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2013年5月

至高の傑作「ロレートの聖母」に逢うー聖アゴスティーノ教会

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 フランチェージ教会、ポポロ教会と連続して評判を得たカラヴァッジョは、すっかりローマ有数の人気画家になっていた。その頃発注されたのが、サンタゴスティーノ教会、カヴァレッティ礼拝堂を飾る絵画「ロレートの聖母」だった。北からローマに入ってくるフラミニア街道のローマの入り口がポポロ門、そこから真っ直ぐ南下してくると、ちょうど聖ゴスティアーノ教会のところで右に曲がってサンタンジェロ橋を通り、最終目的地のサン・ピエトロ大聖堂に達する。はるばるカトリックの総本山を目指して世界各地から訪れる人たちの巡礼路の最終ルート上に、この教会はあった。

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 右前には農民が額ずいて手を合わせている。長い旅を続けてきたのだろう、雨風にさらされた衣服は汚れ、男の裸足の足裏にはべったりと土が付いている。老婆(母親かもしれない)と共に信仰の思いを胸にこの場にたどり着き、目の前に現れた聖母子を仰ぎ見ている。

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 「聖と俗」という形で対比する見方がある。聖なるマリアと俗なる貧しい庶民。しかし、このマリアは決して「聖」の高みに上ってしまった姿ではない。その足もまた裸足。光輪が頭上に光っている以外は、まさに生身の女性そのものだ。しかし、俗のままで、俗を超えてしまった。

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 左上から差し込む光を受けて輝く横顔の美しさ、気高さはどうだ。あくまでも清楚でありながらも圧倒的な存在感に満ち、深い慈しみの眼差しを伴って、祈る母子に接する時、母子はそこに自らと同じ地平で心を開く聖なるもの、の姿を発見する。

 どんなに貧しい者の許にも聖母は分け隔てなく現れ、救いの手を差し伸べてくれるという究極の希望を、その絵に見い出すのではないだろうか。

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 ロレートとは、イタリア・アドリア海沿いにある町。キリストが住んでいた家が奇蹟によってナザレからこの地に運ばれたとされている。この絵は1604年に完成したが、カラヴァッジョはその年にロレートを訪れており、イメージを踏まえたうえで制作したと思われる。

 絵は、教会を入るとすぐ左端の礼拝堂にある。最初は暗くてよく見えなかったが、1ユーロの照明を点けると闇の中から聖母子の姿が鮮やかに浮かび上がった。息を殺してただただ、じっと見つめていることしか出来なかった。この絵に出会えたこと。それだけで、この旅は十分だった。

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 そんな驚異の絵を残したカラヴァッジョだったが、現実の世界においては、その作品からは全く想像できないような行動を繰り返していた。制作中は一心に集中してアトリエにこもるが、完成すると仲間を引き連れてローマを闊歩し、武器不法所持、暴行、公務執行妨害、傷害と、立て続けに事件を起こしては警察の厄介になっていた。

 そして1606年5月29日。ちょうど407年前の今日、4人対4人の乱闘の末に殺人事件を起こしてしまい、後に死刑判決を下される。これによってカラヴァッジョはローマから逃亡、その後はナポリ、マルタ、シチリアと流浪の旅を余儀なくされ、土地土地で鬼気迫る作品群を残して行った。

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 1610年、彼の才能を惜しむ有力者たちの助力で、恩赦の道が開かれようとしていた。そのため、4年ぶりにローマへ戻ろうとしていた矢先、トスカーナの海岸ポルトエルコレの街で熱病に侵され、あっけなく38年の生涯を閉じてしまった。あまりにも激しく、あまりにも無謀な人生ではあった。

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 聖アゴスティーノ教会には、他にも著名な作品がある。1512年に描かれたラファエロの「預言者イザヤ」。これは堂内の柱に描かれているので、注意していないと見逃してしまう。ただ、個人的には、あまりラファエロらしさが感じられなかった。

