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2016年4月

71年前の今日、ヒトラーは自ら命を絶った・・・ベルリン㉚

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 ブランデンブルク門のあるパリ広場から南に延びるヴィルヘルム通りと、東西に延びるフォス通りの交差する角地。ここは今中華料理店になっている。
 だが、第二次世界大戦時にはここが、ホロコーストの実施を発令し、世界大戦を引き起こして20世紀の世界史を書き換えてしまう恐怖の発信源となった、ナチスの新総統府があった場所だ。
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新総統府は1937年から39年にかけてヒトラーが建設を命じた。
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 巨大な建物は内部に長さ146mもある鏡のギャラリーまであったという。その長さはヴェルサイユ宮殿の鏡の間より50mも長いものだった。
 総統執務室はその奥に位置し、長い長いギャラリーを通り抜けてようやく到達するという、神秘性の強調を意図した造りとなっていた。
 また、この建物の地下には戦争末期総統司令部となった地下壕が造られていた。
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 地下施設は上下2階に分かれ、18の部屋は鉄のドアと隔壁で仕切られていた。
 天井の高さ2.8m周囲の壁の厚さ2.2mという堅固な造り。当初は防空壕だったが次第に地下司令部へと様変わりしていった。
 18の部屋のうち会議室などの共有部分以外は、ヒトラーと愛人のエバ・ブラウンが6部屋を使い、私設秘書、広報大臣ゲッペルス一家らの部屋があった。
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 戦争の最終盤1945年4月には、ヒトラーはこの地下壕にこもりきりとなる。
 
4月20日  ヒトラー56歳の誕生日は、この地下壕で迎えることになった。その日、ヒトラーユーゲントの少年たちに鉄十字勲章を授けるために、久しぶりに地上に出て、焼け落ちた官邸を見回ったが、それが、生きて地上に出た最終になった。
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4月28日  前日から地下壕に合流していたエバ・ブラウンとの結婚式。翌29日未明までかかった。立ち会ったのはゲッペルス夫妻ら8人の側近だけだった。
 
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そして4月30日  午後3時30分頃、エバは毒薬を飲み、ヒトラーはピストルを右のこめかみに当てて引き金を引いた。二人の死体は官邸の庭に出されて、3時間にわたって焼かれた。後々遺体がさらし物にされないよう焼却を指示していたのだった。
5月2日  ソ連軍が現場到着。兵士によって黒焦げの人体の一部らしきものが、庭で発見されたという。
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 新総統府跡の近くの駐車場に、ひっそりと看板が立っている。
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 ここが、あのヒトラーが命を絶った地下壕跡だ。民間のアパートに挟まれた、何の変哲もない駐車場空き地。
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 たまたま、地元ガイドによって引率されたグループが、地下壕の位置を示した看板を見ていた。
 
 戦後、ドイツ国家としてもこの地がネオナチなどの活動家によって「聖地」といった形になることを恐れてか、全く具体的な表示はしてこなかった。また、地下壕の現状がどうなっているのかについての情報も公開されていない。
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 ただ、2006年になって、ようやく地下壕の位置を示す看板が立てられ、このように個別のガイドによる案内が時折訪れるだけだ。
 

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終戦から60年後に造られたホロコースト記念碑・・・ベルリン㉙

