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2016年5月

旅の終わり・・・ドーハの朝日。新ブログに移転します

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 翌日、ベルリン・テーゲル空港からカタールのドーハ経由で帰国した。
 ドーハ空港では乗り継ぎ便待ちのため空港内で数時間待ち合わせたが、その朝、滑走路の彼方から太陽が静かに昇ってきた。
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 空港がオレンジ色に包まれ、次第に夜が明けてゆく様はまるでドラマのように美しかった。
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 翼の鋭い線、朝日の柔らかい円、それらを包み込む黄金のグラデーション。
 
今も鮮やかに瞼によみがえる。
 
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 そして、上空ではしばしの夜間飛行を経て、羽田に降り立った。
今回のドイツ旅行は、ぎっしりと濃密な時間の中で過ごした日々だった。
 
実はこのブログも7年ほど続けてきましたが、フリーバージョンで出来る容量がほぼ満杯になってしまいました。このココログでは同じ人間が2つのブログをするには有料になってしまいます。
 
 それで、気分一新もかねて、新しく別のブログを立ち上げることにしました。長年愛読してくださった皆様、有難うございました。
 続けてご覧いただくには、お手数ですが下記のURLに移動していただくようお願いいたします。
 
     http://blog.goo.ne.jp/gloriosa-jun
 
 タイトルは「新イタリアの誘惑」です。 今後も相変わらずよろしくお願いいたします。
なお、右下の「お気に入りブログ」の欄からも新ブログへ 移行してご覧になれます。

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チェックポイントチャーリーから戦勝記念塔へ・・・ベルリン㊱

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 第二次世界大戦は、ドイツが連合軍に無条件降伏して終戦を迎えた。その結果ベルリンは、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の四か国によって分割占領されることになった。

それぞれの占領地域を示した地図が上の図だ。事実上連合国側(白)とソ連側(ピンク)の2地域に分断され、それが国境となった。

チェックポイントチャーリーは、この境界線上に置かれた国境検問所(赤い点の所)。1945年から、ドイツ統一がなされる1990年まで続いた。

 検問所は沢山あったが、外国人、連合国関係者らのための検問所は、こことフリードリッヒシュトラーセ駅との2か所だけだった。

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 統一後は検問所は廃止されたが、2000年に小屋が復元され、観光スポットになっている。

 連合軍側からソ連地域側を向いたパネルには、アメリカ軍兵士の写真が、

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 逆方向にはソ連兵の写真が掲げられている。二人とも1990年初頭に実際にベルリンに駐留していた兵士だという。

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 ここに到着したときは、沢山の観光客が集まっていた。

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 そして、‟兵士”たちと一緒の記念写真撮影が始まっていた。

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 みんなとても楽しそう。

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 この場所にも少し残された壁があった。

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 また、崩壊した壁を記念品として削りとる人のパネル写真も。

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 この日はベルリン滞在最終日、戦勝記念塔(ジーゲスゾイレ)に行っていないことに気付いて、100番バスに乗って塔に向かった。

 この塔は1864年の対デンマーク戦争、66年の対オーストリア戦争、70~71年の対フランス戦争と、3つの戦争の勝利を記念して1873年に建てられた。これらの戦争での勝利で、プロイセンのドイツ統一が導かれた。

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 ただ、最初はもっとブランデンブルク門の近くの共和国広場にあった。それが、ヒトラーの首都改造計画によって、1938年に現在地に移された。

 森鴎外の小説「舞姫」には、ブランデンブルク門の先に記念塔が見えるとの描写があるが、鴎外のベルリン滞在は1887年なので、移転前の塔を表現していることになる。

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 直下から見ると、さすがに高い。67m。展望台になっている頂上へは285段の階段を上らねばならないので、今回はパス。

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 女神像が日差しを浴びてまぶしく輝いていた。

 そういえば、映画「ベルリンー天使の詩」では、天使ダミアンがこの女神像に腰掛けてベルリンの街を眺めるシーンが印象的に映し出されていた。

 塔が完成した1873年は、岩倉具視や伊藤博文ら明治の新政府中枢を担う主要メンバーがベルリンを訪問している。なので、完成したてのこの記念塔を見ていたものと思われる。

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 その使節団を招いて夕食会を催したのが、時の宰相ビスマルク。彼の像も塔のすぐ近くにあった。



































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ドイツの20世紀を写真で振り返る場所「テロのトポグラフィー」・・・ベルリン㉟

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 ベルリンの旅も、もう終わりに近づいた。そこで、第二次世界大戦前のナチスの台頭から壁の崩壊に至るまでの現代史を包括的に見ることの出来る場所を訪れた。
 「テトのトポグラフィー」と呼ばれる場所だ。
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 ここはナチスの恐怖装置・ゲシュタポと親衛隊(SS)本部が置かれていたところ。
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 建物などはすべて解体されて、だだっ広い空き地になっているが、その一角に戦前からのベルリンに起きた出来事をパネル展示したスペースが設けられている。
 その「ベルリンの現代史」をたどってみよう。
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 1933年1月30日  ヒトラー政権誕生。ブランデンブルク門で祝賀パレード。
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 1933年5月10日  ベーベル広場での焚書
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 1936年  ベルリンオリンピック。ヒトラー政権の権威発揚の場となった。
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 1939年  第二次世界大戦開始  ヒトラーとムッソリーニ
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 1945年  ドイツの敗戦 ソ連軍ベルリン占拠
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 1948年  アメリカの空輸作戦
 
