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2014年4月

モディリアニのプロポーズーモディリアニとジャンヌの物語④

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 モディリアニとジャンヌは、出会ってから約半年で同棲を始める。ある日、二人はセーヌ川に出かけた。

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 橋のたもとで、夜空を見上げながら、モディリアニは言った。「僕は貧乏で何も買ってあげられないけど、この空にきらめくラ・セーヌの星空を君に贈ろう」。彼のプロポーズの言葉だった。

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 二人の新生活の場所は、グランド・ショミエール通り8番地。カファ・ロトンドから数分のアパートだった。

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 そのショミエール通りに行ってみた。朝早く到着したためまだ暗い通りに、ライトに照らされた像があった。あのロダンが制作したバルザック像。人通りの少ない路上にグンと胸を張って立っている。

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 通りの中ほどに「アカデミー・グランド・ショミエール」の看板がある。ここも画学校で、高村光太郎が通ったこともある。

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 そしてその向こうが8番地だった。もうすっかり立て直されたようで、立派なアパルトマンになっていた。

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 よく見ると、右のプレートにゴーギャンとモディリアニの文字が見える。時期は違うもののこのアパルトマンにはモディリアニの他にゴーギャンも住んだことがあることが分かった。

 まだ無名の二人の新居は、傾いた急な階段を3階昇った所。「建物は今にも倒れそうで、壁のあちこちから日が差し込んでいた」。

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 貧しくとも幸せな、つつましい生活が始まった。モディリアニは相変わらずカフェに行き、スケッチを売っては生活費を工面して仲間たちと飲み、議論を戦わせていた。ロトンドでモディリアニを見かけたある友人はこう語る。「あの叫び声は誰だろう。モディリアニだ。あの小柄な美しいイタリア人は、いつものように酒を飲んでいた」。

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 一方、情熱的な瞳、ふっくらした唇のロマンチックで神秘的な女性ジャンヌは、夕方になるとロトンドにやってきた。

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 そして「自分の席で最愛の人が何かを論じているのを、満足した目をしながら聞いていた」(ガブルエル・フルニエ)。

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 モディリアニは、そんなジャンヌを繰り返し描いた。今、ジャンヌの肖像画だけで20数点が残されている。

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 金を払ってモデルを雇うほど裕福でもなかった時代、魅力的な女性ジャンヌは格好のモデルとなった。

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 間もなく明けようとする朝まだきの暗いグランド・ショミエ-ル通りを見つめているうちに、酒に酔ったモディリアニがジャンヌに支えられて家に帰って行く光景が、浮かんでくるような錯覚に襲われた。

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ヘイスティングとの短い恋、そしてジャンヌーモディリアニとジャンヌの物語③

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 自由奔放でわがままな酒飲み、でもロマンティックでハンサム。モンパルナスの芸術関係者の間で、彼のことを知らない人はいなかった。画家ガブリエル・フルニエはこう述べている「その貴族のような風采、もじゃもじゃのカールした髪も含めたすべてが。彼の大変美しい顔の気品をさらに高めていた」。

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 モディリアニは朝カフェ・ロトンドに行き、店の薄い紙ナプキンに客の表情を描いては、5フランで売るといった生活を続けていた。知人によると、ほとんど昼過ぎまでにはその日の食事と酒代に十分な金を稼いでいたという。

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 そんな時、1914年7月、ある出来事があった。彫刻家ザッキンがロトンドのテーブル席で一人の女性と会っていた。店に入ってきたモディリアニに彼女を紹介すると、彼はすぐに彼女を口説きにかかったという。

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 彼女はベアトリックス・ヘイスティング、35歳。ロンドンの週刊誌「ニュースエイジ」特派員としてパリに来た彼女に、モディリアニは一目惚れしてしまった。すぐに同棲が始まった。しかし、ベアトリックスは女権論者で高い教養を持ち、プライドも高く、容易に妥協はしない女性だった。激しい性格同士、殴り合いのケンカもしばしば。だが、彼女が家を出ると、彼女を探して街をさまようモディリアニの姿がよく見かけられた。彼女を描いた作品は10点以上残されている。