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 ブランデンブルク門から約100m、ベルリンの一等地エバート通りの広大な敷地に、様々な高さの立体が並んでいる。
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 2005年5月、アメリカの建築家ピーター・アイゼンマンによって造られた壮大なモニュメントは9000㎡という広がりを持つ。
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 そこにあるのは2700の石柱。まるで座椅子のような地面すれすれの高さから、
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 5m近い見上げるような柱もある。これは「殺害されたヨーロッパユダヤ人のための記念碑」。通称ホロコースト記念碑だ。
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 整然と並ぶ石柱の間を歩いた。あるところでは降り注ぐ秋の陽光にまぶしく照らされ、
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 またあるところでは石柱が造る暗い影の深さに飲み込まれそうになる。
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 墓石の渦にも見える石柱のさざ波の狭間を歩きながら、600万人ともいわれる第二次世界大戦時の犠牲者たちの無念の叫びが、石の森中に響き渡る錯覚に襲われた。
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 この記念碑建設の運動を起こしたのは、女性ジャーナリスト、リア・ロッシュ。戦後43年経った1988年のことだった。ともすると記憶に薄れがちになる過去の過ちを忘れぬため、新たな記念碑を創ろうと市民や行政に向けて呼びかけた。
 ただ、その翌年の「壁」の崩壊、東西ドイツの統一という大事件が起きて、構想は中断していたが、10年後に改めて機運が盛り上がり、最終的には2760万ユーロという巨額を投じての完成となった。
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 首都の中心部に自らの国が犯した歴史の暗部を白日の下にさらし続けることを選んだ国民の決意は、決して生易しいものではなかったのではないだろうか。
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 それに驚くことは、こうしたホロコースト関連の諸施設のほとんどは全く料金を取らない、無料での開放がなされているということだ。
 

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カイザーヴィルヘルム新教会の深く青いステンドグラス・・・ベルリン㉘

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 新教会は、入り口から一歩中に入ると一気に‟青の洞窟への潜入”の感覚に襲われた。
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 中央奥に黄金のキリスト像があり、その周囲はすべて深い青のステンドグラスで囲まれている。
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 その数実に2万枚。まさに海の底に沈みこんでしまったかのように感じさせる密な空間だ。
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 しばし椅子に座って堂内を見渡した。1961年の建造ということで、形態はこれまで見てきたゴシックやバロックといった建築と比べると、すっきりした構造だ。
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 だが、その簡潔な形ゆえに、色彩の印象が一層強烈に迫るのかもしれない。
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 主祭壇とは別に後方に小さなキリスト像もあった。
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 床にもカラフルな円の模様が施されている。
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 ステンドグラスをもう少しアップしてみよう。それぞれの一片ごとに線状の模様があり、
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 所々に青以外の色彩がちりばめられている。
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 赤や黄やピンク。
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 いつかバルセロナのグエル公園で、砕いたセラミックのかけらを組み合わせて造られたベンチの模様を見たことがあった。あのガウディの作品との共通性を思わせるようなステンドグラスだ。
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 しっかり‟深い海底”の滞在を楽しんで、教会を後にした。
 
 ただ、街を歩いていると美しいものばかりに出会うとは限らない。ツオー駅の周辺では路上で仮眠をとる労務者風の人たちを多数見かけた。彼らはドイツ人というより中東やアフリカからやってきた難民かも。
 
 混沌としたシリア情勢などを背景に増え続ける流入難民は大きな社会問題になっている。ずっと難民受け入れには寛容な態度をとり続けてきたメルケル首相も、昨年末のケルンでの暴行事件などから、制限の方向に舵を切り始めており、難しい局面に差し掛かっているようだ。
 

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旧教会のモザイク画にルイーゼ王妃を見つけた・・・ベルリン㉗

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 翌朝改めてカイザーヴィルヘルム教会に出かけた。前夜のライトアップされた旧教会に比べて、朝の姿は心なしか優しげに見える。
 
オープンを待つ間、近くのオイローパセンターでコーヒーとクロワッサンの朝食を摂り時間調整。
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 教会付近は広場になっており、風変わりな彫刻も置かれている。
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 逆立ち熊さんにピカソ風なイラストが描かれたマスコット?
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 出勤途中のサラリーマンの緊張をほぐす役目も担っているかのような陳列物たちだ。
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 旧教会の入り口が開いて中に入ると、天井のモザイク画が目に飛び込んでくる。
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 まばゆい金色がちりばめられた背景に、いろいろな絵が描かれる。
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 入り口側から見て左の絵は、919年のハインリッヒ1世の戴冠式。
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 右側はプロイセン王ヴィルヘルム3世の妃ルイーゼがホーエンツォレルン家の人びとを導く姿。
 