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 こちらは天井のクーポラに描かれた諸聖人の姿。

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 この天井画は非常に細かな描写で面白かった。

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 壁際にたたずむ尼僧。優しい表情で、癒される。

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 一方、出入り口横に置かれた聖母像はさっきの尼僧とは違ってどっしりと懐の深い趣をしていた。

 ローマでのカラヴァッジョの絵は、この他にもカピトリーナ絵画館、バチカン博物館、ボルゲーゼ美術館などあちこちにあり、すべてを見て回ろうとすると大変。ただ、今まで紹介した3つの教会だけでもその迫力は十分に感じることが出来るはずだ。

 

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寝転がる2大聖人ーーポポロ教会

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 フランチェージ教会で評判を取ったカラヴァッジョの許へ1601年、次の重要な仕事が舞い込んだ。ローマの玄関口であるポポロ門の横に建つサンタ・マリア・デル・ポポロ教会のチェラージ礼拝堂側壁への2点の絵画だ。

 「聖パウロの回心」「聖ペテロの磔刑」。パウロとペテロはローマの2大聖人。今でもサンピエトロ大聖堂正門前に2人の彫像が建っている。両作品とも最初の絵は書き直されて、2番目の絵が飾られている。

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 「聖パウロの回心」。仰向けのパウロは目をつぶって瞑想の中にいるように見える。新たに宗教に帰依する道に踏み出すことを決心するパウロの一大覚悟は、周囲の人々にも、もちろん馬にもわからない。第1作では、両手で目を覆うパウロに周囲の人たちが大げさに手を差し出すシーンだったが、2作目は完全な静寂の中にパウロを置いている。この意外性。深い精神性を感じさせてしまう。

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 右側壁の「聖ペテロの磔刑」。逆さ十字架で処刑されたペテロが、十字架にかけられるシーンだ。スポットライトに照らされたペテロの厳しい表情もさることながら、報われることのない死刑執行という仕事に黙々と従事する男たちの見えない顔に、つい思いが行ってしまう。それだけ後ろ姿の印象が強く迫ってくる。まさに、彼らは当時巷にあふれていた下層階級労働者の生身の姿そのものだ。 そんな絵だからこそ、ローマの市民たちに慕われる絵になったのではないかとも思われる。

 2作とも、ダイナミックな構図と強いコントラストで強調された人物像の迫力が、見る者の心に突き刺さる。2大聖人はくしくも両者とも寝転がった形で描かれている。一方はこれから新たな出発点に立つ。また一方は人生の終着点にいる。こんな対照的な2人が同じ格好をしているのも、カラヴァッジョの何らかの意図だったのかも。

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 2つのカラヴァッジョに囲まれた同礼拝堂の正面祭壇画はアンニーバレ・カラッチの「聖母被昇天」が飾られている。カラッチは当時ローマで1番の売れっ子画家。カラヴァッジョはあっという間にローマ1の画家と肩を並べてしまった。

 今回(昨年暮れ)この教会に入ったら、チェラージ礼拝堂だけは写真撮影禁止になっていた。それで、この3枚は以前の訪問時に撮った写真を使っている。ローマは比較的写真撮影に寛大な街だが、徐々に禁止場所が増えてきている印象だ。

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 この教会にはカラヴァッジョ以外にも注目される作品がいくつも展示されている。

主祭壇を飾るのは13世紀のビザンチン板絵「市民のマドンナ」。いつも祈りの人々が絶えない。

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 入口左にあるキージ家礼拝堂は、映画「天使と悪魔」でも謎解きの場所として登場した。ここの設計者はラファエロ。四角い空間の四隅に彫像を配し、天井モザイクの下絵も自ら手掛けた。

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 正面祭壇の絵はセバスティアーノ・デル・ピオンボの「聖母の誕生」。

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 その両脇にはベルニーニの彫像が並ぶ。右側は「預言者ハバクク」。せり出した天使の格好が独特だ。

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 こちらが「獅子と預言者ダニエル」。あれ、獅子はダニエルの足をなめている!