 結局ベアトリックスとは2年足らずで別れることになるが、運命の歯車は音を立てて回り始めていた。

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 このころ、ポーランドの詩人レオポルド・ズボロフスキーと知り合う。彼は画商としての才覚を持っており、モディリアニの才能を見通すことのできる人間だった。それから長きにわたって金銭面の援助も含め、何かにつけてモディリアニを励まし、作品制作に協力してくれるかけがえのないスポンサーになることになる。

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 そして、運命的な出会いが待っていた。モディリアニは時々グランド・ショミエール通りにあるアカデミー・コラロッシという絵画学校にデッサンに通っていた。コラロッシは1815年の創立。国立美術学校(エコール・デ・ボザール)に入るための予備校的な存在で、若い画学生が多く通う学校。日本から留学した黒田清輝らもここに籍を置いたことがある。

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 この学校に通う1人の画学生を、モディリアニは見染めてしまった。その名はジャンヌ・エビュテルヌ。まだ18歳の少女だった。パリの化粧品会社主任会計士の父の許、裕福な家庭の娘としてコラロッシに通い始めていた彼女の姿は、一瞬で33歳の恋多き男のハートをわしづかみにしてしまった。純真、無口、控え目。ベアトリックスとは正反対。しかし、芯の強さを、何よりもその眼光が物語っていた。

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 1916年12月30日、2人が出会って間もなく、モディリアニがジャンヌを描いたスケッチが残っている。彼女の愛称「ジャネットへ」というサインも。心震えるモディリアニの気持ちが、この素描からもうかがわれるようだ。

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 こうして出会った2人の物語は、グランド・ショミエール通りを拠点として展開されて行くことになる。

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イタリアからパリへ。彫刻修業ーモディリアニとジャンヌの物語②

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 イタリアの港町リヴォルノからフィレンツェの美術学校を経てパリに出てきた青年モディリアニが、モンマルトルからモンパルナスに移ったのは、1909年のことだった。今ではすっかりパリの市街地に組み込まれてしまったが、当時のモンパルナスは場末の下町といった雰囲気。従って、芸術を愛し、パリにあこがれて外国から集まった血気盛んな、しかし金のない若者たちであふれていた。

 シャガール、ザッキン、ピカソ、フジタ、ブランクーシら未来の巨匠たちが住み、夜ごとカフェに集まり議論を戦わせた。

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 ブランクーシ、アポリネールらが住んだラ・リッシュというアトリエもまた、芸術家の卵たちの集う場所だった。

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 モディリアニはそのころ、今の地下鉄ヴァヴァン駅に近いカンパーニュ・プルミエール通りに住んでいた。短い通りだが開放的な道で、手を広げて深呼吸をしたくなるような空が広がっている。

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 その通りの17番地には近代写真の父といわれ、20世紀前後のパリを活写したウジェーヌ・アジェが住んでおり、

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 23番地には藤田嗣治がいた。

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 さらに31番地にはマン・レイが住んでおり、この一角には野望を胸に、希望に燃えた日々を送る青年たちが 一種の芸術村的な空間を形成していた。

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 モディリアニの住んでいたのは3番地。もうすっかり建て替えられて近代的なビルになっていた。なお、詩人高村光太郎も後年、留学時の1年間この通りに住んでいた。

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 当時、モディリアニはブランクーシと 出会い、彫刻の手ほどきを受け始めていた。ブランクーシのアトリエは今、現代絵画の殿堂となったポンピドウーセンター の敷地の一角にある。地区再開発によって取り壊されたモンパルナスのアトリエをレンゾ・ピアノが再現設計して公開されたものだ。午後だけ開放されるそのアトリエに行ってみた。

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  そこには何点かの作品が無造作に置かれていた。よく見ると顔の長い極端に装飾を排した像がいくつも展示されていた。

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 その造形は、後のモディリアニの絵画にも影響を及ぼしたであろうことは想像に難くない。

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 彫刻を学び始めたモディリアニは1つの信念を持っていた。「 彫刻とは石から形を造り出すもの」。それはミケランジェロから続くイタリアの伝統だった。しかし、当時華々しく活躍の場を広げて行ったロダンは、粘土をこねて塑像から形成する手法で名声を勝ち取った。「ロダンのせいで彫刻は病に落ちた。誰もかれも粘土に走り、その結果泥ばかりになった。彫刻を救う唯一の道は再び石を直接彫ることにある」と、公然と言い放った。

