« 2013年12月 | トップページ | 2014年2月 »

2014年1月

ああ、ついにカミーユが壊れた!-ロダンとカミーユの物語⑧

Pc176765

 ロダンは1900年のパリ万博で、独自に「ロダン館」を特設して150点もの彫刻作品を展示した。この試みは、注文が相次ぐ大成功を収め、ますます大彫刻家の地位を確固たるものに して行く。

 対してカミーユとの距離は一進一退を繰り返しながら、確実にダメージを大きくしていった。その原因の多くは、カミーユの叶えられない独占欲が高じて巻き起こすロダンへの嫉妬、そして根拠のない被害妄想へとつながって行く。

Pb267217

 そんな折り、1895年に国から初めての彫刻発注がなされた。そして制作されたのが「分別盛り」 だった。一人の男が年老いた女にさらわれようとしている。ただ、左手だけは後方に伸ばしている。その先には若い女。

Pb267201

 女はひざまずき、声を限りに 男の名を呼んでいるかのようだ。

Pb267188

 しかし、差しだした両手は、男の指先にもう少しのところで届かない。

 残酷な光景だ。だが、カミーユにとってはこれが現実の世界。

Pb267187

 愛しのロダンを奪って行くのはローズ・ブーレ。ローズはこのころ50代前半。しかし像はまさに老婆として存在する。むしろ、年上のロダンの方が若めにみえる。

Pb267200

 そこに愛憎の度合いが反映しているのだろうか。いずれにしても、最も救いの見い出せない存在の若い女。カミーユはこの像に怒りと嘆きとをぶつけて出来あがった痛恨の一作だった。

Pb267252

 弟ポールはこの作品について「この裸の若い女、それは私の姉なのだ。嘆願し、屈辱を受けてひざまずく。あの美しく誇り高い女が、こんな風に自分を描いている」と、驚きと悲しみの入り混じった言葉を書き綴った。

 そして1899年1月、カミーユはロダンの許を去ってサンルイ島のブルボン河岸通り19番地に一人さびしく移って行く。もはや、二人の関係は修復不可能な段階に行きついてしまった。

Pb287964

 17世紀の貴族の館が建ち並ぶ サンルイ島は静かで落ち着いた住宅地だ。カミーユのアパルトマンの並びにはヴェルサイユ宮殿を設計したル・ヴォーの手掛けたランベール館やボ-ドレールが住んでいた ローサン館などの建物が続く。だが、カミーユはアパルトマンにこもりがちの生活が 始まる。

 取材に訪れたアンリ・アスランは当時の彼女の印象をこう記した。「彼女は神経質そうでいらいらしていた。当時40歳だったが、50歳くらいには見えた。人生の苦労の足跡がはっきり目立ち、無残に容色を奪っていた」。

P1079207

 そんな1904年、ロダンは「ラ・フランス」 と題する胸像を製作する。美しく情熱にあふれた若き日のカミーユを、フランスを象徴する擬人像として造り上げた。もう戻ることのない永遠の女性へのオマージュを込めた作品なのだろうか。

 対してカミーユは1905年ごろから異常な行動が目立ってくる。

 「毎年夏になるとカミーユはその年1年間に造った作品をことごとくかなずちで叩いて徹底的にぶち壊す作業を始めた。彼女のアトリエはがれきや残骸の廃墟となった」(アンリ・アスラン)

 「パリ、カミーユ発狂。恐るべき不潔さ。彼女はひどい有様で汚れた顔をし、一本調子の金属的な声で、絶えず喋り続けている」(1909年9月5日、ポールの日記)

 「カミーユ、朝4時に自宅から脱走。行方知れず・・・」(1911年11月28日、ポールの日記)

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

傑作「ワルツ」に込めた想いーロダンとカミーユの物語⑦

Pb267166


 カミーユは1893年、彼女の代表作の一つとなる作品「ワルツ」を完成させている。一組の男女が無心にステップを踏んでいる。女性の腰から広がる衣服のひだは、心のひだを反映してどこまでもよじれ、その先から哀しみの音楽がほとばしるようだ。

