二人目のシモネッタと出会った。そして、桜とヴィーナスーベルリン絵画館・・・ベルリン⑫

ポツダム広場から、博物館島と並ぶ文化発信地区「文化フォーラム」に向かう。絵画館にある「シモネッタ像」に会うためだ。

西へ歩いてゆくと、ディートリッヒとは別の、もう一人の著名人の名を冠した通りが目に入った。そう、「カラヤン通り」
だ。

通りはベルリンフィルの本拠地であるコンサートホールの前の道だ。

このホールは、壁崩壊後の再開発で文化フォーラム地区に最初に建設された建物。
夜になると美しいオレンジ色の立方体として夜空に浮かび上がる。今夜も、世界有数のハイレベルの交響曲が場内に響きわたっているのだろう。

ホールのすぐ先にあるのが、絵画館。その他、図書館、音楽堂、工芸博物館などが次々と建設され、まさに「文化フォーラム」の名にふさわしい地区になっている。

絵画館では、ボッティチェリの特別展が開催されていた。絶好のチャンス。この展覧会を見ることも、今回の旅の目的の1つだ。

横壁に、シモネッタのポスターが掲げられていた。

会談を上った高台にある玄関口に来て振り返ると、ポツダム広場の建築群がはっきりと見える。ソニーセンターの屋根部分は富士山をイメージして作られている
。

離れたところから見るとよくわかる。
さあ、絵画館に入った。ここは通常は写真撮影OKなのだが、特別展の部分だけは撮影禁止となっていた。残念!それで、ネットから拝借した写真も交えて紹介しよう。
まず第一に向かったのはシモネッタの肖像だ。本名シモネッタ・ヴェスプッチ。ジェノヴァの名門貴族カッタネオ家の出身。16歳でヴェスプッチ家に嫁いだ。
ヴェスプッチ家といえばアメリカ大陸の名前の素となった探検家アメリゴ・ヴァスプッチを輩出した家柄だ。
そのシモネッタの美貌は、ルネサンス花盛りのフィレンツェで広く知られるところとなっていた。特に脚光を浴びることになったのが、1475年にフィレンツェで行われた「馬上槍試合」だった。
この年、彼女は「美の女王」に選ばれ、槍試合の勝者に勝利の冠を授ける役を担ったが、試合に勝利したのはフィレンツェを支配していたロレンツォ・ディ・メディチの弟で、「美しき貴公子」と称されたジュリアーノ・ディ・メディチだった。
二人は恋に落ち、世紀の美男美女のロマンスは、国中の話題となった。ただ、シモネッタは翌年病に倒れ、23歳の若さでこの世を去った。またジュリアーノもその2年後、1478年に政敵による暗殺事件で命を落としてしまった。

ただ、フィレンツェ随一の美女の肖像は、当代きっての画家ボッティチェリによって3枚の
絵に残された。そのうちの1枚「左向きのシモネッタ像」が、ここ絵画館所蔵の作品だ。

3枚の中でも特に、強い意志の持ち主であることをうかがわせる、情熱を秘めたまなざしが印象的な作品だ。

また、フランクフルトのシュテーデル美術館で見てきた「右向きのシモネッタ」は、黒い背景とのコントラストで強調された鮮やかな白い肌に目が奪われる。

頭に飾られた装飾品、華麗に編み込まれた髪、柔らかく慈悲深さを思わせる表情。それらが一体となって、聖母の領域に近づく女性の姿が浮かび上がる。

そして、3枚目の「右向きの明るい背景のシモネッタ」は、日本にある唯一のボッティチェリ作品。総合商社丸紅が所有しており、普段は一般公開されていない。

理知の瞳を持った冷静さに満ちた心根が感じられる像だ。
この作品は現在、東京都美術館で開催されているボッティチェリ展に出品されている。先週私も訪問し、この数か月間で3点のシモネッタ像すべてを見ることが出来るという幸運に恵まれた。
それにしても、丸紅は公共の美術館に寄託するなどの形で、広く日本人がいつでも作品に接することが出来るような形をとって欲しいと、願うばかりだ。

ベルリン絵画館に戻ろう。ボッティチェリの代表作である「ヴィーナスの誕生」の、ヴィーナスだけを黒い背景で描いた絵もここにあった。

バックが黒いだけに、人物が浮き出すように思える。
実はこの絵は2005年春に「ベルリンの至宝展」という企画で日本に来たことがある。上野の国立博物館の庭はちょうど満開の桜が咲いていた。その桜とコラボレーションするかのように飾られていたヴィーナス像ポスターを写真に収めた。

ルネサンスの華と日本を代表する花とが、溶け合うように見えた瞬間だった。
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