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 1913年まで、彼は絵を捨てて彫刻に専念し、カリアティードの制作にも傾倒した。その作品の1つがこれだ。純粋に石からその姿を救い出す究極の造形に命を注いだ。

 しかし、もともと結核などの病気を抱えて肺が弱かった彼には、埃が飛び散る彫刻は不向きだった。結局体を壊し、彫刻を断念し絵画へと戻らざるを得なかった。

 

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ペール・ラシェーズ墓地へーモディリアニとジャンヌの物語①

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 約100年前、鋭い感性で独特な人物像を描いたイタリア生まれの青年と、

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 射るような瞳の輝きを持つ少女が、パリ・モンパルナスで出会った。アメーディオ・モディリアニとジャンヌ・エビュテルヌ。二人の短くも波瀾に富んだ人生のひとときを追って、パリの街を歩いた。

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 日曜日、サンジェルマン・デプレのカフェで、カフェ・クレームとクロック・ムッシューの軽い朝食を済ませた後、パリで一番大きい墓地ペール・ラシェーズに向かった。モディリアニの足跡を追うにあたって、まずは墓参りから、と考えたからだ。

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 地下鉄4号線から3号線に乗り換えて、ガンベッタ駅で降りた。モディリアニの墓は墓地のだいぶ奥にあると聞いていた。

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 風もない穏やかな朝、墓地にたった一人で迷い込んだかのような孤独感さえ感じさせる静けさだ。

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 少し歩くと、大きな墓石に人が横を向いてうつぶせているような不思議な墓を見つけた。オスカー・ワイルドの墓。

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 近づいてみると、墓石の横側に何やら赤い点々が付いている。もっと近づくと、正体がわかった。キスマークだった。オスカー・ワイルドといえば、私には「サロメ」の作者として記憶に残っている。ヘロデ王に「洗礼者ヨハネの首が欲しい」と申し出た女・サロメ。悪女の手本のようにサロメを演出した戯曲の作者に口紅が一杯とは、ちょっとした違和感だ。

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 さすがに、「墓には敬意を払ってください」との注意書きがあった。

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 さあ、本来の目的に戻ろう。確かモディリアニの墓はこの近くだったはず。周辺を歩いたが、なかなか見つからない。辺りを見渡すと、1ブロック先に老夫婦が自分の家の墓をお参りしていた。そしてちょうど目が合って、婦人が尋ねてくれた。「何をお探しで?」。「実はモディリアニの墓を」。老婦人はモディリアニを知らないようだった。「墓は大ざっぱにいって、年代別になっているわ。私たちの家の墓は50年前くらいだから、その人はもう1ブロック向こうかしら」。

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 こんな会話があって、私はそのブロックに移動した。老夫婦は墓参りを済ませ、車に乗って自宅へ。と思ったら、車が引き返してきた。「ムッシュウ、あっちのブロックに人が集まっているわ。あそこじゃないかしら」。そこまでフォローしてくれた老婦人に何度も礼を言って 、私はそのブロックに向かった。

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 確かに数人の人が墓に向かって手を合わせていた。ここだ!と思って良く見たら、そこはエディット・ピアフの墓だった。でも、そこの人たちに聞いて、やっとモディリアニの墓にたどり着くことが出来た。

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 墓は特に目立つものではなく、ひっそりとあった。縦長の墓石の上に「モディリアニ」と 名前が刻まれているだけ。ただ、花と絵筆が添えられていた。

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 よく見ると、彼の名前の下に、ジャンヌの名前もあった。そう、二人はジャンヌが望んだ通り同じ墓の中に埋葬されたのだった。ジャンヌの死亡後だいぶ経ってからだったのだけれど。

 そして、名前の下に墓碑銘が。「栄光に達せんとしたその時 彼は神に召された」。短かった命。でも燃焼し尽くしての一生だったのだろうか。 また、ジャンヌの墓碑銘は「その貞節は究極の犠牲すらいとわなかった」。二人の愛の行方を追う中で、その言葉の意味を考えてみたい。