Pb267169


 密着しているようだが、二人のほほは触れ合っていない。わずかながらも距離を保ち、体の重心は微妙にずれて、女性は今にも倒れそうだ。

Pb267180


 愛の高揚感と、別れを予感させ隙間風の忍び込む欠落感。矛盾する2つの感覚を併せ持つこの作品に、カミーユの迷える心が反映されているようだ。

Pb267170001


 外交官として駐日フランス大使も務め、また著名な詩人でもあった弟のポール・クローデルはこの作品について「音楽を聴き、ワルツを舞う女ー彼女の心をとらえ、そして彼女をめくるめく陶酔へと誘うワルツを舞う男の下でーそれは彼女[カミーユ]なのだ」と、記した。純粋で一途な姉が、中年の男によって傷つき崩れて行くことへの言いようのない怒りさえも、この控えめな表現の裏で震えているような気がする。

Pb267253


 また、美術評論家オクターヴ・ミルボーの言葉が胸に沁みる。

 「一体この二人はどこへ行くのだろうか。愛へだろうか、死へだろうか。確かなことは、この群像からは、胸を刺すような哀切さ、あまりにも悲痛で、死かあるいは死よりももっと悲しい愛からくるとしか思えないような哀切さが、立ちあがってくる」。

Pb267256


 そんな、この男女の像を、短い交際の末にカミーユと別れたドビュッシーは、生涯離さず自らのピアノの上に飾っていたという。

 

| | コメント (4) | トラックバック (0)

別れの始まり、淡い恋ーロダンとカミーユの物語⑥

Pb267280


 (ローズ・ブーレがモデルといわれるロダンの作品「花飾りの帽子の女」)

 カミーユにとって最大の問題は、ローズ・ブーレの存在だった。ローズは、パリでお針子として働いていた20歳のころロダンと知り合い、まだ下積みの生活をしていたロダンをずっと支え続けてきた。結婚こそしていなかったが、二人の間には子供もおり、事実上の夫婦だった。芸術に関してはうとかったものの、ひたすら家庭を守り、石膏像に毎日布をかけて管理するなど献身的に尽くしてきた。

Pc298793001


 若さも美貌も才能も、何一つローズに劣る所はない。すぐにロダンはローズと別れるだろう、と高をくくっていたカミーユ。だが、ロダンは決してローズを捨てようとはしなかった。

 「今夜私は君を探して何時間もさまよい歩いた。なぜアトリエで待っていてくれなかったんだ。ああ、私の女神、私の恋人よ」。カミーユにとろける様な恋情を吐露したかと思うと、

 一方で「私の優しいローズ、私がお前を愛していることを信じておくれ。今夜はお前の所に帰るよ」などと、ローズに言葉をかける。

 おろおろと決断を先延ばしにする愚かな中年男の一面も、ロダンは併せ持っていた。この間に妊娠、中絶という悲しい出来事も経験していた。

Claude_debussy_ca_1908_foto_av_flix


 そんな時、ふとカミーユの心を揺らす一人の男性と出会った。音楽家ドビュッシー。1889年、パリで開かれた万博には東洋の絵画の紹介がなされ、ジャポニスムがブームとなった。その万博にドビュッシーとカミーユは訪れ、北斎の浮世絵に共感するひとときを持ったりもした。

P1079081


 この経験は後に「」という作品を制作する大きな動機となった。ドビュッシーが弾くピアノ、その調べを静かに聴き入る時間を過ごすこともあった。

P1079080


 「ああ、私は彼女を本当に愛していました。そして身振りや表情からはっきり、彼女が魂をそっくりゆだねてはくれないだろうということを、(中略)感じていただけになお一層私は悲しい熱情で彼女を愛したのです」。ドビュッシーが友人宛てに書いた手紙がある。実名を記していないものの、「彼女」はカミーユを指していると見られる。

P1012053


 その万博の時に建設されたのがエッフェル塔だった。エッフェル塔のすぐ近くにあったロダンのアトリエ。仕事場として通う道すがらこのエッフェル塔を眺めながら、カミーユは何を思っていたのだろうか。

Pb267236


 1892年、ついにカミーユはロダンと住んでいた家を出る。それはロダンとの完全な断絶ではなかったが、いくつもの山や谷が待ちうける決別までの長いアプローチの始まりだった。

 この年にロダンが造り上げたカミーユ像がある。タイトルは「アデュー」(さようなら)。何と象徴的なタイトルなのだろうか。

 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

高め合う二人、でも何か欠けたものが・・・-ロダンとカミーユの物語⑤

Pb267250


 カミーユも意欲的に作品に取り組んだ。「束を背負った若い娘」。何ときゃしゃで可憐な娘の像だろう。一途に働く若い女性の一瞬をとらえた像は、まさに自らの姿を投影したものだったのかも知れない。

