ウイーン 美術

エゴン・シーレ 拒絶の絵画

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 左腕を膝に 右手を胸に当て  思い切り両目を開いている

 やっと拓ける未来に向けて   あらたな夢を見つめる目だ

 懐には 妻   その妻の足元に 赤子

 妻は新たな命を宿していた   

 少し先には確実に訪れるであろう  理想の家族の姿に思いをはせて

 まだ見ぬ赤子をも含めた そこにあるべき形を描いたのは

 シーレ28歳のときだった

 だが 妻の眼差しは  どこかうつろだ

 忍び寄る病に  怯えているかのように

 同じ年 スペイン風邪がヨーロッパ全土を襲った

 妻は病に倒れ 我が子にこの世の光を与えることもできないまま

 ともに天国に旅立つ

 その三日後 シーレもまた 同じ病で命を落としてしまう

 永遠に実現せずに凍りついてしまった  家族の姿

 赤子の無垢な表情が その絶望を一層 深くさせる

 特別展が開かれていたベルヴェデーレ宮殿で、エゴン・シーレの「家族」と対面した。少し照明を落とした仄暗い室内だというのに、強烈な個性を発散するシーレの作品群。その中でも特に、今にも激しい慟哭が聞こえてきそうな作品が この絵だった。

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 そして向かい側に飾られていたのが「死と乙女」。「家族」から溯ること3年。1915年は妻エディットと結婚した年だ。それまで一緒に住んでいた女性がいた。名はヴァレリー。彼女は4年にわたってシーレに忠実に尽くしてきた。だが、シーレは結婚相手には別の女性を選んでしまう。 それがヴァレリーにどれほどのダメージを与えたかは、シーレ自身がよく知っていた。

 ここにいる乙女はヴァレリー。死はシーレ本人だ。しがみつく骸骨のような細い腕の 何という頼りなさ。相手との絆を断ち切られた深い悲しみでもう既に、心はうつろだ。対して、怯える目のシーレ。どうにもならない自らの打算とエゴイズムへの罪悪感。ヴァレリーは間もなく、志願してバルカン半島の戦場に赴き、あっけなく命を絶った。

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 カプチーノ教会でハプスブルク家の棺の列を見た翌日、シーレの絵に接した。会場の出口付近には死の床にあるシーレの写真が展示されていた。ウイーンに死の香りが立ち込めていると感じたのは、まさにこの街が、激しい死とのかかわりを幾重にも積み重ねてきているからなのだろうか。

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 レオポルド美術館は、まさにシーレの美術館と呼んでもよいほどにシーレコレクションが充実している。彼は数多くの自画像を残しているが、その中の一枚「ほおずきのある自画像」は、別の一枚と左右対称になるように描かれた。

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 それが「ヴァレリーの肖像」。この絵が描かれた時期は、少女誘拐容疑で逮捕されたりして不安の中にあったシーレを、ヴァレリーが懸命に支え、二人の絆が深まった頃だった。

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 まさに、レオポルド美術館の前の道路には、その2枚の絵を合わせて造られたポスターが飾られてあった。

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 「隠者たち」(1912年)

前の若い男はシーレ自身。背後から抱きつくのはクリムト。二人の親密さの一方で、シーレが浮かべている不敵な面構えは、クリムトからの精神的自立をも表わしているのだろう。父親ともいうべきクリムトを敬愛しながらも、個性の違いは必然的に師から離れなくてはならない状況を造り出す。世紀末という時代もまた、それを求めていた。

 クリムトの時代はまだ主観主義と客観主義との間に均衡が保たれていた。だが、シーレの時代には主観は強く解放を求める。そんな葛藤する心が、この絵にも鮮明に表れているように見える。

 シーレはこの絵についてこう語っている。「これは灰色の天国ではありません。二つの肉体がうごめく陰鬱なこの世の姿なのです。(中略)この二つのシルエットは、形を取ろうとしても力なくすれ違ってしまう、地面を舞う土煙のようなものとみなさねばなりません」

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 「母と娘」(1913年)

