ロダン美術館下 決別、カミーユの死
そしてこの壮絶な作品「分別盛り」が生み出された。ひざまずく女を振り払って立ち去ろうとする男。その男を後ろから両手で抱える老婆。男の顔は苦痛にゆがんでいる。カミーユは心に育んだ狂気の刃とともに、対象を思い切り醜くすることで、自らの精神の安定を保とうとしているようだ。
この時代の芸術界は、まだ女性には門戸を固く閉ざしていた。官立美術学校のエコール・デ・ボザールさえも女子の入学を認めていなかった。自らの力量をだれも認めてくれないうえに、栄光はすべてロダンのものになってしまう現実への反逆の叫びもまた、この作品に込められていたのではないだろうか。
この時カミーユ30歳。歯の抜けた口ややつれきった目元など、まだ51歳のローズが完全な老婆として描かれているのに対して、55歳のロダンはそれほどでもない。決別の表明ではあるにしても、愛を捧げ続けた相手を完全に否定しきることまでは出来なかったのではないかとも思えてしまう。
ならば、ロダンはカミーユをどう描いたのか。唇に両手をあてて、今にも言葉を吐き出そうとするカミーユの胸像。タイトルは「アデュー」(さようなら)。抜け殻のようなうつろな表情は、逆に告別の深い傷を象徴しているのかもしれない。同じ別れの表現にしても、激情の嵐としてブロンズにその炎をぶつけたカミーユと、海の底に沈むような静けさに思いを包んだロダン。世間的には当代随一の彫刻家として名声を博す存在となっていたロダンだが、二人の女性の間でおろおろと揺れ動く生身の男の姿が透けて見える時期だった。
まだ愛に燃えていた頃のカミーユの輝く表情とは、何と違うことだろうか。
カミーユはその後、心の病に侵されて病院に強制収容され、その後一度も社会に復帰することなく、1914年、南仏アヴィニヨン近郊の精神病院で、79年の人生を閉じた。激しくも哀しい人生だった。
一方ロダンは1917年1月、77歳でローズと正式に結婚式を挙げた。ローズが死去する2週間前のことだった。ロダンもまた同じ年の11月に波瀾に富んだ人生の幕を下ろした。
その前年に自らの作品を国に寄贈。美術館建設の構想が固まった時に、友人に宛ててこんな手紙をしたためている。「マドモアゼル・カミーユの彫刻が何点か展示されることになれば、うれしく思います」。
思いやりと取るか未練と取るか。いずれにしてもそうして完成したのが、この美術館だった。
美術館の庭に出てみよう。ゆったりとした敷地に小さな池があり、ベンチに座って建物を眺めることが出来る。パリの中心部にありながら静かな時間を持てる場所だ。
地獄の門の一番上に飾られている「三つの影」。三人の人物は実は三人ともアダム。地獄の門が時空を超えた存在であることを証明するものだという。
池に置かれた彫刻「ウゴリーノ」の向こうにアンヴァリッド」の塔が見渡せる。その地下にはナポレオンが眠っている。
ロダンのコレクションも陳列されている。ゴッホの「タンギー爺さん」。背景に日本の浮世絵が描かれていることでも、ロダンが浮世絵好きだったことがうかがわれる。
この美術館は、個人的な関心の強さもあって、非常に印象の強い美術館ですが、そうでなくとも美の世界の奥深さを感じられる空間だと思っています。
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