 ほとんどの出来事は、この連載の中で触れてきたが、この空輸作戦だけはまだ掲載していなかった。
 これは、第二次世界大戦後分断されたベルリンで起きたことだ。1948年6月、ベルリンの東半分を支配していたソ連が、支配強化を狙って西ベルリン周囲の鉄道、道路などの交通網をすべて封鎖した。
 西ベルリン市民の生活を守るために、連合軍側は残された唯一の輸送手段である飛行機による食料や日用品の運搬作戦を開始した。
 市民の数は220万人。これらの人びとの生活を支えるには、膨大な物資量が必要になる。そこで市内に新しい空港を突貫工事で建設し、ピストン輸送による空輸作戦が1年間にわたって行われた。
 多い日には1日に1398回のフライト、輸送量12940トンに達したという。総合計飛行回数は27万8228回。その70%が暖房用の石炭、20%が食料だった。飛行距離の総合計は地球から太陽にまで届く長さになった。
 こうして、ソ連側の目論見は全面的な敗北を強いられることになった。
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 1961年8月  そして壁の建設
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 1989年11月  その壁の崩壊
 
こんな形でドイツの20世紀は、激動の世紀だった。
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 この場所にはまだ生の壁がそのままで 残されていた。
 
 このように、ベルリンでは日常的に自国が歩んだ歴史を直接肌で感じられるようになっている。
 その姿勢は戦後ドイツで最も偉大な政治家といわれたワイツゼッカー元大統領が、ドイツ敗戦40周年の1985年5月に連邦議会で行った演説に象徴される。
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 彼は次のように演説した。
「過去に目を閉ざす者は、結局現在にも盲目になります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」。
 ベーベル広場に刻まれたハイネの言葉とも連動する演説だった。
 今月27日には オバマ・アメリカ大統領が広島を訪れることが決まった。原爆投下という行為を行った当事国の代表が、そこで新たな世界への展望を開く一石を投じることが出来るのかどうか、非常に注目される。
 

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イーストサイドギャラリーは自由実験劇場・・・ベルリン㉞

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 前回に続いてもう一回イーストサイドギャラリーを見てみよう。壁の厚さはこんなものだけれど、それが29年も国を2つに分断してきたとは、なかなか実感がわかない。

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 壁には個々の歴史とは無関係なイラストも結構あった。これはプレスりー?

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 一見ピカソ風イラストも。

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 妙にファッショナブルな絵もあった。

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 この人誰だっけ?

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 とってもメルヘン調。

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 かと思えば、死の街を連想させるようなイラストも。

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 この絵には「自由へのダンス」とタイトルがついていた。

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 こちらも自由へ向かって飛んで行く絵かも。

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 飛んでいった先には、こんな自由な街がある!?

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 閉じられた壁ではなくて、流れ出るダムの水。

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 その水辺で楽しむ市民たち。

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 秤を持つのは公平の女神?横にはアインシュタイン、ゲーテ、シラーといずれもドイツの著名人がいる。

 とにかく多種多彩なイラスト劇場だった。





























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イーストサイドギャラリーで「伝説のキッス」を見る・・・ベルリン㉝

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 オスト駅から緩い坂を下るとミューレン通りに出る。そこから、次のワルシャワ通り駅近くまでの1.2キロが、「壁」面を利用して描かれたイラスト展示場になっている。 通称イーストサイドギャラリー。カラフルに展開されるイラストを見て回った。
 
 最初に紹介するのが、「社会主義兄弟のキッス」と呼ばれるこの絵。 旧ソ連のブレジネフ書記長と東ドイツ(ドイツ民主共和国)のホーネッカー議長が熱烈なキッスをしているシーンだ。
 
 以前この絵は想像上のものだと思っていた。しかし、実際にこんなシーンがあったと聞いた。ただ、いくらなんでもこれほど熱烈な形ではあるまいと思っていた。
  だが、まさにこの絵そのものの光景が展開されていたことが、今回フランクフルトで見つけた写真によって確認された。
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 それが、この写真。フランクフルトで、ゲーテの家を訪問した後街を散策していると、ある店のショウウインドウにこの写真が張られていた。
 1979年、東ドイツ誕生30周年の式典が行われた時の光景だという。
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 それでは、その他のイラストを見てゆこう。これは、破れた壁からどっと人がなだれ込んでくるところ。
 壁は1961年8月13日に建設され、1989年11月10日に破壊されたが、イラストの最初の展示は1962年になる。
 犠牲者の多かったベルナウアー通りに、冷戦時代を風刺するものや壁崩壊を喜ぶものなどが計24か国の芸術家118人によって描かれた。壁の撤去と共に消える運命だったが、保存の声が多くなり、オープンギャラリーとして残されることになった。
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 東独の大衆車トラバントが壁を突き破って出てきた。
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 これは有名なイラストらしい。大聖堂のプロジェクションマッピングでもこのイラストが登場していた。
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 楽しみながらの壁壊し作業!?
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 これは見ての通り、壁を飛び越えた。この人物、どこかオバマ大統領に似てる。
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 日本の風景もあった。でも四重の塔?
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 こちらはかなりのサイケ調。
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 この人は間違いなくゴルバチョフ。
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 壁の切れ目を見ると、実際の壁は こんなに薄く感じる。
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 こうした壁も、一九八九年にようやく崩壊した。
 

