも立派なので、最初はこちらが大聖堂かと思ってしまった。

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 1699年から1725年にかけて建造された、バロック様式の建物だ。ローマにある聖イグナチオ教会をモデルとして造られたとのこと。

 ローマの同教会やジェズ教会などのイエズス会系の教会は、免罪符の乱発などで権威を失墜し、宗教改革運動が活発化したことに対抗して、カトリックの権威回復を狙って豪華絢爛のバロック建築を推進した。

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 そうした流れをくんだ教会ということで、主祭壇の豪華さは目を見張るものがある。

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 スペインの画家ガエタナ・ガルシアによる天井画もまた、華麗に堂内を飾っている。

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 教会広場から階段下を見下ろすと、こんな風にカフェやレストランが路上に店を広げている。

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 ルジャ広場に戻ると、もう夕陽がだいぶ傾いて、時計塔をオレンジに染めていた。

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 そんな傾いた日光のお陰で、プラツァ通りには散策する人たちの長い影が伸び出している。

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 お母さんと子供のシルエット。

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 若い女性のカップル。

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 プロチェ門をくぐって旧市街の外に出ると、東側の海岸線がオレンジの世界に入っていた。

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 旧市街側は黄昏に包まれ、西の空が次第に夕べの装いを凝らして行く。

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 この街は街灯までもがしゃれている。

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 塔とのコラボレーション。

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 旧市街に戻ると、フランシスコ会修道院の鐘楼が、空に突き出してその姿を誇っているようだった。

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 暑かった一日もようやく暮れて、穏やかな時間に戻って行く。

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聖母被昇天大聖堂の祭りに遭遇した

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 ルジャ広場の南側に、高い塔を持つ大聖堂がある。聖ヴラホ教会や一段高い場所にある聖イグナチオ教会など立派な教会があるためあまり目立たないが、ここが大聖堂だ。

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 城壁の高い所から見ると、美しい姿全体を見ることが出来る。

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 でも、平地で見るとちょっとおとなし気に見えてしまう。

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 1192年、イギリスのリチャード王が十字軍からの帰り道、ドゥブロヴニク沖で船が座礁、これを助けてもらったお礼にと、王の資金援助があり教会が建てられた。日本ではちょうど源頼朝が征夷大将軍になった年ですね。1667年の大地震で壊れたがバロック様式で再建され、現在に至っている。

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 明るい光が差し込む軽快な内部。

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 こんな絵画を見つけた。構図からして多分最後の晩餐。そうならば、黒いマントをかぶってキリストの後ろから部屋を出ようとしているのがユダだろうか。

 
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 十字架を背負ったキリストの姿を描いた現代的な作品。なかなか面白い作品だ。

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  こちらも同じ作家の作品。キリストのゴルゴダの丘への道行きの一連の行動をシリーズで作品化したもののようだ。

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 ティツィアーノの作品があると聞いていたが、よくわからず司祭さんに聞くと、この主祭壇にあるものがそうだとのこと。

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 テーマは聖母被昇天。そういえばこの教会の名前もそのまま「聖母被昇天大聖堂」だった。ヴェネツィアのフラーリ教会にも同名の彼の作品があるが、それと比べるとちょっと迫力に欠けるような・・・。元は別の教会にあったものだが、その聖ラザレス教会が倒壊してしまい、こちらに移されたそうな。額縁なしのむき出し状態で飾られているのはそのためなのだろうか。

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 近くを散歩して戻ってみると、ルジャ広場周辺に人が集まっている。

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 近づいてみたら、大聖堂のファザード前でミサが行われていた。

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 ミサの後、教会内にある聖母子の額絵が、神父たちによって広場に運び出された。

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 そう、気が付けばこの日は8月15日。聖母被昇天の祝日だった。つまりマリア様が天に召された日で、そのお祭りが行われていたのだ。この教会の名前そのものが聖母被昇天大聖堂だった。