 王でなく、なぜ妃のルイーゼが主役なのだろうか?帰国後調べてみてその理由が分かった。
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 1807年、プロイセンはナポレオン率いるフランスとの戦争で惨敗、領土の半分を削られたうえ莫大な賠償金を課せられた。
 この時、軟弱なヴィルヘルム3世に代わってフランスとの講和交渉に乗り出したのがルイーゼ王妃だった。
 愛国の王妃として人気と尊敬を集めていたルイーゼは、不屈の精神と毅然とした態度に加え、硬軟両面の作戦も駆使してナポレオンに立ち向かった。
 結局この交渉は実らなかったが、感嘆したナポレオンをして「美しき敵対者」と言わしめた。
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 また、1810年病のために急な死を遂げたルイーゼに対してナポレオンは「プロイセンは最高の大臣を失った」と語ったという。
 
そんな人柄を反映するかのような表情が、この壁画にも伺われる。
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 反対側の壁にはヴィルヘルム1世と書かれたプレートを掲げる天使のモザイクがある。
この教会はもともと初代ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世を偲んで建設されたものだ。
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 これらのモザイクは第二次世界大戦で破壊されたが、近年ようやく修復が完成した。
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 そうはいっても修復不可能な個所もいくつかは見受けられた。
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 全体の中央に描かれたキリスト像。
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 モザイクだけでなく、こんな大きなレリーフもあった。
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 りりしい女性像も。
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 キリストの死を悼むマリア。いわゆるピエタ像だ。
 鮮やかに修復されたモザイク画をたっぷりと楽しんで、ルンルン気分で次の新教会に向かった。
 
 

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カイザー・ヴィルヘルム旧教会の夜景を仰ぐ・・・ベルリン㉖

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 ベルリンの西側、分断されていた時代には西ベルリン随一の繁華街として栄えたクーダム地区・ツオー駅近くに、異様な存在感に溢れた教会が建っている。
 
 カイザーヴィルヘルム教会。1895年、初代ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世を偲んで建設されたネオロマネスク様式の建物だ。
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 第二次世界大戦中の1943年11月23日、連合軍の空襲によって破壊された。ただ、主塔部の形は残っていたため、広島の原爆ドームと同様に戦争の記憶を絶やさないための記念として保存されている。
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 夕方地下鉄でツオー駅に行き、駅を出るとすぐに、その姿が目に飛び込んできた。
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 空が夕闇に沈みゆく中で、ライトアップされた教会が浮かび上がる。
 建設当時には113mもの高さを誇った尖塔は、破壊されたとはいえ圧倒的な迫力で立ちはだかる。
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 ベルリンでは368mのテレビ塔が最も高い塔だが、こちらの塔のほうがずっと強烈な存在感を放っている。
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 間近から見上げる塔の迫力!
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 よく見ると、時計だけはしっかりと時を刻んでいた。
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 1961年には、この塔の前後に低層の八角形の新教会(右)と六角形の鐘楼(左)が建てられた。
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 新教会はもう閉館していたが、内部の照明は点灯していたため、青い箱が目立っていた。
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 近寄ってみると、こちらも結構大きい。
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 東方向を見ると、旧教会の後方にベンツのマークが。あのビルはオイローパセンター。
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 反対側にも高層ビルが建っている。
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 新教会のステンドグラスの一部を外側からアップしてみた。とても美しい。
 ぜひ改めて明日は教会に入ってステンドグラスを観賞しよう。
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 駅への帰り道、公衆トイレを見つけた。こんな可愛らしい小便小僧のイラストが!
 