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 別の2隅にはロレンツェットの像が置かれている。

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 こうして見比べると、ベルニーニの像のレベルの高さが良くわかる気がする。

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 ここの天井のクーポラにはラファエロが下絵を描いたキリストが私たちを見下ろしている。このように、ルネサンスの天才とバロックの巨匠が同じ礼拝堂で競演するという、贅沢な空間が実現している。

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 また、ピントゥリッキオの手になる15世紀後半のフレスコ画「幼子キリストの礼拝」もチボ礼拝堂に納められている。淡い色彩、背景に田園風景の広がる穏やかな絵画。カラヴァッジョの激情に疲れたら、ここで一休みすると気持ちが穏やかになるかも。

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 さらに、天井画もピントゥリッキオの作。

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 贅沢な作品群だったが、ここを後にして、次はカラヴァッジョ作品の中でも最も感動的な絵画に逢いに行くことにしよう。

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もう一人のミケランジェロがバロックの扉をこじ開けたーフランチェージ教会

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 1600年、日本では関ヶ原の戦いが展開された年に、ローマではある芸術上の“事件”が起きていた。その現場は、ナヴォーナ広場にほど近いサン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会だ。

 教会の左奥、コンタレッリ礼拝堂に2点の絵画が展示された。「聖マタイの召命」と「聖マタイの殉教」。いずれも強烈な明暗のコントラストを持ち、徹底したリアリズムの技法を駆使して動的なシーンを一瞬で凍結させたようなインパクトで見る者に迫ってくる。

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 作者はミケランジェロ・メリージ。あのダビデ像を造り、システィーナ礼拝堂の天井を華麗に飾った天才ミケランジェロ・ブオナローティがこの世を去ってから36年後、もう一人のミケランジェロが、この教会で衝撃的なデビューを果たした。

 この人物こそカラヴァッジョ。彼は1571年9月ミラノで生まれたが、子供の頃流行したペストを避けるため、両親の故郷に引っ越した。その地がカラヴァッジョという地名だった。ヴィンチ村出身のレオナルドがレオナルド・ダ・ヴィンチと呼ばれるのと同じ形で、メリージもカラヴァッジョとよばれるようになった。

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 早速絵を見てみよう。礼拝堂左側壁にあるのが「聖マタイの召命」。キリストが収税人だったマタイに「私についてきなさい」と命ずる聖書のシーン。右に立つキリストの背後から強い光が発せられ、暗い部屋に座る男たちの顔をスポットライトのように照らしている。まさに、マタイが聖人への道を歩み始めるターニングポイントを切り取った一瞬だ。舞台は庶民の家なのに場面は何と劇的に描かれていることか。

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 従来は左手で指差している髭の男がマタイだといわれてきたが、近年の研究で、左端のうつむく青年がマタイだとされるようになった。

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 また、右側壁は「聖マタイの殉教」。布教活動を続けていたマタイは、エチオピアの教会で殺害された。まだキリスト教が邪教扱いにされていた時代だ。その場面が、今そこで展開されているかのような迫真の臨場感で描きだされている。

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 理想化された美しさを前面に出すような従来の絵画とは根本的に異なったリアリティあふれる彼の絵は、あっという間に評判となり、ローマっ子や信者たちはこれらの絵を見たさに教会に列を作ったという。こうして、ローマバロックの幕が切って落とされた。

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 フランチェージ教会は後期ルネサンス様式のファザード。カラヴァッジョは、この教会のすぐ横にある建物に住んでいた。というのは、当時彼のパトロンだったデルモンテ枢機卿の住まいがそこにあったからだ。

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 コンタレッリ礼拝堂の中央には、それまで聖マタイの彫像が置かれていた。だが評判を呼んだカラヴァッジョに、2年後の1602年再度「聖マタイと天使」の注文が舞い込んだ。福音書を書くマタイと彼に霊感を与える天使。浮遊感たっぷりの構図が面白い。

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 ピッタリと合ったマタイと天使の目を通じて霊感が伝わってくる感覚がわかるようだ。

 私が教会に入ったのは夕方だったが、沢山の人がこれらの絵を見ようと詰めかけていた。この礼拝堂は1ユーロ貨幣を入れて照明をつけるシステムになっていたが、皆次々にコインを入れてくれるので、私は何もせずにじっくりと絵を鑑賞することが出来てしまった。みなさん有難う!

