
「もし、シチリアで何を見たらよいかと尋ねてくる人がいたら、私は迷うことなしにタオルミーナと答えるだろう」----モーパッサンの言葉だ。
この旅を始める前にこの言葉を知ったが、そう気にも留めなかった。旅なんて、人から勧められてするものじゃない。自分で目的意識を持って行動しない旅なんて、私からは最も遠い旅の形だと思っていたから。
ただ、あの高名な人物がそういうのだから、一応行ってみるか。
タオルミーナに到着したのは夕方。ホテルの、景色のよく見える部屋をセレクトして、街並みをちょっと散策しただけでその日は終えた。

翌日、この地で一番有名なギリシャ劇場に出かけた。シチリア第2の大きさを誇る古代劇場は、紀元前3世紀に建設された壮大な建築だ。

その階段を登り切って振り返った時、一瞬「おっ!」と息が詰まった。そこに展開されている風景は、想像以上の迫力を持って広がっていた。

眼下には円柱。紀元前2世紀にはローマ人によって円形闘技場に改築された名残の円柱が立ち並んでいる。が、ちょうど真ん中部分は柱が失われており、

中央の吹き抜け部分からイオニア海の紺碧の海が広がる。

右手はるか上方には、山頂こそ雲に隠れていたが、雪を戴いたエトナ山が優雅な姿を見せている。

ここは劇を演じるために造られた古代施設だ。だが、劇を取り囲む大自然がそのままに観客の視界に飛び込んでくる。

つまり、ここで演じられる劇は、刻々と変化する大自然の中の一部分として取り込まれる。それを前提として劇場は成り立っているのだ。

モーパッサンは、こう続けている。
「そこには、目と魂と想像力を魅了するために、この地に創られたすべてのものがある。美に対する愛情と畏敬の念が、この街を創った人々の血管に流れていたのだ」。

ギリシャ人たちは、紀元前3世紀という太古の時代にすでに、ランドスケープの発想に基づいた空間設計を、世界に先駆けて完成させていたのだ。

それは、シチリアで最も神々しい眺めと共に展開される演劇が、神々に捧げられる性格をも帯びていたのだろうとも想像される。

そして、発想の実現に最もふさわしい土地として、急激な高低差を持つこのタオルミーナを選んだのだろう。そんなことを考えていたら、エトナ山頂の雲が切れて、見事な山容が姿を現してくれた。

ローマ人は、劇場を囲い込みの空間として考えた。今も残る円形闘技場を見ると、ローマのコロッセオ、ベローナのアレーナなど、どれも平地に高い障壁を造って囲い込んでいる。ギリシャ人との大きな違いを見る思いだ。現にこの劇場もローマ人は障壁で囲ったが、幸か不幸か正面の壁が破壊されて現在の形になっている。
タオルミーナの劇場は、やはりこうでなくては!

モーパッサンの言葉が心に染みたこの日のギリシャ劇場訪問だった。そして、去り際のエトナ山の雪の白さが目に染みた。
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