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 この墓地には他にも多数の有名人が眠っている。ピアノの詩人ショパンの墓は沢山の花束に埋まっていた。

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 故郷ポーランドの動乱の中でパリに亡命、恋人ジョルジュ・サンドとの愛の交流の末、1849年10月、39歳で生涯を閉じた。

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 シャンソン界の第一人者、イヴ・モンタンはシモーヌ・シニョレと一緒の墓。でも、すごくシンプルな墓だった。

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 それに比べて、ジルベール・べコーの墓は写真やピアノなど華やか。

まずは、墓参りを済ませた。次はモンパルナス界隈に出かけよう。

 

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「インフェルノ」下 ラングドン教授の行きついた場所は?ーヴェネツィア、イスタンブール編

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 「馬の首を断ち、盲人の骨を奪った不実なヴェネツィアの総督」を探して、ラングドン教授と女医シエナはヴェネツィアに到着した。

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 水上ボートで大運河を走っていると、ある教会の壁に「LUCIA」の文字が。

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 ここはサン・ジェレミア・エ・ルチア教会。自らの目をくりぬかれた聖女(サンタ)・ルチアの骨がここに祀られている。ルチアはシチリアのシラクーザで殉教したが、その遺骨がヴェネツィアまで運ばれたものだ。

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 教授はヴェネツィアの中心・サンマルコ聖堂へ。そのファザードを4頭の馬が 飾っている。

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 堂内に本物があり、それはコンスタンチノープルから運ばれたものであることを知る。

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 堂内は黄金の壁画で装飾されて、まばゆいばかりだ。

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 馬をよく見ると、首に巻かれた首輪は、頭部が切断された跡を隠すためであることが明らかになる。

 サンタ・ルチアと馬の秘密が判明した。では誰がそれを行ったのか?調査の結果浮かび上がったのは、エンリコ・ダンドロ。十字軍を率いてコンスタンチノープルを陥落させた勇者だ。「黄金の色をした聖なる英知のムセイオンの中でひざまずき・・・」と、のヒントが提示される。

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 「ムセイオン」とは宮殿のこと。ならば、華麗な建物・ドゥカーレ宮殿にいるのか? しかし、ダンドロはこの宮殿にはいなかった。実に彼の墓はコンスタンチノープルにあったのだ。

 そうした解明と平行して、狂信的な科学者が、世界の人類を3分の1にしてしまうというウイルスをどこかに仕掛けたことが判明する。その仕掛け場所がダンドロの墓と密接な関係がありそうなことが分かってくる。

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 教授は一路コンスタンチノープル、つまり現在のイスタンブールに飛ぶ。ダンドロの墓はイスタンブールで最も有名なアヤソフィアにあることが分かった。

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 アヤソフィアはイスタンブールの中心にそびえ立っていた。

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 キリスト教の聖堂からイスラム教のモスクに変貌した壮大な内部空間。

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 2階にある「請願」と名付けられたキリストの壁画。

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 その真下にダンドロの墓はあった。墓に耳を当てると水音が聞こえてくる。水はどこに流れて行くのか?地下に宮殿があるという。それはアヤソフィアのすぐ近く。

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 そこは巨大な水槽だったが、まるで宮殿。

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 その奥にメドゥーサの首が。怪物はこれだ!

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 人類の大量死をもたらすかもしれないウイルスはここに隠されているのか。

 だが、時すでに遅し!ウイルスは拡散を始めてしまっていた。人類は、そしてラングドンはどうなるのか?