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 ここには他にもいろいろな作品がある。チェチリア礼拝堂にはドメニキーノのフレスコ画「聖チチェリアの殉教」がある。17世紀古典主義の中心的画家の1人で、彼の代表作。

 同じ殉教場面でも、カラヴァッジョの絵とは180度違っている。1つの教会の中でこれだけ違う殉教場面を見ることが出来るのも、ここならではの楽しみだ。

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 主祭壇はフランチェスコ・バッサーノの「聖母被昇天」。

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 この日は室内音楽のミニコンサートがあるようで、主祭壇の前でミュージシャンたちがリハーサル中だった。少しだけだけど優しい音楽を聞けてラッキー。

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 夕方はミサも行われる。信者たちがマリア像に捧げたロウソクの灯が揺れる。教会ならではの美しいシーンだ。

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 こちらのマリア像も優しい御姿をしておられた。

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 オルガンのあるテラスの下には天使たちがテラスを支えながら飛んでいた。

 カラヴァッジョの作品を追って、次は別の教会を訪ねよう。

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古代ローマ帝国の象徴 コロッセオと凱旋門

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 今回からローマの教会を中心とした街巡りを始めます。

 第1回は多分ローマで最も有名な古代建築物コロッセオ。「コロッセオが滅びればローマは滅び、その時世界が滅びる」と言われたほど、コロッセオは昔からローマの象徴的な建築であり続けた。

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 ここへの行き方は簡単だ。テルミニ駅からなら、地下鉄B線で2つ目のコロッセオ駅で降りれば、目の前にあの巨大な円形闘技場が現れる。

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 完成はティトゥス帝時代の紀元80年。5世紀の初めに禁止されるまで、ここでは約300年以上にわたって人間と野獣、奴隷同士の殺し合いがエンターテイメントとして展開されていた。円形ではなく楕円形をしており、円周527m、高さ48.5m。

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 一度近くのヴィンコリ教会に来た時に外観だけを遠目に見たが、ライトアップを見たくて出直した。ただ、ちょっと出遅れて、着いた時はもう夕陽が沈みかけていた。

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 北東の部分は2000年の歳月を越えて4階までの外観が残っている。

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 コロッセオのすぐ横にはコンスタンティヌス帝の凱旋門がある。門には至る所に装飾が施されているが、実はその大半は以前の建物の装飾を再利用したものだ。

 例えば、中央アーチの両側に2つずつある円形の浮き彫りは、ハドリアヌス帝時代の建築から流用したものだし、その上部の両側の浮き彫りは、マルクス・アウレリウス帝時代の建築から持ってきたものだという。ただ、寄せ集めなんだけれど、結構バランスの取れたデザインになっているところにはちょっと感心。

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 コンスタンティヌス帝が、キリスト教を異教としていたマクセンティウス帝との戦いに勝った記念として315年にこの門を建設した。同帝はキリスト教を公認した(ミラノ勅令・313年)最初の皇帝としても知られる。

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 同じ凱旋門でも、ライトアップされるとまた違った印象になる。

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 コンスタンティヌス帝は公共浴場や水道施設の修理など都市整備に努めたが、最盛期を過ぎて衰退し始めていたローマについに見切りをつけ、330年、都をイスタンブールに遷都し、自らもローマから去って行った。

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 コロッセオに戻ろう。この柱頭(柱の先端部分)をよく見ると、各階ごとに異なった様式を取り入れている。1階は単純なドーリア式、2階は渦巻き模様のイオニア式、3階は葉っぱの飾りのコリント式、4階はイオニア、コリントの複合したコンポジット式になっている。