 長い髪を束ね、やせ細った娘が必死にすがりついている。母は正面を向いてはいるものの、娘を抱き締めるわけではなく、半ば戸惑っているかのようだ。鮮やかな赤いドレス、それは母としてではなく女として生きようとする決意の表れなのか。暖かい家族の触れ合う瞬間には、どうしても見えない。「母と娘」というタイトルから受けるイメージとは遥かに離れて、画面一杯にあふれるのは、緊張感。この二人はこれからどこに歩んで行くのだろうか。短い生涯の中で安らぎの場を持てなかった足跡が、この絵からも浮かび上がってくるようだ。

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 特別展開催中だったことで、シーレの作品「エドヴァルド・コスマックの肖像」のポスターが、市内各所に張り出してあった。夜、レストランからの帰り道、ばったり出会ったエドヴァルドさんの鋭いまなざしに、びっくりさせられた。

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クリムトを追って 4 応用美術博物館、レオポルド美術館

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 クリムトを追ってウイーンの街を巡る試みも、今回が最後となる。上に掲げたのは後期の傑作「死と生」の部分。タイトルは緊張を覚えさせるものだが、このように生の側に描かれた母と子の柔らかく豊かな表情は、金の装飾の時代とはまた違った魅力にあふれている。

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 少し溯ってクリムトの足跡をたどって見る。オーストリア応用美術博物館には貴重な作品が収蔵されている。ストックレー邸食堂壁面に描いた装飾の下絵がここにあるのだ。

 ベルギーの実業家アドルフ・ストックレーはウイーン在住中にウイーン工房の主宰者ヨーゼフ・ホフマンに邸宅の設計を依頼した。ただ、彼の父が死亡し、その邸宅はブリュッセルに建設されることになった。ヨーゼフは友人クリムトに壁面装飾を依頼して、部屋の三方の壁を飾る「生命の木」シリーズの9点の下絵を描いた。

 向かって左側に描かれたのは「憧憬」。若い女性が何かに気付いたかのように後ろを振り向き、両手で異様に長い頭を抱えている。その手の形はまるで日本の鼓を抱える女性のようだ。体を包むのは鋭くとがった三角の黄金。目は強い力を放ち、ある一点を凝視している。その視線の先にあるのは生命の木。隅々まで枝が自由に広がっている。

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 対して、右側にある「成就(充足)」は、抱き合う男女だ。ここの女性からは視線が姿を消して眼は閉じられ。直線的な腕で男の背中を捉えている。男の顔は見えない。太い輪郭からは安定の安らぎが漂う。そして、こちらの服に描かれる中心的な図形は丸。憧憬から成就への移行を象徴しているようにも見える。

 抱き合う男女のモチーフは「ベートーベンフリーズ」の中の「歓喜」(1902年)、この「成就」(1905~9年)、そしてベルヴェデーレ宮殿の「接吻」(1907~8年)と3回登場するが、「歓喜」に比べるとさらに装飾性が強まり、クリムトの装飾絵画の独自性がひとつの極みに近付いている作品と感じた。

 そんな傑作のあるストックレー邸だが、その建物の内部は専門家も含めて一切外部の人間には公開しておらず、完全に幻の絵となってしまっている。

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 この博物館特有のすばらしいコレクションがある。椅子コレクションだ。

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 陳列の方法もユニーク。部屋に入ると中央通路からはカーテン越しの椅子のシルエットだけが見える。

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 脇に回ると、こんな風に実物も見ることが出来る。椅子の形も展示法も遊び心いっぱいの空間だった。

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 このクリムト探訪の旅で最後に訪れたのはレオポルド美術館。美術史美術館の裏側に出来たミュージアム・クオーターの中にある。ここにはウイーン大学講堂のために描かれた天井画の写真が飾ってあった。

 1894年に依頼を受け、約10年の時を経て完成した3点のうち2点。こちらは「医学」。大学側から教育の場に飾るにはふさわしくないとの激しい批判と攻撃の嵐にさらされた。素裸の女性の描写などが、お堅い大学の教授たちにはお気に召さなかったためだ。

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 こちらは「法学」。

 クリムトは結局これらの絵を自分の手元に買い戻してしまった。その後彼は公的な仕事には一切関与しなくなってしまう。これらの作品は個人コレクターの手に渡ったが、1945年、疎開先でナチスの放った火によって焼かれてしまった。これもまた幻の作品となった。