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森鴎外記念館で、直筆の手紙に娘への愛を感じる・・・ベルリン㉕

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 ベルリンにある森鴎外の記念館に出かけた。
 フリードリッヒシュトラーセ駅でSバーンを下車、シュプレー川を越えてコリエン通りを進むと、ベージュ色のビルが見えてきた。ビルの壁に大きく日本語で「鴎外」と書いてある。ドイツ語だらけの街中に、これだけ大きな日本語があるのは、なかなか珍しい風景だ。
 早速文字の下のドアを開ける。「あの~、森鴎外の・・・」と言い出すや否や、中にいたドイツ人が笑顔で「ノー、ノー」 とゼスチャーして、ついて来いという。
 彼は、いったん外に出て角を曲がった建物横の階段に通じる入り口に、慣れた感じで案内してくれた。こちらが正しい入口。少し引っ込んでいるため、間違って彼の店に入ってしまう日本人が多いのだろう。
 階段を上って2階へ行くと、日本人のスタッフが出迎えてくれた。
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 入ってすぐのスペースには、ヨーロッパで翻訳された鴎外作品の一部が陳列されていた。
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 鴎外は、この建物に下宿していたことはわかっているが、どの部屋だったかは確定していないという。ただ、当時の部屋の様子が再現されていた。
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 留学中に読んだ書籍が本棚に並ぶ。
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 遺言を銅板にして飾ってあった。国や公的な表彰などは一切断ってくれといった潔白な人柄がにじんだ遺言だ。
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 これはデスマスク?
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 映画化された時のスチール写真があった。篠田正弘監督の1968年の作品。
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 あらら、主人公の大田豊太郎役は郷ひろみが演じていたんだ!
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 「マリチャンニ」 と題された手紙があった。マリチャンとは後に作家になった森茉莉のこと。
 「試験が予定通りに行かなかったのは困るけど、何時かはきっと出来るでしょう。お客さんがあった時の話はよく分かりました」など、娘を気遣う優しい心情があふれた内容。
 茉莉は、鴎外と2人目の妻志げとの間に生まれた長女。彼の溺愛ぶりは有名で、娘が16歳になるまで自分の膝の上に載せてかわいがっていたという。
 茉莉は、のちに「父の帽子」で日本エッセイストクラブ賞、「甘い蜜の部屋」で泉鏡花文学賞などを受賞している。
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 軍医総監医務局長にまでなった鴎外の軍服姿。いかつい印象だが、やはり娘に対する愛情は、普通の父親と同じなんだな、と納得。
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 見学の謝礼を述べて帰りがけに階段を見ると、手すりに沿って言葉が書いてあった。
「げに東に還る今の我は、西に航せし昔の我ならず」。
 読んでいくと、それはまさに処女作「舞姫」の一節だった。
 
 

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森鴎外の描いた「舞姫」の舞台・・・ベルリン㉔

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 ベルリンと深いかかわりのある日本人といえば、森鴎外が挙げられるだろう。
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 鴎外は1884年から88年まで陸軍軍医としてドイツに留学、ベルリンでは細菌学の世界的権威だったフンボルト大学のコッホの下で最新医学を学んだ。
 政権発足直後の明治政府は、ヨーロッパ文明の吸収先として、イギリスやフランスではなくてなぜドイツを選んだのか。司馬遼太郎は「この国の形」の中で、次のように記している。
 ①当時一番近い外国はオランダだったが、オランダ医学書の多くはドイツ医学書の翻訳だと、蘭学者が指摘していた
 ②ドイツ=プロイセンはフランスとの戦争で勝利し、ドイツ参謀本部の作戦能力の高さが認められた。
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 そんな経緯から、鴎外もドイツに向かった。帰国後、留学時の経験を生かして発表したのが処女作「舞姫」だった。
 当時のドイツはビスマルクの富国強兵策が実を結んでオーストリア、フランスなどとの戦争に勝利、ドイツ帝国の樹立を宣言した後の躍進の時代だった。
 また、ベルリンは人口130万人を数える大都市に急成長しつつあった。従って「舞姫」に描かれるベルリンは新しい息吹の感じられる空気感に満ちていた。
 「舞姫」は、国から派遣された新進官僚の大田豊太郎が、ベルリンで若き踊り子の少女エリスと出会い恋に落ちるが、官吏としての身分を捨てることが出来ず、妊娠していたエリスを置いて帰国してしまうという悲劇的なストーリー。
 