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 教会の聖人像が見守る中、行進は街に出て行く。

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 今年春の復活祭の時グッピオで見た「死せるキリストの行進」は、まさに磔になって死んだキリストの等身大の生々しい像が行進したので迫力十分だったが、こちらは額絵ということでこじんまりとした行進に見えた。

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 翌日、聖イグナチオ教会に向かう小路の隙間から大聖堂の塔がすっきりと切り取ったように見えた。青空に映えて美しかった。

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プラツァ通りの不思議

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 プラツァ通りはピレ門から旧市街中心部を東西に貫く300mのメインストリート。2日目の午後、城壁巡りのために高い城壁に昇って通りを見下ろした時、何か変な感じがした。どうも目の前に広がる風景がしっくりこない。

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 午前中の時間帯、まだ太陽が東にあり、通りに直射日光が差し込む時だと、このように人々の影は当然太陽と反対側に出来ている。

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 なのに、この時は午後遅めの時間帯。太陽はかなり西に傾き始めていた。従って城壁の西端から見るプラツァ通りはもう日陰になっており、正面突き当たりの時計塔だけが日光に照らされているという状態だった。

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 だから通りを歩く人たちの影は東方向に出来るはずなのに、人影は太陽のある側・西方向に出来ているのだ。

 しばらく眺めていた「あっ」と気付いた。

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 それは、ギラギラの太陽を受けた時計塔の強烈な照り返しが、日陰になっている路面に反射し、それによって人影が出来ているのだ。しかも、路面は毎日早朝の念入りな清掃で徹底して磨きこまれ、人々の靴底でつるつるにされている。そんな石畳だからこそ、こうして一見奇妙な影が演出されるというわけだ。

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 実際、建物が途切れて太陽が通りを直接照らしている場所では、このように想定通りの影が出来ていた。

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 楽しそうに通りを歩く人たちの会話が聞こえてきそうなひと時、こんな不思議な経験もさせてくれるのも、ドゥブロヴニクの魅力かもしれない。

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 通りの終点近く、ルジャ広場にはローランの像が建っている。ローランはカール大帝に仕えた騎士で、自由の象徴とされており、ヨーロッパ各地の自由都市にはよく見られる。

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 そのすぐ近くにはユーモラスなライオンの顔をしたオノフリオの小噴水があった。

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 ライオンと言えば、ライオン像も。この地は13世紀にはヴェネツィアの管轄下にあった。ヴェネツィアの守護聖人であるサンマルコの象徴がライオン。その影響なのかもしれない。

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 オノフリオの小噴水を紹介して、大噴水を忘れてはいけない。プラツァ通りの反対側にある大きな円形の建造物がそれだ。15世紀に完成したもので、オノフリオはナポリ出身の建築家。12キロ離れた山から源泉をここまで引き込んで水の供給を成功させた。また、この時代に下水道も造っている。ヨーロッパでも有数の早さだ。中世から貿易港として発展した都市だけに、多数の外国人が出入りする。大きな問題は他国から未知の疫病を持ちこまれること。その防止策としても公衆衛生の意識が早くから発達していた証拠でもある。また、伝染病対策として、流行地域からの船は1ヶ月間沖合に足止めするという制度を作ってもいたという。

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 ルジャ広場に戻って、聖ヴラホ教会に入ってみた。ドゥブロヴニクの守護聖人である聖ヴラホの名を冠した教会だけに広場の最もよい場所に建てられている。ファザードのてっぺんにあるのがヴラホ像。

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 ちょうどミサの最中だった。

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 古い教会に似合わず現代的なステンドグラスもあった。

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 これが聖ヴラホ像。左手には旧市街の模型を抱えている。といっても、現在の旧市街ではなく1667年に起きた大地震以前の街並みだという。

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ドゥブロヴニク・悲惨な歴史の生き証人

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 ピレ門から旧市街に入ると、そこはメインストリートのプラツァ通り。散歩を始めた。