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 ライトアップされてコロッセオが黄金色に浮かび上がった。そこだけ別次元のエネルギーを発散しているかのようだ。

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 完成当時はこの外壁は白大理石が張られていたが、その後要塞となったり、別の建築物の建設資材の供給源となってしまったりしていた。本格的な保存策が始められたのは19世紀になってからだった。

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 ちょうどクリスマスシーズンだったので、大きなツリーが設置されていた。

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 戦士の格好をした人が記念写真を誘い、法外な料金を請求するケースが頻発している。彼らの、日本人観光客へのアプローチは、サッカー選手の名前で呼び止める形が多い。以前は「ナカタ~」だったが、今は「ナガトモ~]になったようだ。

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 帰りがけ、急に強風が吹き始め、嵐のようになった。カエサル暗殺後の混乱を収拾してローマ帝国初代皇帝となったアウグストゥス帝から、帝国が東西に分裂するまでの420年間、ローマは世界の中心であり続けたが、一方では血で血を洗う戦いの歴史でもあった。そのど真ん中にそびえ立つコロッセオ。人と野獣の殺し合いの場であったコロッセオは今でも、やはりローマの不穏な空気を常にはらみ続けているように、私には感じられた。

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降り注ぐ藤の花びらーあしかがフラワーパーク

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 栃木県の南の端・足利市に「あしかがフラワーパーク」という公園があります。ここの名物は藤の花。ちょうど5月のこの時期は大藤祭りが開催され、見事な藤を見ることが出来ます。

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 東京からは東武線で足利市駅まで行き、そこから出ている送迎バスでパークまで行きました。

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 一番の見どころは、巨大な藤棚から降り注ぐように咲く藤。

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 大きな木は樹齢145年を超えるそうです。

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 園の中ほどには池があり、白藤も花盛りでした。

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 地面にこぼれ落ちた花びらがあふれ、周囲は紫一色。

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 大藤棚の面積は1000平方mもあるとか。

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 影になった場所の花が奥の光の中でシルエットになります。

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 特に、まだつぼみの花が垂れ下がる。そんな姿が優しい。

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 青空がバックだと、一層いいですね。

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 白藤もあちこちで見かけました。

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 白い藤と紫の藤、どちらが好き? 意見は分かれるでしょうね。でも、私はやっぱり紫かな。

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 沢山の観光客が来ていました。ほとんど風がなかったのですが、この時は一瞬風で花が揺れて傾きました。真っ直ぐ直線より、曲線の変化があったほうが、味わいが出るのかな、とも思いました。

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ベゴニアと熱帯の花々ーー京都府立植物園で

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 先月上旬京都に行った時に、府立植物園を見学しました。桜の花が主目的だったのですが、植物園だけに様々な花が咲いていました。それで今回は、そこで見た花の写真をいくつかご覧頂きます。

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 一番目に留まったのはベゴニア。というのも、園内で「ベゴニア展」という特集をしていたんです。名前はほとんどうろ覚えなので、間違いも多いと思いますが、残っていたメモを頼りに一応記載しておきます。これはカメリアホワイト。

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 この真っ赤なベゴニアはラッフルド・カメリア・スカーレット。

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 こんなピンクの縁取りのあるベゴニアもありました。

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 ベゴニアの花言葉は、赤系だと公平、片思い。

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 白系は親切、片思い。どちらにしても片思いは共通しているんですね。

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 こんな華やかな種類もありました。

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 こちらはベゴニア展だったか,その他の場所だったか・・・。

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 変わって、熱帯植物のコーナーで見たものたちです。こちらはメモしてきました。ジェイドバイン。

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 ゲラニウム。紫がきれい。

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 ファレノプシス。この名前は聞いたことがありました。

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 テンドロビウム。全くの初耳です。

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 プセイドボムバクス。こちらに至っては果たして花なのかどうかもわかりません。

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 これは熱帯コーナーから出たところにあった花。

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 これははっきりわかります。園内の広場にあふれるように咲いていたチューリップ。