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 作品には、躍進するベルリンの風景が随所に描写される。
 「余はこのヨオロッパの新大都の中央に立てり」
 豊太郎はベルリンに到着し、ブランデンブルク門から当時の王宮に繋がる華やかな通り、ウンター・デン・リンデンに立った興奮を、抑えきれない高揚感と共に表現している。
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 「ヴィルヘルム1世の街に臨める・・・」
 当時の皇帝ヴィルヘルム1世は、ドイツ帝国の初代皇帝。大通りには今、彼の銅像が立っている。
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 「ブランデンブルク門を隔てて・・・」
 当時もまたこの門はベルリンのランドマークだった。
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 「半天に浮かび出でたる凱旋塔の神女の像」
 ブランデンブルク門の先に見えた戦勝記念塔は、現在ずっと西に移動してしまった。だが、以前は国会議事堂西の共和国広場にあったため、こうした描写が残っている。
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 豊太郎とエリスの二人の出会いは、マリエン教会の前とされている(異説あり)。
 「クロステル巷の古寺の前に来ぬ」
 当時この辺りは、貧民街のような暗くごみごみした地区だった。
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 「閉ざしたる寺門の扉によりて、声をのみつつ泣く、一人の少女あるを見たり」。
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 「年は16,7なるべし」
 戦争による破壊、戦後の整備によって、今では全く当時の面影を見つけることは出来ないが 、かろうじて教会の一角にかすかな名残を感じることが出来た。
 なお、「舞姫」については、鴎外が帰国後、エリスのモデルではないかとされるドイツ女性が鴎外を訪ねて来日したこともあって、いろいろな話題を提供したことがある。
 
 
 
 

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「書を焼く者は人をも焼く」。ハイネの言葉が現実になった焚書事件・・・ベルリン㉓

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 ノイエヴァッヘから歩いていくとフンボルト大学正門前に差し掛かった。
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 路上で何人かが地面を指さしながら話している。近づいてみると、やはり以前紹介した「つまずきの石」だった。正門前にずらりと並んだつまずきの石。
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 この石は強制収容所で命を落としたユダヤ人の、もともとの住所に埋められているものだが、ここのプレートの主たちは多分、大学で研究したり学んだりしていた人たちのものなのだろう。
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 1例をアップしてみた。左のエルンストさんは、この地で学んでいたが一時オランダに逃走。ウェステルボルグの通過収容所を経由して1944年9月、テレシエンスタッド収容所、そしいてアウシュビッツ収容所に送られ、同年11月2日に殺害された。
 
 右のマンフレッドさんも同様の経過をたどって1945年2月28日に殺害されている。33歳と36歳というあまりにも短い生涯だった。
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 正門前では、恒例となった古本市が開かれていた 。
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 そこから、ウンター・デン・リンデンを横切って南側にあるベーベル広場に入った。ここには、ほとんど目立たないが重要な記念碑がある。
 
 ナチスの時代における知的財産破壊の象徴とされる事件が、ここで起こっていた。
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 1933年5月10日夜、ヒトラーが政権を握ったその年、ナチスに扇動された学生たちがこの広場に集まり、「享楽的、堕落的な作家たちをドイツから追放せよ」と叫びながら、多数の書物を投げ捨て、そこに火を放った。
 
 シラー、トーマス・マン、アインシュタインなどドイツを代表する人たちの著作が炎の中で灰になっていった。
 
 ちょうどこの広場は大学図書館と隣接しており、そこからも多数の書籍が投げすてられた。その数2万5千冊ともいわれる。
 
 この焚書事件をきっかけにナチスの一方的な文化抑圧が進み、差別の極致としてのユダヤ人虐殺へと進んでいく。
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 その現場に2枚のプレートが置かれている。
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 1枚には「この広場の中央で、1933年5月10日に国家社会主義の学生たちが何百人もの自由な作家、ジャーナリスト、哲学者、科学者の著書を焼いた」と記されている。
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 また、もう1枚にはこんな言葉が刻まれる。
 
