ドゥブロヴニク・悲惨な歴史の生き証人
ピレ門から旧市街に入ると、そこはメインストリートのプラツァ通り。散歩を始めた。
すぐ左手で、子供たちが歓声を上げて遊んでいる。近づいてみると、建物の壁に付いている「出っ張り」に乗っかる遊びをしていた。出っ張りの幅が狭い上、手前に傾いているので、長い時間乗っているのが難しい。10秒も静止出来ると拍手が贈られていた。
後でよく見るとこんな人間の顔をしたもの。以前はどんな役割をしていたのだろうか。
この顔のある建物、フランシスコ会修道院に入ってみた。入口にある立派な彫刻は「ピエタ」。
高い天井。窓が上にあるため床付近は結構暗い。もともとは城壁の外にあったが、14世紀に城壁内、ピレ門近くの現在地に移された。
主祭壇にはキリスト像。ねじれた柱はヴェネツィアのジェズイーティ教会を連想させる。それとも中尾彬のねじねじ・・・?
祭壇の燭台が、こんな寸詰まりのような天使像になっていた。ちょっぴりユーモラス。
夏休み真っ盛りの時期とあって、ここにも観光客が途切れることなく訪れていた。この修道院内にはヨーロッパで3番目に古いという薬局も併設されていた。
この辺で、観光を中断して宿探しを始めた。というのは、初日の宿は確保してあるが、翌日からのホテルは未定。出来れば旧市街に泊まりたいのだが、ソーベと呼ばれる民宿のようなプライベートルームの予約は日本からでは困難だった。目印は玄関に「SOBE」という青いプレートが掲げられている家。少し歩いて大聖堂から階段を上がったところでその看板を見つけた。まさに旧市街の中心部。飛び込んでみると、おばあさんが一人で座っていた。
翌日からの予約を頼むと、OK。本来ならこの時期は予約で一杯なのだが、たまたまおばあさんの体調がいまいちだったので予約を取っていなかったのだという。
おばあさんの名前はクリスティーナ。とても話し好きで「私にもあなたのような息子がいて・・・」などと家族の話を始め、長男夫妻の結婚式の写真を見せてくれた。そのうち、ご主人の話になったが「夫は戦争で死んでしまった」と、突然衝撃的な告白に出会ってしまった。
私も断片的には知っていたが、クロアチアは1991年、ユーゴスラヴィアからの独立宣言後、ユーゴとセルビアの攻撃を受けて4年もの内戦が続いた。
中でも1991年12月6日のドゥブロヴニク爆撃はすごいものだった。早朝から約10時間、絶え間なく砲弾が撃ち込まれ、街の8割が破壊された。死者200人、負傷者600人。クリスティーナおばあさんの旦那さんもその犠牲者だった。
アドリア海の真珠として世界遺産に登録されていたこの街も、爆撃で一時は危機遺産リストに移されたが、市民の必死の復旧作業によって、1994年にふたたび世界遺産に戻されたという過去を持っている。今から数えてもほんの20年ほど前のことだ。街の屋根を見ると、新しい瓦に交じって所々に古い瓦が見つかる。それが、わずかに爆撃を免れた家だという。
クリスティーナおばあさんは言った。「クロアチアは小さな国だけれども、ここで生活する1人1人は、大きな歴史を背負って生きているんです」
帰りがけ、ルジャ広場に面したスポンザ宮殿に入った。16世紀までは貿易物資の保管所だったが、次第に学者文化人の集うサロンになったところだ。今は古文書館になっているが、壁には91年の爆撃時の写真が飾られていた。
また、その爆撃で死亡した市民たちの顔写真が飾られていた。負の歴史を決して風化させまいという市民の決意を表わしているかのように見えた。
そして、ピレ門にはこんな地図が掲示されている。91年から92年にかけてドゥブロヴニク旧市内に受けた砲撃によるダメージ地図だった。
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