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 すぐ左手で、子供たちが歓声を上げて遊んでいる。近づいてみると、建物の壁に付いている「出っ張り」に乗っかる遊びをしていた。出っ張りの幅が狭い上、手前に傾いているので、長い時間乗っているのが難しい。10秒も静止出来ると拍手が贈られていた。

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 後でよく見るとこんな人間の顔をしたもの。以前はどんな役割をしていたのだろうか。

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 この顔のある建物、フランシスコ会修道院に入ってみた。入口にある立派な彫刻は「ピエタ」。

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 高い天井。窓が上にあるため床付近は結構暗い。もともとは城壁の外にあったが、14世紀に城壁内、ピレ門近くの現在地に移された。

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 主祭壇にはキリスト像。ねじれた柱はヴェネツィアのジェズイーティ教会を連想させる。それとも中尾彬のねじねじ・・・?

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 祭壇の燭台が、こんな寸詰まりのような天使像になっていた。ちょっぴりユーモラス。

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 夏休み真っ盛りの時期とあって、ここにも観光客が途切れることなく訪れていた。この修道院内にはヨーロッパで3番目に古いという薬局も併設されていた。

 この辺で、観光を中断して宿探しを始めた。というのは、初日の宿は確保してあるが、翌日からのホテルは未定。出来れば旧市街に泊まりたいのだが、ソーベと呼ばれる民宿のようなプライベートルームの予約は日本からでは困難だった。目印は玄関に「SOBE」という青いプレートが掲げられている家。少し歩いて大聖堂から階段を上がったところでその看板を見つけた。まさに旧市街の中心部。飛び込んでみると、おばあさんが一人で座っていた。

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 翌日からの予約を頼むと、OK。本来ならこの時期は予約で一杯なのだが、たまたまおばあさんの体調がいまいちだったので予約を取っていなかったのだという。

 おばあさんの名前はクリスティーナ。とても話し好きで「私にもあなたのような息子がいて・・・」などと家族の話を始め、長男夫妻の結婚式の写真を見せてくれた。そのうち、ご主人の話になったが「夫は戦争で死んでしまった」と、突然衝撃的な告白に出会ってしまった。

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 私も断片的には知っていたが、クロアチアは1991年、ユーゴスラヴィアからの独立宣言後、ユーゴとセルビアの攻撃を受けて4年もの内戦が続いた。

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 中でも1991年12月6日のドゥブロヴニク爆撃はすごいものだった。早朝から約10時間、絶え間なく砲弾が撃ち込まれ、街の8割が破壊された。死者200人、負傷者600人。クリスティーナおばあさんの旦那さんもその犠牲者だった。

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 アドリア海の真珠として世界遺産に登録されていたこの街も、爆撃で一時は危機遺産リストに移されたが、市民の必死の復旧作業によって、1994年にふたたび世界遺産に戻されたという過去を持っている。今から数えてもほんの20年ほど前のことだ。街の屋根を見ると、新しい瓦に交じって所々に古い瓦が見つかる。それが、わずかに爆撃を免れた家だという。

 クリスティーナおばあさんは言った。「クロアチアは小さな国だけれども、ここで生活する1人1人は、大きな歴史を背負って生きているんです」

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 帰りがけ、ルジャ広場に面したスポンザ宮殿に入った。16世紀までは貿易物資の保管所だったが、次第に学者文化人の集うサロンになったところだ。今は古文書館になっているが、壁には91年の爆撃時の写真が飾られていた。

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 また、その爆撃で死亡した市民たちの顔写真が飾られていた。負の歴史を決して風化させまいという市民の決意を表わしているかのように見えた。

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 そして、ピレ門にはこんな地図が掲示されている。91年から92年にかけてドゥブロヴニク旧市内に受けた砲撃によるダメージ地図だった。

