71年前の今日、ヒトラーは自ら命を絶った・・・ベルリン㉚

ブランデンブルク門のあるパリ広場から南に延びるヴィルヘルム通りと、東西に延びるフォス通りの交差する角地。ここは今中華料理店になっている。
だが、第二次世界大戦時にはここが、ホロコーストの実施を発令し、世界大戦を引き起こして20世紀の世界史を書き換えてしまう恐怖の発信源となった、ナチスの新総統府があった場所だ。

新総統府は1937年から39年にかけてヒトラーが建設を命じた。

巨大な建物は内部に長さ146mもある鏡のギャラリーまであったという。その長さはヴェルサイユ宮殿の鏡の間より50mも長いものだった。
総統執務室はその奥に位置し、長い長いギャラリーを通り抜けてようやく到達するという、神秘性の強調を意図した造りとなっていた。
また、この建物の地下には戦争末期総統司令部となった地下壕が造られていた。

地下施設は上下2階に分かれ、18の部屋は鉄のドアと隔壁で仕切られていた。
天井の高さ2.8m周囲の壁の厚さ2.2mという堅固な造り。当初は防空壕だったが次第に地下司令部へと様変わりしていった。
18の部屋のうち会議室などの共有部分以外は、ヒトラーと愛人のエバ・ブラウンが6部屋を使い、私設秘書、広報大臣ゲッペルス一家らの部屋があった。

戦争の最終盤1945年4月には、ヒトラーはこの地下壕にこもりきりとなる。
4月20日 ヒトラー56歳の誕生日は、この地下壕で迎えることになった。その日、ヒトラーユーゲントの少年たちに鉄十字勲章を授けるために、久しぶりに地上に出て、焼け落ちた官邸を見回ったが、それが、生きて地上に出た最終になった。

4月28日 前日から地下壕に合流していたエバ・ブラウンとの結婚式。翌29日未明までかかった。立ち会ったのはゲッペルス夫妻ら8人の側近だけだった。

そして4月30日 午後3時30分頃、エバは毒薬を飲み、ヒトラーはピストルを右のこめかみに当てて引き金を引いた。二人の死体は官邸の庭に出されて、3時間にわたって焼かれた。後々遺体がさらし物にされないよう焼却を指示していたのだった。
5月2日 ソ連軍が現場到着。兵士によって黒焦げの人体の一部らしきものが、庭で発見されたという。

新総統府跡の近くの駐車場に、ひっそりと看板が立っている。

ここが、あのヒトラーが命を絶った地下壕跡だ。民間のアパートに挟まれた、何の変哲もない駐車場空き地。

たまたま、地元ガイドによって引率されたグループが、地下壕の位置を示した看板を見ていた。
戦後、ドイツ国家としてもこの地がネオナチなどの活動家によって「聖地」といった形になることを恐れてか、全く具体的な表示はしてこなかった。また、地下壕の現状がどうなっているのかについての情報も公開されていない。

ただ、2006年になって、ようやく地下壕の位置を示す看板が立てられ、このように個別のガイドによる案内が時折訪れるだけだ。
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