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議会議事堂前広場の紅葉と首相官邸・・・ベルリン㉜

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 連邦議会議事堂の見学の後、その前に広がる共和国広場を散策した。議事堂見学が朝だったので、広場散策も午前の温かい日差しが降り注いでいた。
 散策に入る前に、この議事堂にもナチスの傷跡がついていることを、書き残しておきたい。
 1933年2月27日、議事堂が放火されるという事件が起き、青銅の円蓋屋根が焼け落ちた。
 この年は、ヒトラー政権が樹立された年。翌28日すぐさま「国民と国家の防衛のための大統領緊急命令」が発効された。
 大統領に超法規的に何でもできる権限を与えるもので、ヒトラー大統領は次々と自らの政敵を根絶やしにする政策を打ち出した。
 具体的には、ナチスはこの放火事件が共産党による仕業だとして同党弾圧の口実にした。強圧支配がこの事件を機に始まったのだった。
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 さあ、散策に入ろう。まず最初に目についたのは、地下鉄駅から階段を上がって地上に出た瞬間に目に飛び込んだのが、この深紅の樹木だった。
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 そして、。秋の日差しを受けて鮮やかな紅葉を見せていたのが広場の木々。
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 青空との対比で、目が痛くなるほどの素晴らしいコントラストが展開される。
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 ドイツの落葉樹もみごとに紅くなるものだ、などと変なところに感心したりしている。
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 中にはもう落葉も始まっていて、地面もオレンジに染まる。
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 すぐ先には噴水があり、
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 そこに連邦首相府の建物があった。メルケル首相の執務する場所だ。
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 その形や白さなどから、洗濯機というニックネームが付けられているという。
 この地区周辺はシュプレー川沿い再開発の要となる地域で、これからもさらに新しい建物などが建設される予定という。
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 もう一度真っ赤な紅葉をじっくり眺めてから、広場を後にした。

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超現代!ガラス製の議会議事堂に昇る・・・ベルリン㉛

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 予約していたドイツ連邦議会議事堂の見学に出かけた。見学は無料だが、申し込みが必要。日本出発前にネットで予約。送られた確認票とパスポート持参で議事堂に向かった。
 入場は、議事堂の右脇にあるプレハブのような建物に集合し、本人確認の後グループ毎に引率されていく。
 この議事堂、そもそもは1871年にドイツ帝国が誕生、それにふさわしい議事堂建設をと国際コンペが実施され、1894年に鉄骨製のドームを戴くネオバロック様式の議事堂が完成した。 しかし、第二次世界大戦の敗戦で首都はベルリンからボンに移って、建物も放置状態が続いた。
 だが、1989年の壁崩壊によって首都がベルリンに復帰することになり、議事堂の修復が始まった。
 設計者はイギリスの建築家ノーマン・フォスター。元の屋根に倣ってドーム式の屋根が築かれたが、今度はガラス製という斬新なものとなった。
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 エレベーターでドーム入り口まで着くと、あとは自由行動になる。ドームは中心に円錐を逆立ちさせたようなガラス製の円柱があり、まるで宇宙へ飛び立つロケットさながらの超現代的な造形。
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 ガラスドームの円の側面に渡された歩行者用のらせん状スロープを上って頂上を目指す。
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 あっという間に頂上付近に到着した。
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 周囲は360度見渡し放題だ。
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 見下ろすと、こんな具合。あくまでもシャープで現代的な造りだ。
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 真下はこんな風。この「芯」の部分が光を反射させて 直下にある本会議場を明るくする機能と通風機能を備えている そうだ。
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 アップしてみた。この下に会議場がある。
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 ドームから外に出た。半円形のドームが青空に映える。
 
 直径40m、高さ24m、360枚の鏡、400トンのガラスを鉄鋼製の放物線状
を描くフレームが支えている。
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 ベルリン中央駅も間近かに見える。
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 ソニーセンターの屋根はまさに富士山の形をしていることが、ここからだと一目瞭然だ。
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 ベルリン大聖堂のクーポラは、朝日を浴びて逆光になってしまった。
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 ジーゲスゾイレ(戦勝記念塔)は遠くに小さく見えていた。
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 見晴らし台のような小さめの建築物の上にドイツ国旗 。
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 ガラスドームには何重にも異なった角度で鏡が取り付けられているため、さまざまに変化した風景が映りこむ。
 らせん階段を下りて振り返って見上げると、ガラス板に自分の顔が映りこんでいた。

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