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アドリア海を越えてドゥブロヴニクへ

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 「ドゥブロヴニクを見ずして天国を語るなかれ!」

 5年前の夏、私はドゥブロヴニクに向かう対岸の港の待合所で、一冊の本に書かれたこの言葉に多少の違和感を覚えていた。

 この言葉を記したのはイギリスの著名な劇作家バーナード・ショー。彼が1929年に彼の地を訪れた際の感想だという。彼は、マイフェアレディの原作である「ピグマリオン」を始めとする多数の戯曲を発表、1925年にはノーベル文学賞を受賞している。

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 しかし、彼は希代の毒舌家としても知られる。ノーベル賞受賞時、彼は69歳。「まるで海で遭難した人が、自力で岸辺に泳ぎ着いた後に救命船を差し向けるようなものだ」などと揶揄した。

 また、世界的に有名な女優が「あなたの立派な頭脳と、私の美しい体が結ばれたら、さぞ優秀な子が生まれるでしょう」と誘惑の言葉を向けたのに対して「私の貧弱な体とあなたの鈍重な頭脳が結ばれたら、どんな子が生まれることか」と返したという。

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 そんな毒舌家に「天国・・・」と言わしめたドゥブロヴニクとは、果して・・・。

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 ドゥブロヴニクへの旅のルートは海に求めた。私がヨーロッパに魅せられたきっかけはヴェネツィアだった。「アドリア海の女王」と称されたヴェネツィアを何度か訪れているうちに、このアドリア海を支配したヴェネツィア人の気分を一度は疑似体験してみたいとの思いがあったからだ。

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 出発港は南イタリアのバーリ。アズーララインという大型フェリーでアドリア海を横断する旅だ。乗客はちょうど夏休みの最中だったせいか、イタリアで働くクロアチア人が休暇を利用して家族で帰省する姿も目立った。

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 アドリア海横断に要した時間は8時間。強すぎる冷房に眠れない夜を過ごした。朝甲板に出て、近づきつつあるクロアチアを見つけた。

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 いや、そういうより、半島を出発してヨーロッパという大陸に到着しようとしている、といった不思議な感覚に襲われていた。

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 町の西側にあるグルージュ港に到着。入国手続きを済ませて軽い朝食を摂り、ホテルに向かった。タクシー待合所で、停まったタクシーになぜか修道女が乗っていた。彼女は、私がホテルに行くというと、同じ方向なので相乗りさせてくれという。財布を無くしたのだそうだ。まさか修道女が悪さをすることはないだろうと、同意してホテルに向かった。確かに修道女はホテル手前の修道院で下車。しょっぱなから不思議なドゥブロヴニク観光スタートとなった。

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 ホテルはネット予約したもの。初めての国なので一泊は確保して、翌日からは旧市街の民宿を探して泊まろうとの計画だ。旧市街にはリーズナブルなホテルはなく、新市街地のラパッド地区はリゾート地になっていて大型ホテルが林立しており、泳げるビーチも目の前にあった。でも、歴史を感じさせる風情は全くない。荷物を置いて、早速旧市街地に出向いた。

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 旧市街地の入り口ピレ門へのバスは早朝から深夜まで頻繁にあり、不便なことはない。片道8クーナのバスチケットを買ってバスに乗車。イタリアと同じくこのチケットを運転席横の刻印機に通せばOKだ。15分もすればピレ門に到着する。門の上方にあるこの町の守護聖人ヴラホが出迎えてくれる。

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 旧市街への入り口は3カ所、西のピレ門、北のブジャ門、東のプロチェ門で、ピレ門はいわば正面玄関。16世紀当時は侵入を防ぐ目的で手前の橋は木製のはね橋になっていたが、今は石橋。ここをくぐるといよいよ世界遺産の旧市街だ。

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 旧市街を東西に貫く広い通りはプラツァ通り。以前はここは水路で、ここから南側が街になっていたが、街の拡張に伴って埋め立てられ、立派な大通りになった。

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 約200mの真っ直ぐな道の突き当たりには時計塔、両側にショップやオフィスのビルが整然と並んでいる。

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 開放的な街並みを灼熱の太陽がスカッと照りつける。旅人の心を高揚させずにはおかない熱気が街を包んでいた。

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