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 クリムトの黄金様式は1910年頃には終わり、その後は暖色系の色彩を多用した作風に変わって行く。この美術館に展示されている「死と生」は骸骨こそいるものの、「生」の部分の女性たちの笑みを含んだ柔らかい表情は、見る者を包み込む温かさにあふれている。

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 その暖かさと陶酔感は、プラハ国立美術館で出会った「乙女たち」からも同様に感じられた。

 クリムトを追って訪ねた場所はプラハを含めると7つ。生涯のパートナーだったエミーリエ・フレーゲの肖像画のあるカールスプラッツなど、時間がなくて行けなかった場所もあったが、クリムトのたどった変遷の概要くらいは見ることが出来たかなと思う。それにしても、画家の人生の奥深さには打ちのめされるくらいの強い印象を覚えた数日間だった。

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クリムトを追って 3  分離派会館、ベルヴェデーレ宮殿

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 クリムトら若い芸術家が既成の芸術界に飽き足らず、新たな芸術運動を起こそうと建設した「分離派」の拠点「分離派会館」を訪ねた。

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 「時代には時代の芸術を 芸術にはその自由を」。あまりにも有名な言葉が記された“黄金の玉ねぎ”の建物は地下鉄カールスプラッツ駅近くにあった。建物の設計はヨーゼフ・マリア・オルブリヒ。

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 たまたまこの日は閉館してしまっていたので、壁面観察を始めた。まず目につくのは、内部にある「ベートーベンフリーズ」にも登場するゴルゴン3姉妹の顔。3人の髪の束から3匹の蛇がとぐろを巻いている。

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 その下側には下向きになったトカゲが2匹。

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 入口の両脇に据えられた大きな甕を支える4匹ずつ、計8匹のカメもいる。

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 側面に回って見る。アールヌーボーの植物の茎と葉が流れるように描かれた壁の、奥の棟の壁面に、何かいる。

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 フクロウだ。3匹1セットのフクロウ君たちが、両側面合わせて4組、12匹が浮き彫りになっていた。

 つまり、この建物の側面だけで25匹もの動物がうごめいている勘定になる。こんな遊び心満載の建物であることに、今回初めて気付いた。

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 「時代には・・・」の言葉の他にも、正面の壁に「VER SACRUM(聖なる春)」の文字がある。これは1898年の会館建設と同じ年に発行開始した機関誌の題名でもある。

 実はこの1898年は、あの皇妃エリザベートがスイスで無政府主義者によって暗殺された年でもあった。まさに、世紀末の不穏な空気が漂う真っただ中でのスタートだった。

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 別の日、ベルヴェデーレ宮殿に行った。ここの上宮はオーストリア・ギャラリーとして19・20世紀美術館になっている。

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 ここを最初に訪れたのは11年前になる。開館と同時に入館し、一目散にクリムトの部屋に進んだ。その時ちょうど、係員が窓のカーテンを開いた。夏の日がすっと室内に差し込み、窓と平行に飾られていた「アデーレ・ブロッホ・バウアーの肖像1」を照らしだした。金と銀とで仕上げられた彼女の服の、特に銀の部分がキラキラと白く輝き出し、日差しの及ぶ個所が次々とさざ波のようにきらめいたことを、まるで昨日のように思い出した。

 その作品は、今はもうこの美術館にはない。ナチスに没収された絵画の、旧持ち主への返還措置が決定され、いろいろな経緯を経て、今ははるかニューヨークのノイエギャラリーに移されてしまった。

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 しかし、クリムトの代表作「接吻」は健在だ。圧倒的な存在感と孤独感。相矛盾するような2つの感覚が、頭の中で渦巻いている。顔の精緻な描写と、パターン化した服装の文様、花園の楽園か崖っぷちの死の淵か。いくつもの対照を絵の中にはらみながら絢爛たる瞬間をつきつけるこの絵は、やはり特別な存在なのだろう。