Pb267156


 そして1988年には究極の愛の姿をも制作した。「シャクンタラー」。ヒンズー教の叙事詩「マハーバーラタ」の中に出てくる王と乙女の物語で、愛し合う二人の別れと再会とを綴ったラブストーリーだ。Pb267266


 ドゥフシャンタ王は一旦は別れたものの、娘シャクンタラーに許しを求めてひざまずく。愛し合う二人が一点の曇りもない信頼で互いに顔を寄せ合っている。

Pc298788


夢のような理想の一瞬の凝縮、それは自分たちの思いを大理石に込めたもの、と言ってもいいだろう。。

Pb267157


 このテーマは、後に「ヴェルトゥネスとポーモ」や「心からの信頼」と名前を変えて何度も作成された。

Pb267213


 カミーユはさらに肖像にも挑戦する。シャクンタラーと同じ年、まさにそのものずばりの「ロダンの肖像」が造られた。

Pc176770


 対してロダンは「永遠の青春」を造り出す。25歳のカミーユに対してロダンは49歳。それでもあえてこのタイトルを付けたロダンの一途な思いが透けて見えるような気がする。

 ロダンがカミーユを造り、カミーユがロダンを造る。愛し合う二人がお互いを見つめ合い、その結果として愛の作品が生まれる。こんな至福の時間は、ただ芸術家同士の愛にのみ許された至高の境地なのではないだろうか。

Pb246549


 しかし、そんな幸せの時も長くは続かなかった。カミーユが旅先でロダン宛に出した手紙の中にこんな文章がある。「いつも何か欠けたものがあって、それが私を苦しめるのです」。後にブルボン河岸19番地のプレートの一番下にも掲載された文章だ。

 カミーユは作品を制作するものの、なかなか正当な評価を得られなかった。常に“ロダンの弟子”という前提が付いて回り、ロダンの模倣にしか過ぎない、あるいはロダンが造ったものを流用しているのでは、といったうわささえ立った。

P1169262


 「束を背負った若い娘」などは、これと同じポーズの作品「ガラテア」を逆にロダンが、その2年後に制作しているというのに・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

魅かれあう二人と愛の作品群ーロダンとカミーユの物語④

Pb267321


 ロダンはそのころ、生涯を通じて取り組むことになる「地獄の門」の制作を国から受注していた。それに伴って、国の所有する大理石貯蔵所構内にあるアトリエの使用を許可された。そのアトリエの場所はウニベルシテ通り182番地。

Pb267448


 私が宿泊したヴォルテール通りに並行してウニベルシテ通りはあった。「ああ、すぐ近くなんだ」と安心して、詳しく調べずに出かけてみた。ところが、この通りはとても長い通りであることに、歩き出して初めて気が付いた。

 東側の起点は国立美術学校のすぐ南側。この美術学校は、ロダンが3回受験していずれも失敗した因縁の学校だ。そこから西に向かってセーヌ川と平行にどこまでも伸びる道だった。

Pc176693


 通りを2つ隔ててオルセー美術館を過ぎ、アレクサンドル3世橋のさらに先へ進み、エッフェル塔の手前まで伸びていた。

Pb267445


 182番地は、イギリスのダイアナ妃が事故死した現場のあるアルマ橋の手前付近にあった。ロダンはその後いくつかの別のアトリエを持ったが、このアトリエを特に大事にし、手紙にもずっとここの住所を書き続けていた。

Pb267446


 さあ、二人の物語に戻ろう。ロダンは才気にあふれ、しかも美貌を兼ね備えたカミーユをすっかり好きになってしまった。彫刻の指導も、初めはカミーユたち画学生たちの借りていたアトリエに出向いていたが、次第にウニベルシテのアトリエにカミーユを呼ぶようになって行く。そして、1984年にはもう、カミーユをモデルとした作品を作り始めている。彼はカミーユのとりこになっていたのだ。

00001


 86年に制作した「パンセ」はカミーユの一途で純真な表情を捉えた傑作だ。

 そうした思いは、カミーユにとっても同じだった。尊敬する師であり、自らが目指す彫刻世界の頂点へと駆け上りつつある逞しい男性。その師は、彫刻の出来栄えを大きく左右する作品の手足部分の制作を任せてくれた。信頼の証だ。カミーユの心は急速に傾いて行った。