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 そして、春の日差しを受けてキラキラと輝いていたツツジ。見事なきらめきでした。

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思いがけぬプレゼント “イスタンブール遊覧飛行”

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 これまで何度も触れてきたように、イスタンブール滞在中は全く青空を見ることが出来なかった。ところが、予定外の日に思いがけず晴れ渡った街に出会った。それはローマからの帰り道。イスタンブールでのトランジットだったが、イスタンブール空港は旧市街やボスポラス海峡のずっと西側にあるので、そこに直接到着すれば海峡を見ることは出来ない。また、同空港から日本への便は夜なので、イスタンブールのパノラマは見られないと思い込んでいた。

 ところが、飛行機は空港を眼下に見ながらも、降下せずに旧市街に向かって進んで行く。そしてボスポラス海峡に沿うように北上して旋回し、空港に戻ってくるという、まるで遊覧飛行のようなコースを飛んでくれた。これが通常のコースなのか、その日が特別だったのかはわからないが、私としては極上のプレゼントをもらったような時間だった。

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 右側の出っ張った半島のような部分が旧市街だ。対岸はもうアジアの陸地。

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 ボスポラス海峡が横に延びてアジアとヨーロッパを分けているのが良くわかる。2つの大陸を分かつ海だ。

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 霞んでいるが、中央にボスポラス大橋が架かっているのがわかる。

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 さらに進むと第2大橋=ファティーフ・スルタン・メフメット大橋が見えてくる。

 1988年のこの建設の際、橋げたの高さを巡って旧ソ連とアメリカの双方からトルコに圧力がかかった。アメリカはソ連の大型船の通行を制限しようと、極力高さを低くすることを求め、ソ連はその逆を主張した。ソ連にとって、この海峡は黒海から地中海に進出するための唯一の海の道だったからだ。

 東西冷戦は、翌年1989年のベルリンの壁崩壊とともに終了したが、ここは激しい潮流の関係で原子力潜水艦でさえ浮上しなければ航行できないという、現在でもきわめて重要な戦略上のキーポイントであり続けている。

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 飛行機は黒海の見える海峡北端付近まで行って、西に旋回を始めた。海峡クルーズの観光船はこの付近まで運行しているようだ。

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 はるかなトルコを眺めているうちに、村上春樹のトルコを語った言葉が思い出された。

 「僕はトルコという国に対して強い興味を抱くようになった。

 僕を引き付けたのは そこにあった空気の質のようなものではなかったかと思う。

 肌触りも 匂いも 色も 何もかもが

 僕がそれまで吸ったどのような空気とも違っていたのだ」

 (「雨天炎天ーギリシャトルコ辺境紀行」)

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 そんな どこにもない、そこだけにある空気感を、イスタンブールは強烈に発散していた。

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 「東洋と西洋のはざまで、3つの海に囲まれた比類なき都市。住民がいてスラムがあり、路地が曲がりくねった迷路のように走る、起伏に富んだ都市」

 (ネディム・ギュルセル「最後の路面電車」)

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 第2大橋の真上に来た。現在この付近に地下鉄建設工事が進められているという。

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 沢木耕太郎の「深夜特急」には、こんな印象深い文章があった。

 「旅は人生に似ている。以前私がそんな言葉を耳にしたら、書いた人物を軽蔑しただろう。少なくともこれまでの私だったら、旅を人生になぞらえるような物言いには、滑稽さしか感じなかったはずだ。

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 しかし今、私もまた、旅は人生に似ているという気がし始めている。多分、本当に旅は人生に似ているのだ。どちらも何かを失うことなしに、前へ進むことは出来ないから」。

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 大きく旋回した飛行機は、金角湾に架かる3つの橋のうち最も奥にあるハリハッチ橋まで南下してきた。この道路は、ボスポラス大橋を経由してアジア側につながるイスタンブールの大動脈になっている。もう、空港はすぐそこだ。

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 そして、空港に到着した。後は飛行機を乗り換えて日本に向かうだけだ。