 正面に立って見つめた後、細かな描写を確かめようと少し前に寄った。その時、男のまとった衣装の金がきらめいた。頭上の照明が、ちょうど絵のゴールドの光沢を輝かせる角度に入ったのだろう。100年前の、クリムトがカンパスに塗りこんだばかりの金の光を、直に体験したような錯覚を味わうことが出来たのだった。

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 また、11年前にウイーンでポスターを買い、ずっと自宅に飾っておいた「アッター湖畔の並木道」の実物にも再会できた。クリムトには珍しい、ゴッホ張りの骨太なタッチで描かれた風景画。こんなクリムトも好きだ。

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 ハプスブルクの将軍オイゲン公が建築家ヒルデブラントに依頼して建設したベルヴェデーレ宮殿の庭には、スフィンクスのような彫刻が置かれ、遠くにはシュテファン大聖堂が見える。クリムトの絵で圧倒された後、しばし休息をとるのにちょうどよい場所だった。

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クリムトを追って 2  美術史美術館の壁画

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 19世紀末、ウイーンはまさに都市改造の真っ最中だった。1857年フランツ・ヨーゼフ1世がウイーン市街を取り囲んでいた軍事要塞の撤去を決断した。膨張する都市を機能させるためには広大な土地利用が欠かせない。ここでは要塞の撤去によって旧市街と新市街を有機的に結び付けようとする都市再開発だ。

 撤去された要塞跡には幅広い道路(リンク)が造られたが、道路沿いには雄大な建築群が新築されることになった。ゴシック、ルネサンス、新古典とさまざまな様式の建築物が次々と着工されるという、建築ラッシュが到来し、クリムトら若手の活躍の場が飛躍的に拡大する絶好の機会に遭遇することになった。

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 1890年の美術史美術館の建設は、帝国にとって重要な意味を持つものだ。ハプスブルク家が代々収集してきた皇帝直属の美術品を、そこにずらりと展示して、帝国の歴史の重み、文化水準の高さを誇る一大殿堂とする空間だ。こうした場所の、入館してすぐ目に入る階段に面した壁画を、クリムトたち芸術家カンパニーが、まかされたのだった。

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 美術館に入ると、正面に荘厳な階段が現れる。見上げると支柱と支柱との間に出来る小間に絵が描かれている。

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 これがクリムトの絵か?いや、どうも画集などで見ていた絵とは違うようだ。

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 中央階段を昇って折り返しの踊り場にあるカノーヴァ作テセウス像のところで振り返って上を見上げると、そう、この場所まで来て初めてクリムトの壁画と出会えるのだ。

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 クリムトらがまかされたのは全部で40箇所の小間。その中でクリムトは11箇所を描いたという。古代エジプトからギリシャ、ローマ、ルネサンスに至る美術の発展の歴史を、それぞれにふさわしい様式やコスチュームによって装飾画を描くことが、与えられた仕事だった。

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 向かって左からその作品を眺めて行こう。一番左が「聖女・ローマ」

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 「総督・ヴェネツィア」「タナグラの乙女・古代ギリシャ」「パラスアテネ・古代ギリシャ」

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 パラスアテネは、その後のクリムトの作品に何度か登場するモチーフだ。

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 「エジプトの裸像・エジプト」「ミイラ・エジプト」「青年・フィレンツェ」

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 「若い娘と幼児・ルネサンス」「ダンテと幼児・ルネサンス」

 この女性像は、リアルな表情の描写と、あいまいな体の輪郭、金をちりばめた服装など、後の代表作「接吻」にもつながる雰囲気を既に漂わせていると思う。暗いのでわかりにくいが、その横の少年像の上にダンテの顔があるのを、今回初めて知った。

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 角度的によく見えにくいが「ダヴィデ・フィレンツェ」「ヴィーナス・ルネサンス」の11小間となっている。

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 個人的に特に印象的だったのが、このエジプトの女性像。端正な顔立ちでしっかりと正面を見つめる姿だ。基本的には古典様式を踏まえて描かれているが、クリムト独自の個性の芽吹きを見つけることが出来る。女性像の背景にはコンドルの翼が描かれるが、しっかりと後の色彩的な特徴となる黄金を使っている。また、パターン化した装飾の描き方などは、きらびやかな装飾表現の萌芽とみてよさそうだ。

