晴れた日の午後、博物館島の北、グローセ・ハンブルガー通りを歩いた。この地区は第二次世界大戦まではユダヤ人たちの多く住むユダヤ人街だった。通りのすぐ右側に、すぐ見つかったのがユダヤ人追悼記念像。
この場所にはかつて老人ホームがあったのだが、世界大戦時はアウシュヴィッツやテレージンの強制収容所に送られるユダヤ人たちの一時収容所として使われたという。
現在そこに無言で立つ群像の表情には、何の感情も現れていない。だが、それだけに、正当な理由なしに突然死への旅立ちを告げられてしまった人々の、言いようのない諦観の深さを思い起こさせるものだった。
すぐ近くにはユダヤ人墓地があった。しかし、ナチスは1943年、その墓地を完全に破壊したため、今は跡形も残っていない。
通りを歩いていくと、足先に何かがぶつかった。下を見ると、5cm角ほどの金属が路上に埋め込まれている。よく見ると文字が書いてあった。
左はfanny sesslerさん jg(誕生年)1895年。強制送還 1943年3月4日 場所アウシュヴィッツ
右はisidor sesslerさん jg(誕生年)1927年。同じく1943年3月4日にアウシュヴィッツに強制送還
この場所に住んでいたファニーさんと多分息子のイシドロさんは、同じ日にここからアウシュヴィッツに送還されたという事実がこの小さい金属に刻まれている。
これは「つまずきの石」と呼ばれる真鍮のプレート。ベルリン生まれの芸術家グンター・デムニッヒさんが、ホロコーストによる犠牲者の存在をいつまでも記憶にとどめておくために始めた活動だ。
犠牲者の元の住所を探し当て、その場所に一人一人の名前と誕生年、強制送還された日を刻んで行くという途方もない作業を、今も続けているという。
プレートは、またすぐに見つかる。こちらは、62歳と56歳のヴォーゲルさん夫妻と22歳の息子ポールさんが1943年にアウシュヴィッツに送還されたことを示している。
このようにユダヤ人街だったこの地区では、あちこちにこのプレートが埋め込まれていた。プレートは、多くはドイツにあるが、オーストリア、ハンガリーなどヨーロッパ各地に5万個を超える数が埋め込まれたという。
グンター氏は「足許のこのプレートを見る者は、自然と頭を下げることになる。それは、とりもなおさず犠牲者に対して頭を下げることに他ならない」と語っている。
ホロコーストで犠牲になったユダヤ人はヨーロッパ全体で600万人を超えるといわれる。
果てしない作業のように思われるが、その作業を続けることが、ホロコーストという人類が犯した大きな過ちを脳裏に刻み付け続けることに繋がるのかもしれない。
さらに北へ歩いてゆくと、小さな公園に出た。晴天ののどかな昼下がり。
近所の人たちがベンチに腰掛けて、くつろいだ語らいを楽しんでいる。平和な時間が過ぎてゆく公園の一角に、突然不思議な光景が広がっていた。
1つのテーブルと2つの椅子。うち1つは無造作に倒れて転がっている。
まもなくこのテーブルに温かな料理が運ばれ、ささやかながらも満たされた夕食が始まろうとするころ、突如土足の侵略者によって踏みにじられ、中断した日常。“凍り付いた悲惨”がそこに存在していた。
コッペン広場の鉄製の「食卓セット」もホロコーストの一コマを象徴するものだった。
紅葉の下に広がる静穏な風景と、断ち切られた歴史の瞬間との、あまりにも対照的な姿に打ちのめされる思いが募った。
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