 そのころの様子を評論家マティアス・モラールはこう記している「彼女は小さな椅子に座り、黙々と熱心に働いていた。一心に仕事に打ち込み、粘土をこねて、目の前に置かれた人物像の手や足を形づくっていた」。

 しかも、アトリエはしばしば二人だけの密室と化す場所になり得る。激しい性格の持ち主であるカミーユの恋の炎がメラメラと燃えあがるのに、それほどの時間は要しなかった。

Pb267301


 ロダンの気持ちを具現化した作品「接吻」がある。男と女が互いに相手を求めあう強い本能のほとばしりを感じさせる作品だ。

P1079107


 また、「パオロとフランチェスカ」は「地獄の門」の素材として構想されたが、独立した作品となったもの。

P1079106


 「フギットアモール」も、この頃の作品で、男女の愛の形を表現している。

 それまで荒々しい男性像を作り続けてきたロダンが、男女の愛の世界という新しい表現に挑戦し、会得して行く。それは恋愛のるつぼにはまり込んだロダンにとっては、必然的な激情の発露でもあった。

お蔭さまで12日に通算アクセス数が40万回を突破しました。有難うございます!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「神の手を持つ男」との運命の出会いーロダンとカミーユの物語③

Pb267273001


 ロダンは19世紀から20世紀にかけて時代を代表する彫刻作品を次々と発表して、「神の手を持つ男」とまで讃えられた彫刻界のスーパースターだ。そのきっかけとなったのは「青銅時代」だろう。

Pb267273


 1877年に完成したこの作品は、あまりにも完璧だったがゆえに「生身の人間から型を取った作品ではないか」という中傷まで受けるほどだった。

Pb267282


 さらに1980年には「洗礼者ヨハネ」を発表、サロンに入選して脚光を浴びることになった。

Pb256696


 そんなころ、1881年にカミーユはパリに出て、グランド・ショミエール通りにあるコラロッシ美術学校(今はレストランになっていた)に通い始めた。子供のころから粘土細工が好きだった少女が、初めて本格的に彫刻の修業を始めたのだ。

Pb256710


 その翌年から家族で住んでいたノートルダム・デ・シャン通り111番地に行ってみた。

Pb267059


 そこは、モンパルナス。約100年前にはピカソ、モディリアーニ、フジタなどエコール・ド・パリの芸術家たちが熱く芸術を語った場所。カフェ・ロトンド、ル・ドームなどのカフェが建ち並ぶヴァヴァン地区にほど近い通りだ。

Pb256718


 たまたま朝に訪れたせいで多数の子供たちと出会った。そしてその子供たちはまさに、探していた111番地にある建物に吸い込まれて行く。そう、今はそこは学校に変わっていた。

Ca21001_3

カミーユたち女子学生を指導していたのは彫刻家アルフレッド・ブーシェだったが、彼はサロンで大賞を受賞し、イタリアに留学することになった。そのため、画学生たちの指導を頼んだのが、ロダンだった。

2703_ca22d9c9754a7e91001

1883年、そんな経過を経てロダンとカミーユは運命の出会いをすることになる。時にロダン43歳、カミーユ19歳。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「芸術家としての生涯を終えた場所」-ロダンとカミーユの物語②

Pb287946


 今にも雪が降り出しそうな、寒くて暗い午後だった。パリ・シテ島にそびえるノートルダム大聖堂で、創建850周年を記念して盛大なミサが行われていた2013年11月24日、私はそのシテ島の隣り、セーヌ川に浮かぶサン・ルイ島を訪れた。

Pb288012


 メモリアルを祝う市民たちでにぎわう大聖堂から、ほんの数分の距離なのに、サン・ルイ島はひっそりと静まり返っていた。

Pb246543


 サン・ルイ橋を渡り、同じ高さの建物が並ぶ石畳の道を進む。

Pb246544


 その通りに一軒だけ、2階のバルコニーがせり出したアパルトマンがある。ここがパリ4区ブルボン河岸通り19番地。近づくと1階部分にプレートが掲げられている。

Pb246548


 カミーユ・クローデル 彫刻家。「ここでの生活の最後の日、彼女のアーティストとしての短い生涯は終わりを告げ、そして監禁の長い夜が始まった」。

Img_405775_4557394_41


 あふれる才能を持ちながら、正当な評価を受けることなく、一方でロダンの恋人としてのみ、世に知られることになった一人の女性。

Pb246551


 ロダンとの愛に破れてこのアパルトマンに移り、心を病んで精神病院に収容されるまで、ただひたすらに作品を作り、そして破壊して部屋に散乱させた歳月。

 半強制的に病院に運ばれたのは、ちょうど100年前、1913年3月のことだった。

Pb246554


 プレートを見つめていると、通りがかったカップルが「一体何だろうか」と、いぶかしげな表情で東洋人の脇をすれ違って行く。そのすぐ後、中年の女性が買い物かごを下げてアパルトマンに入って行った。