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 クリムトはこの後3回イタリアに旅しているが、特に1903年にはヴェネツィアに滞在しながら2度もラヴェンナに出かけている。ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂、そしてラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂は、いずれも金を多用したビザンチンモザイクの傑作がある場所。ここで大きな刺激を与えられたと本人も認めているように、金工だった父から譲り受けた金に対する素養と、傑作から与えられたインスピレーションが相まって、あの独自の装飾様式を確立することになって行ったのだろうことは、容易に想像できる。

 

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クリムトを追って 1  ブルク劇場の天井画

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 ウイーンに関心を持った最初のきっかけはクリムトだった。学生時代から魅かれ続け、途中で一度距離を置いたこともあったが、最近になってまたその魔力に引きずられている。そのクリムトの本格的な絵画人生の出発点となったブルク劇場の天井画を、まずは見たいと思った。

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 演劇鑑賞以外にこの劇場に入るには、ガイドツアーという手段がある。毎日午後3時ころから実施されており、それに参加するため劇場に向かった。

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 予約をすると、係員が心配そうに英語で尋ねてきた。「このツアーはすべてドイツ語で行う。日本語はもちろん、英語の解説もないが、あなたはそれで大丈夫か?」。「大丈夫。ドイツ語はわからないが、私はクリムトの絵を見たいだけ。ご心配なく」。彼女はにっこりうなずいた。そんな人も時々いるのだろう。

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 果たして、天井画はエキサイティングだった。クリムト、弟のエルンスト、フランツ・マッチュで組織した「芸術家カンパニー」が行った仕事のテーマは「劇場の歴史」。右側階段の間に、クリムトは3点の天井画を描いた。これはその1つ「テスピスの凱旋車」

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 「シェークスピアの劇場」

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 「ディオニソスの祭壇」。いずれも天井の漆喰面に美を具現するアカデミックな歴史画を華麗に描いている。

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 この中で注目するのは「シェークスピアの劇場」の右側観客部分。ロミオとジュリエットの劇が演じられ、それを見つめる正装の観客たちが描かれているが、右側白い首飾りをつけた男女2人のうち、男性はクリムト自身といわれる。その手前の黒服はフランツ・マッチュ、クリムトの後ろの男が弟エルンスト。クリムトはほとんど自画像を描かない画家だった。後輩のエゴン・シーレが彼の自画像であふれているのとは対照的だ。それだけに貴重な絵だということが出来る。

 なお、弟のエルンストは20代の若さで死亡している。

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 反対の左側階段の間に移動する途中に、向かい側の市庁舎広場がよく見える場所を通った。ご覧の通り、広場は臨時のスケートリンクになっていた。

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 こちらの天井画はこの「タオルミーナの劇場」が最も印象的だ。まだシチリアへは行ったことがないが、タオルミーナの古代劇場を手前に、遠景にイオニア海が俯瞰できる写真は何度も目にしている。クリムトは、遠景はそのままに、手前を劇場内部で展開される想像の舞台に変えてしまった。

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 官能的なヌードの舞い、くつろぎながら見入る王侯らしき人物など、彼独特の華やかさは、ここにもしっかりと芽を出している。

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 画面上方のシルエットになった像は、月桂冠を手に持って立つ勝利の女神ニケ。この後で訪れたプラハのヴルタヴァ川岸でも同様の像を見かけた。雄大でありながら繊細さも併せ持つ、若き才能をほとばしらせたクリムト26歳の作品だ。

 余談だが、スポーツ用品の世界的メーカー「ナイキ」は、ニケ(NIKE)の名前から取った名称だという。トレードマークのあのイラストはニケの翼を模ったらしい。

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 各種文献には、クリムトが描いた天井画は5点で、もう1つのタイトルは「アポロンの祭壇」と書かれている。しかし、その絵がどんな絵か、私の周囲の資料には載っていなかった。多分この絵ではないか、と推定して載せてみました。

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 こちらはフランツ・マッチュの担当した絵。

 この仕事が認められ、芸術家カンパニーは国から黄金功労十字章を授与された。そして、次にはさらに重要な仕事が舞い込むことになる。

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