森鴎外の描いた「舞姫」の舞台・・・ベルリン㉔
ベルリンと深いかかわりのある日本人といえば、森鴎外が挙げられるだろう。
鴎外は1884年から88年まで陸軍軍医としてドイツに留学、ベルリンでは細菌学の世界的権威だったフンボルト大学のコッホの下で最新医学を学んだ。
政権発足直後の明治政府は、ヨーロッパ文明の吸収先として、イギリスやフランスではなくてなぜドイツを選んだのか。司馬遼太郎は「この国の形」の中で、次のように記している。
①当時一番近い外国はオランダだったが、オランダ医学書の多くはドイツ医学書の翻訳だと、蘭学者が指摘していた
②ドイツ=プロイセンはフランスとの戦争で勝利し、ドイツ参謀本部の作戦能力の高さが認められた。
そんな経緯から、鴎外もドイツに向かった。帰国後、留学時の経験を生かして発表したのが処女作「舞姫」だった。
当時のドイツはビスマルクの富国強兵策が実を結んでオーストリア、フランスなどとの戦争に勝利、ドイツ帝国の樹立を宣言した後の躍進の時代だった。
また、ベルリンは人口130万人を数える大都市に急成長しつつあった。従って「舞姫」に描かれるベルリンは新しい息吹の感じられる空気感に満ちていた。
「舞姫」は、国から派遣された新進官僚の大田豊太郎が、ベルリンで若き踊り子の少女エリスと出会い恋に落ちるが、官吏としての身分を捨てることが出来ず、妊娠していたエリスを置いて帰国してしまうという悲劇的なストーリー。
作品には、躍進するベルリンの風景が随所に描写される。
「余はこのヨオロッパの新大都の中央に立てり」
豊太郎はベルリンに到着し、ブランデンブルク門から当時の王宮に繋がる華やかな通り、ウンター・デン・リンデンに立った興奮を、抑えきれない高揚感と共に表現している。
「ヴィルヘルム1世の街に臨める・・・」
当時の皇帝ヴィルヘルム1世は、ドイツ帝国の初代皇帝。大通りには今、彼の銅像が立っている。
「ブランデンブルク門を隔てて・・・」
当時もまたこの門はベルリンのランドマークだった。
「半天に浮かび出でたる凱旋塔の神女の像」
ブランデンブルク門の先に見えた戦勝記念塔は、現在ずっと西に移動してしまった。だが、以前は国会議事堂西の共和国広場にあったため、こうした描写が残っている。
豊太郎とエリスの二人の出会いは、マリエン教会の前とされている(異説あり)。
「クロステル巷の古寺の前に来ぬ」
当時この辺りは、貧民街のような暗くごみごみした地区だった。
「閉ざしたる寺門の扉によりて、声をのみつつ泣く、一人の少女あるを見たり」。
「年は16,7なるべし」
戦争による破壊、戦後の整備によって、今では全く当時の面影を見つけることは出来ないが
、かろうじて教会の一角にかすかな名残を感じることが出来た。
なお、「舞姫」については、鴎外が帰国後、エリスのモデルではないかとされるドイツ女性が鴎外を訪ねて来日したこともあって、いろいろな話題を提供したことがある。
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コメント
「舞姫」を初めて読んだのは、確か中学生くらいの頃だったと思います。
ベルリンの街の写真を拝見していると、
もう一度改めて読んでみたくなりました。
前回の焚書事件の記事もとても興味深かったです。
ベルリンを通して、20世紀の歴史のいろいろな側面が見えてくるようです。
投稿: hanano | 2016年4月11日 (月) 17時33分
hanano様
「舞姫」は、鴎外の文章はとても難しくて、昔読んだときは苦労しました。実はその‟翻訳”を井上靖がしているんですね。そちらはとても分かりやすくて、有り難かったです。
他の明治時代の作家などと比較してみると、明治期の初期と後期ではかなり文体に変化が見られて、日本語の変遷にも興味がそそられます。
投稿: gloriosa | 2016年4月11日 (月) 22時13分