 あとは本をお読みください。

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「インフェルノ」ラングドン教授の辿ったルート上-フィレンツェ編

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 このほど発行されたダン・ブラウンの新作「インフェルノ」を読んだ。「ダヴィンチ・コード」でもおなじみの、主役のラングドン教授は謎の解明のために世界を奔走するが、たまたま主要舞台となった都市は行ったことのある街ばかりだった。それで、小説では見ることのできない都市の風景を、ストーリーに沿って辿ってみよう。(但し、ネタバレになるような核心部分には触れないように注意して書き進めたいと思います)

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 冒頭、ラングドン教授は病院のベッドで目を覚ます。どうして、なぜここにいるのか、記憶が戻ってこない。 ただ、窓の外に見える建物がヴェッキオ宮殿であることで、今フィレンツェに居ることだけがわかった 。しかし、突然襲撃者が侵入して攻撃される。そこに居合わせた医師シエナ・ブルックスに助けられて街中へ逃走する。

 その最中、彼の衣服にあったプロジェクターをみると、ボッティチェッリの「地獄の見取り図」が映し出された。

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 それは、ダンテの「神曲」のなかの地獄篇をテーマとしたものだ。それで、この不可解な状況を解明すべく、ダンテ地獄篇から謎解きに入って行く。ただ、追われっぱなしなので、逃亡を続けながらの行動となった。

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 逃走のルートはピッティ宮殿の庭を通り抜けて、

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 ヴェッキオ橋の上に造られているヴァザーリの回廊を通り、

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 ヴェッキオ宮殿へ。

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 宮殿内の五百人広間に解明の謎が隠されていると見て潜入する。

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 その広間には、ヴァザーリ作の「アンギアーリの戦い」 の大きな絵画があり、これを経由して辿りついたダンテのデスマスク保管室で、

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 デスマスクがなくなっていることが判明した。

 そのころ、ラングドン教授の友人であるドゥオモ付属美術館長イニャツィオが急死、ダイイングメッセージとして「天国の25」という言葉が残されていた。

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 ラングドンとシエナは手掛かりを求めてダンテの家へ。

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 さらにダンテとベアトリーチェが出会ったという教会へ。ここで「神曲」に詳しい人と出会い、「天国の25」というのは天国篇第25歌 を意味し、そこには「私の洗礼盤の前で、冠を探すことになろう」という言葉が書かれていることを発見する。

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 ダンテが洗礼を受けた場所はどこか?それはドゥオモの隣りにあるサン・ジョヴァンニ洗礼堂だった。

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 しかも、その洗礼堂の東門にはミケランジェロが名付けた「天国の門」があるではないか!

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 洗礼堂の中に入ると、きらびやかな黄金の輝きに圧倒される。

 そこにあった洗礼盤の中で、消えたダンテのデスマスクを発見する。そして、デスマスクには「馬の首を断ち、盲人の骨を奪った、不実なヴェネツィアの総督を探せ」の文字が残されていた。

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 ヴェネツィアに行くしかない!ラングドンとシエナの二人の舞台はアドリア海の女王・ヴェネツィアへと移って行く。

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春の花火大会ー足立区舎人公園

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 先週の土曜日、春の花火大会に行ってきました。たまたまネットで見かけたもので、夏の花火は各地で行われますが、春は珍しいと、出かけてみました。

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 場所は足立区の舎人公園。数年前に高架の鉄道舎人ライナーが開通して、その年から花火が開催されているとのこと。

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 実は桜も満開で、桜と花火を一緒に撮れないかと思ったのですが、打ち上げ場所は陸上競技場で、場内には桜の木はなく、、場所も初めてだったので、一枚の写真に収めるのは出来ませんでした。

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 花火は約30分間に3000発。

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 少し早めに到着しましたが、打ち上げ開始までに雨が降ったり、強風が吹いたりで、ブルブル震えるくらいの寒さでした。

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 花火そのものは楽しかった。

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 でも、強風で花火の形が傾くことが多かった。

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 もっとも、花火を撮影するのも数年ぶりで、撮り方も忘れがち。なかなかうまくいきませんでした 。

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 打ち上げ時間は30分。

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 あっという間に終わってしまいました。

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 さすがに東京の花火だけあって、観客も大勢。

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 終了後は駅に入り切れないほどの人であふれました。

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 それで、1時間ほど待ってやっと電車に乗ることが出来ました。やれやれ。

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 最後に、ちょっと劇画調に加工した花火を1枚。不思議な感じでしょう!