 
「これは序曲に過ぎなかった。書を焼く者は、人をも焼いてしまう者である」
 
 ハインリッヒ・ハイネの言葉だ。と言っても、1933年に書かれたものではない。1世紀以上も前の1820年当時、ヴァルトヴルグの祭典で書物が焼かれた時に記されたものだ。
 
 その言葉が、100年もの時を超えて起きたことを、実に的確に言い当ててしまっているのだ。戦慄さえ覚える。
 
 ハイネもユダヤ人。哀しくも同胞の悲劇を予言したこの言葉が、今もベーベル広場の一角に刻まれている。
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 もう1つ、地面にガラス板がはめ込まれた場所がある。これは芸術家ミハ・ウルマンによる「地中の図書館」だ。
 
 地下の空間には、空っぽの書棚。ナチスによって生じてしまった知的空白を象徴する作品だ。ただ、晴天で外があまりにも明るすぎて、中がほとんど見えなかった。
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 こんな目立たない記念碑だったが、いくつものグループが自転車や徒歩などで、ガイドに導かれて見学に訪れていた。地元ガイドが率先してこうした場所を巡るツアーを企画しているとのこと。
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 いわば、自らの国の恥ともいえる歴史を、積極的に知らしめる努力を続けているわけだ。その態度には頭が下がる思いだった。
 
 
 
 

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宮殿橋の女神と‟現代のピエタ”・・・ベルリン㉒

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 ウンター・デン・リンデンの東端、シュプレー川の支流に架かる橋がシュロスブリュック(宮殿橋)だ。その名前は、かつてこの橋の東にフリードリッヒ2世によって1700年に建設された王宮があったことに由来している。
 
 橋げたに大理石像が立っている。イタリア・カラーラの大理石で造られた美しい像だ。両側に計8体あるが、交通量が激しくて片側だけしか写真に撮れなかった。
 
 東側から、傷ついた戦士を腕に抱く勝利の女神ニケ
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 戦いへの行進。戦士のそばに立つミネルヴァ(アテネ神)
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 突撃する戦士と、若者を支えるミネルヴァ
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 死せる英雄をオリンポスの山へ運ぶイリス(虹の女神)
 
 ちょうど抜けるような青空を背景にして、大理石の白がまぶしく目に染みた。
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 橋を渡るとすぐ右手に歴史博物館。
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 その隣にノイエヴァッヘ(新衛兵所)がある。ドーリア式の円柱が並ぶ入り口を入ると、内部はがらんとした空間。
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 その中央に小さな像が1つぽつんとあるだけ。
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 天井にあいた穴から一筋の光が差し込み、
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 真下には「死せる息子を抱く母親」の像がひっそりと置かれている。
 
 うつむいて、うずくまる息子の遺体を呆然と抱く母。
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 そもそも、この建物は1817年、衛兵の建物として建築された。しかし、第二次世界大戦後に、ヒンデンブルク大統領が戦死した兵士達の霊廟とした。
 
 だが、東西分裂時の1960年、東ドイツ政府が「ファシズム、軍国主義の犠牲者の慰霊所」に変更。さらに1993年には統一されたドイツ連邦によって「強制収容所で死んだ者への慰霊センター」と変えられた。
 
 いずれにしても、2つの世界大戦を含む20世紀の悲劇の歴史に祈りをささげる場所であり続けている。
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 この像の作者コルヴィッツ(女性)自身も、第一次世界大戦で自らの息子を失うという経験をしている。母としての子を悼む心情が、そこに投影されているように見える。
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 その姿は、バチカンのサンピエトロ大聖堂にある、ミケランジェロの傑作「ピエタ」像を連想させるところから「現代のピエタ」とも称されている。
 
 
 

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