「少しだけ中を見せてもらえませんか」。お願いの言葉を口に出そうとして、その言葉をフランス語にするだけのボキャブラリーもない自らを思い出し、ただ、黙って女性の後ろ姿を見つめるだけだった。

Pb246556


 すぐ横には、今日もセーヌは流れ、時は過ぎて行く。

 カミーユとロダン。二人の出会った時代のパリを追って、私の思いは19世紀末に飛んだ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

祈りの形ーロダンとカミーユの物語①

Pb267227


 二つの手がそっと組み合わさっている。

 一人の両手ではなく、大きめの手と小さめの手が一つずつ

 恥じらいを滲ませながらも寄り添って、お互いの体温をかすかに感じ合う

 微妙な距離の中に その姿をとどめている。

 タイトルは「カテドラル」

Pb246534001


 

 神の愛を具現する巨大な空間を持つ大聖堂と

 とても小さな球形の空間を形づくる、この二つの手。

 全く異なった空間でありながら そこに確かな祈りの空間が存在する点において

 共通するぬくもりを連想するのは、決して無理なことではないだろう。

Pb267229


 作者はロダン。

 この作品を完成したのは、激しく求めあった恋人カミーユ・クローデルとの愛が破綻し

 憎悪の声さえも混じりつつあった1908年のことだった。

 それは、もう戻れない、過ぎ去ってしまった季節への哀切を込めた作品なのだろうか。

 

 これから、ロダンとカミーユとの波瀾に満ちたドラマを、

 パリという街と、二人の残した作品群を手掛かりに、辿ってみたい。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

イルミネーションの輝きーよみうりランドの夜景

Pc308830


明けましておめでとうございます。

新年一回目だけは海外ではなく、日本のイルミネーションで始めたいと思います。

たまたま縁があって年末によみうりランドのイルミネーションに行ってきました。ここの夜景は数年前に見たことがあったのですが、今はそれとは全く別次元の、というか以前の何十倍ものギラギライルミネーションに変貌していました。

 ランドへは京王線の駅からゴンドラに乗って行きます。ちょうど日没直後だったので、上空からまだ茜色の残った空と園内のアトラクションとが一望できる時間帯でした。

Pc308838


 ゴンドラ終点地点から園内を見下ろします。

Pc308848


 中に入ってきました。観覧車がきれいに円を描いています。

Pc308869


 ジェットコースターの曲線が面白い効果を出していました。

Pc308876


 プールサイドにある塔はブルー一色でそびえるように輝きます。

Pc308901


 その塔と手前の樹木を組み合わせると、ちょっと幻想的なムードが醸し出されます。

Pc308899


 アトラクションの周囲などに約200万球のLEDライトが取り付けられているそうです。

Pc308910


 手前のイルミネーションをボカしてみると、観覧車の姿が一層すっきりと浮き出します。

Pc308912


 通路の橋と取り付けられた電球も強調して見ると竹林のよう。

Pc308928


 高台にきました。全景を。

Pc308955


 ジェットコースター乗り場付近で。星降る夜の感じが味わえます。

Pc308964


 これはランドのキャラクターだっけ?

Pc308970


 レストランは宝石箱みたいになってます。

Pc309006


 何か回っていた!

Pc309016


 樹木だけのイルミネーションも七色に。

Pc309020


 なるべく人が入らないようなアングルで撮りましたが、実際はあふれるほどの人ごみでした。

Pc309054


 つい1か月ほど前にはパリ・シャンゼリゼのイルミネーションを見てきましたが、華やかさという点では断然日本の方が派手派手になっていますね。

Pc309060


 イルミネーションは2月中旬までやっているそうです。寒さ対策をしっかりしてお出かけを!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2013年12月 | トップページ | 2014年2月 »