思いがけない遊覧飛行をプレゼントしてくれたトルコ空港に感謝。また、異文化の不思議世界を垣間見せてくれたイスタンブールに感謝して、この旅行記を終えよう。

 そして、最後までお読みいただいた読者の皆様、本当に有難うございました。

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ガラタ塔から見下ろすイスタンブールのブルーファンタジー

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 夕暮れ時のガラタ塔からの眺めは、優しく青い気体に包まれたファンタジーの世界だった。

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 イスタンブールのアジア側から戻って、新市街にあるガラタ塔に昇った。

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 ガラタ塔は高さ67m。灯台として使われていたものを、その地区への居住を許されていたジェノヴァ人が14世紀に監視塔として改造した。エレベーターで8階まで行くとベリーダンスショーも見られるレストランがある。そこから階段を上れば展望所だ。

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 この塔からはすぐ向かいの旧市街はもちろん、アジア側も見渡すことが出来る。鉛色の空が次第に青味を帯び、たそがれを連れてくる。

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 旧市街は栄光と衰退の歴史を刻んだ世界史の舞台。その面影を伝えるトプカプ宮殿に明かりが灯る。

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 世界に類のない都市のフォルムを浮かび上がらせるモスクのミナレットは、信ずる神の交代を象徴する記念塔として時代の王たちが築いてきたものに他ならない。

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 街灯の薄明かり。闇が詩のように降ってくる。

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 2006年ノーベル文学賞を受賞したトルコの文学者オルハン・パムクは著書「イスタンブール」でこう語る。

 私は子供のころから、雪の降るのを待ち焦がれていた

 外に出て雪の中で遊ぶためではない

 雪の下の街が より美しくみえるからだ。

 早く暗くなる夕暮れを

 北風に震える裸の木々を

 黒いコートと上着をを着て薄暗い道を家路につく人々を

 眺めるのが好きだった。

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 ガラタ橋の向こう、もう見慣れたものになったあのモスクが光を発し始めた。

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 「金角湾には暗い光がポツリポツリ見える

 それに対して、イスタンブールの丘の上にはいくつもの首飾りが

 純白の華奢な首にかけられている

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 それは夜モスクのドームに灯され、四連の輝きを放って

 金の常夜灯のように輝いている」

 建築の巨匠ル・コルビジェは、モスクのミナレットを首飾りに例えた。

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 闇に沈んで行くボスポラス海峡を越えて、アジア側の照明も手を伸ばせば触れそうな近さで感じることが出来る。

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 すっかり青い闇に包まれたトプカプ宮殿のオレンジの明かりは、崇高な祈りにも似た静けさの中にあった。

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 アジア、新市街、旧市街・・・。深く異なる三つの街を併せ持つこの都市は、ビザンチン、コンスタンティノープル、イスタンブールと三度名称を変えてきた。

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 それは、取りも直さず三つの侵略によって成立してきたことを意味している。そして、異なった文明の衝突が、たぐいまれな新しい文化をも生み出してきた。この街が次の時代には私たちにどんなサプライズを準備しているのだろうか。

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 イスタンブールの最後の夜。

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 夜は時に、人々に対して回顧と展望の遥かな時間を提供してくれることがある。

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ハイダルパシャ駅・オリエント急行とアガサ・クリスティ

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 連絡船を下りてアジア側の街カドキョイに着いた。旧市街に比べると新しい街で、港前広場から賑やかな通りが広がっていた。

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 この表通りにはモダンなカフェやショップが並ぶが、今回は時間もないので目的地に直行する。

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 港を挟んで向かい側に建つ堂々とした建物が目的地のハイダルパシャ駅だ。6階建ての鉄道駅で、完成は1908年。ドイツのウイルヘルム2世がバグダッド鉄道敷設の権利を獲得した見返りとして建設された。

 当時のドイツは東方への進出を夢見ており、ベルリン、ビザンティン、バグダッドの3Bを結ぶ鉄道建設計画を進めていた。逆から見れば、アジアの人たちはこの鉄道に乗って、はるか東方からヨーロッパを目指す貴重な路線となる。そのアジア側の終着駅がハイダルパシャ駅になるわけだ。

