ああ、ついにカミーユが壊れた!-ロダンとカミーユの物語⑧
ロダンは1900年のパリ万博で、独自に「ロダン館」を特設して150点もの彫刻作品を展示した。この試みは、注文が相次ぐ大成功を収め、ますます大彫刻家の地位を確固たるものに して行く。
対してカミーユとの距離は一進一退を繰り返しながら、確実にダメージを大きくしていった。その原因の多くは、カミーユの叶えられない独占欲が高じて巻き起こすロダンへの嫉妬、そして根拠のない被害妄想へとつながって行く。
そんな折り、1895年に国から初めての彫刻発注がなされた。そして制作されたのが「分別盛り」 だった。一人の男が年老いた女にさらわれようとしている。ただ、左手だけは後方に伸ばしている。その先には若い女。
女はひざまずき、声を限りに 男の名を呼んでいるかのようだ。
しかし、差しだした両手は、男の指先にもう少しのところで届かない。
残酷な光景だ。だが、カミーユにとってはこれが現実の世界。
愛しのロダンを奪って行くのはローズ・ブーレ。ローズはこのころ50代前半。しかし像はまさに老婆として存在する。むしろ、年上のロダンの方が若めにみえる。
そこに愛憎の度合いが反映しているのだろうか。いずれにしても、最も救いの見い出せない存在の若い女。カミーユはこの像に怒りと嘆きとをぶつけて出来あがった痛恨の一作だった。
弟ポールはこの作品について「この裸の若い女、それは私の姉なのだ。嘆願し、屈辱を受けてひざまずく。あの美しく誇り高い女が、こんな風に自分を描いている」と、驚きと悲しみの入り混じった言葉を書き綴った。
そして1899年1月、カミーユはロダンの許を去ってサンルイ島のブルボン河岸通り19番地に一人さびしく移って行く。もはや、二人の関係は修復不可能な段階に行きついてしまった。
17世紀の貴族の館が建ち並ぶ サンルイ島は静かで落ち着いた住宅地だ。カミーユのアパルトマンの並びにはヴェルサイユ宮殿を設計したル・ヴォーの手掛けたランベール館やボ-ドレールが住んでいた ローサン館などの建物が続く。だが、カミーユはアパルトマンにこもりがちの生活が 始まる。
取材に訪れたアンリ・アスランは当時の彼女の印象をこう記した。「彼女は神経質そうでいらいらしていた。当時40歳だったが、50歳くらいには見えた。人生の苦労の足跡がはっきり目立ち、無残に容色を奪っていた」。
そんな1904年、ロダンは「ラ・フランス」 と題する胸像を製作する。美しく情熱にあふれた若き日のカミーユを、フランスを象徴する擬人像として造り上げた。もう戻ることのない永遠の女性へのオマージュを込めた作品なのだろうか。
対してカミーユは1905年ごろから異常な行動が目立ってくる。
「毎年夏になるとカミーユはその年1年間に造った作品をことごとくかなずちで叩いて徹底的にぶち壊す作業を始めた。彼女のアトリエはがれきや残骸の廃墟となった」(アンリ・アスラン)
「パリ、カミーユ発狂。恐るべき不潔さ。彼女はひどい有様で汚れた顔をし、一本調子の金属的な声で、絶えず喋り続けている」(1909年9月5日、ポールの日記)
「カミーユ、朝4時に自宅から脱走。行方知れず・・・」(1911年11月28日、ポールの日記)
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