 

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満開のさくらに遭遇

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 先日友人が写真展を開いていた千葉に行ったついでに、成田周辺のさくら見物をしてきました。

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 ちょうどさくらが満開になっており、見事な光景を見ることが出来ました。

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 風はちょっと強かったものの空は晴天。

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 青空にさくらの薄いピンクが映えます。

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 撮影場所は主として成田山新勝寺周辺。境内の中心にはさくらはなかったのですが、少し脇に入ると並木があったりしました。

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 やっぱり満開のさくらを見ると心がなごみますね。

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 池がありそのほとりには枝垂れ桜が。

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 こちらは濃いピンクで、美しい。

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 まるで降る雪のような姿。

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 この、風に押されて流れるような形になった枝垂れ桜が、今回最も気に入ったさくらでした。

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 枝ぶりの良さではこの木が一番だったかも。

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 咲いていたのはさくらだけではありません。少しだけあった菜の花。

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 ツツジはまだ蕾状態。

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 一方で、道端に落ちていたボタンの花びらも、印象的でした。

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 成田空港も近かったので、飛行機の飛び立つ付近にも行きました。ここのさくらはまた3分咲きだったので、「飛行機と満開のさくら」 とは行きませんでしたが、写真スポットになりそうな場所でした。

 

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ヴェネツィアの意外・不思議な風景

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 ヴェネツィアの街を歩いていると、時々意外な風景に出会うことがあります。そんな場面をいくつか紹介しましょう。

 ここはどこ?とびっくりしたのがこの風景。実はここは郵便局。リアルト橋のすぐそばにある旧ドイツ人商館が今は郵便局になっていますが、その中庭に、こんなマネキンがずらりと勢ぞろい。背景の大写真がフェニーチェ劇場の内部なので、劇場の何かに使うのかもしれませんが、実際は不明。でも不思議な風景でした。

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 どっちに行けばいいの?

 ローマ広場近くの道にあった標識。サンマルコとリアルト両方への行く方向が示されていますが、右がいいのか左がいいのかわかりません。結論はどっちに行ってもたどり着くということなんだけど、最初は非常に迷った標識。

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 教会の祭壇に楽器?

 サント・ステファノ広場手前で、教会だと思って入ったら、こんな風に楽器が並んでいた。今は楽器博物館に変わった旧教会。ヴィヴァルディの音楽が流されていてとても良い雰囲気でした。

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 鐘楼崩壊!

 今はサンマルコ広場に堂々と建っている鐘楼ですが、1902年7月14日の朝、突然崩壊しました。その現場写真が、ある店に掲げてありました。

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 これだけの大事故なのに一人の死者も出なかったのは奇跡的ですね。

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 ヴェネツィアに行かれた方なら誰でも見たことがあるリアルト橋。でも、よ~く両端をご覧あれ。

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 左端には天使がいます。

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 そして右端にいるのは聖母マリア。そう、ここの橋には受胎告知の像が掲げられているんです。意外に気付かないでしょう!?

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 カンナレージョ地区のとある家の壁に、なんとラクダがいる!?

 海に中に造られた島なのになぜラクダが?とびっくりしたが、それにはわけがありました。

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 この建物は、1112年に今のギリシャから移り住んだ商人の3兄弟・マステッリ家の家でした。マステッリ家は香辛料の貿易を幅広く営んでいて、その一族の紋章がラクダだったというわけ。つまり、このラクダは、千年も前からヴェネツィアが隆盛を誇って東西交易の拠点となっていたことの証拠のひとつ。

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 柱の音楽!?

 実にリズミカルな柱の並び方だなあと、感心するのが、ここ。カ・ドーロという建物です。イタリア語で「黄金の家」という名前で、1434年に完成した当時はふんだんに金箔がちりばめられていたそうです。今は美術館となっています。

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 ルネサンス様式の柱が軽快なリズムを刻むかのように並んで美しい。それと、右端をご覧ください。

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 丸い曇りガラスですが、それが実に面白い模様になってこの建物を一層楽しくさせています。当時の職人の心意気がしのばれます。

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 職人といえば、こちらも靴職人の技術と店の店員の配置法が合体した面白いショウウインドー。

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 ゆったりとスペースを使った陳列のセンスには、ついカメラを向けてしまいます。

 ヴェネツィア散歩は、いつもわくわくさせずにはおかない意外性に満ちています。

 

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