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 一方、ヨーロッパ側の旧市街では、パリ、ロンドンへの陸の旅を可能とするオリエント急行が、1883年10月に運行を開始していた。始発駅はシルケジ駅。1923年にオスマン帝国が滅亡し、トルコ共和国が誕生すると、東西の交流が一層活発になって行った。

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 そんな1928年、ある一人の女流作家がイスタンブールへの旅に出発する。

 彼女は友人宅でのパーティで偶然オリエントの話を聞いた。興味をそそられた彼女だったが、船旅が苦手なため、気乗りはしなかった。「オリエントに行くには船しかないんでしょう?」「そんなことないですよ。汽車が走っていますよ」「本当?」。

 彼女は数日後、オリエント急行の車中の人となった。その人の名はアガサ・クリスティ。

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 アガサは同年、軍人の夫と離婚していた。未知の旅に心機一転を図ろうとしていたのかもしれない。旅はイスタンブールに2泊しただけでなく、アジア側のハイダルパシャ駅からベイルート、バグダッドまで足を伸ばしている。

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 その当時のハイダルパシャ駅は活発な東西の交流を反映して混沌とさえ言えるほどの活況を呈していた。彼女のこんな言葉が残っている。「ハイダルパシャ駅ほど精神病院に近い所は他に知らないわ」。今では差別用語になってしまう物の言い方が、当時の様子をよく表わしていると言えそうだ。

 この駅構内のステンドグラスも彼女は見ていたに違いない。

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 こうした見聞を基に後に創作されたのが、あの名作「オリエント急行殺人事件」だった。作品の冒頭はエルキュール・ポアロがシリア発の列車でハイダルパシャ駅に着く。ここから連絡船でガラタ橋まで行き、ヨーロッパ側のシルケジ駅からオリエント急行に乗って行く。海峡を渡る時は「冬のボスポラス海峡は荒れていて、船で越すのは大変だった」と記している。確かに・・。

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 彼女はその後何度もイスタンブールを訪れ、新市街のベラホテルを定宿にしていた。1929年の訪問の際には考古学者マックス・マローワンと出会い翌年に再婚している。彼女にとってイスタンブールは公私ともに忘れられない運命の地となった。

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 繁栄を誇ったオリエント急行も、間もなく衰退の運命が待っていた。第二次世界大戦以後急速に飛行機が普及すると、豪華でロマンティックな旅ではあったが、イスタンブールまで4日もかかる列車に比べて、飛行機なら数時間。遠距離旅行の主役は完全に飛行機に奪われてしまった。イスタンブールからパリへの定期便の最終列車は1977年のことだった。

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 現在ではトルコ国内の交通は圧倒的にバスが多く、ハイダルパシャ駅も閑散としていた。でも、窓口のステンドグラスの風格はさすがという感じのものだった。

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 駅の外に出ると、花嫁姿の女性とすれ違った。

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 「コングラッチュレーション!」と声をかけたが、あまり反応がない。しばらく見ていたら、実は雑誌のグラビア写真を撮るためのロケのようだった。道理で反応が鈍かったわけだ。

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 駅前広場にはアタチュルク大統領がこの駅を訪問した時の写真パネルが掲示されていた。まさに鉄道全盛期の盛況がうかがわれる光景だ。日付は1929年8月6日。ちょうどアガサがトルコ旅行の際に再婚相手と出会った年だった。

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 ところで、オリエント急行に初めて乗った日本人は誰だったのだろうか?

森鴎外とされている。彼のドイツ日記には1888年9月28日にドイツーウイーン間を乗車したと記載されている。

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 旧市街側のシルケジ駅は工事中で、構内レストランにはオリエント急行の映画のパネルなどがあると聞いていたが、たまたま休みになっていた。残念!

気が付いたら、さきほどアクセス数がちょうど30万回を突破しました。これも皆様のおかげです。有難うございました!

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