パリ 美術

ラ・ロトンドでーモディリアニとジャンヌの物語⑦

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 晩秋の午後、ラ・ロトンドでカフェ・クレームを飲みながら外を通る人たちを眺めている。

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 ちょうどすぐ横にモディリアニの描いた絵が架かっている。ジャンヌ・エビュテルヌ。

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 そう、まっすぐ前を見つめる、強い意志を感じさせる、しかもちゃんと黒い眼のある肖像画だ。これは、モディリアニと出会った直後の姿だろうか。清楚で混じり気のない純粋さで人を信じることの出来た年代のようにも見える。

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 モディリアニと恋に落ち、愛する人に見つめられて自らの姿を描かれることの喜び。印象深いあの髪を結んだ写真のように、人を拒絶するような厳しさはない。強く、しかし受容の心を感じさせる視線でもある。

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 やがてモディリアニの子を宿し、生み、さらに2番目の子を授かろうとしながら、夫の死のわずか2日後に自ら生命を断つという悲劇的な生涯の終わりを迎えた。出会いから死までわずか数年の間のことだった。

 画学校にも通っていたジャンヌ。その才能も決して侮れぬものだったはずなのに、選んだのは生きて画家の道を歩むことではなく、愛する夫のいなくなったこの世との決別だった。

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 このロトンドは、モンマルトルから移ってきた芸術家の拠点として栄えた。モディリアニはここで客の似顔絵を描き、フジタはこの店のカウンターでモデルを踊らせたこともあった。芸術家たちとその卵たちが集い、描き、語り、騒いで時を過ごした。そんな時間がこの空間に凝縮し、今も残り香が香っているかのようだ。向かいには、ヘミングウエイらアメリカ系の文化人たちが集まったル・ドームが見える。

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 犬を連れた、もう80歳にもなろうかという老婦人が、すんなりと窓際の席に座る。若いきりっとしたウエイターはさも当然のように「マダーム」と、オーダーを問いかける。日常の風景だろうが、それが、パリ、ロトンドだからこそ、しっくりと収まっている。

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 「だれとだれが初めて出会ったのは、この店だった」などというエピソードがいくつも転がっている店。

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 11月の平日の午後でも、次々と人が行き来するエトランゼの空間。そういえば、モディリアニ、フジタ、ピカソ、シャガール・・・。その多くが他国から移り住んだ異邦人たちだ。そこに刺激と感性の飛躍を夢見て集まった気鋭の若者たちが、新たな文化を創り上げるための熟成の場として、この店もまた機能していたことだろう。

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 今もそんな場となっているかどうかは知らない。ただ、何か赤いビロードに囲まれた空間でほろ苦いカフェを口にする時、一種の興奮状態に人を誘う作用があることは確かだろう。

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 モディリアニとジャンヌの短かった生涯をトレースしてパリの街を歩いてきた。その悲劇性ゆえに、二人の物語は画商たちとその関係者によって、より一層ドラマチックに飾り立てられ、彼の絵の値段を吊り上げる手段として利用されたことは否めない。

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 だが、そうした側面を踏まえたうえでも、二人の辿った20世紀初頭のストーリーは、それから100年を経過してもなお、やはり忘れ難く、深い印象を我々の胸に刻み込んでやまない。(終)

 

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ジャンヌが命を絶った場所へーモディリアニとジャンヌの物語⑥

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 ジャンヌの最期の場所へ行ってみた。モンパルナスから地下鉄を乗り継いでプラス・モンシュ駅で下車。目指す先はジャンヌの実家のあったアミヨ通り8番地だ。

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 ムフタール通りというレストランなどが連なる賑やかな通りを過ぎると、もう完全な住宅街。

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 トゥルネロ通りとぶつかる形で、その短い通りはあった。

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 偶数番号が並ぶ向かって右側の家並みの中で、1軒だけ大きなアパルトマンがある。それが8番地。6階建て(フランス式で5階建)で、近年リニューアルされたのか、白い壁面がまぶしいくらいだ。

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 わずかに日が傾きかけたころ、空が明るくなった。パリ滞在中ずっと見ることの出来なかった青空が、広がり始めている。モディリアニとジャンヌの出会った学校や、暮らし始めたアパルトマンを訪ねた時も、いつも厚い雲が垂れこめていた。それが、あまりに短い生涯を終えた、ジャンヌの終焉の場所に着いた時だけ青空が広がるなんて、何という皮肉・・・。

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 地面は石畳。

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 ジャンヌの実家の6階の窓から飛び降りたのだから、固い石畳に直撃したジャンヌは、一瞬で命を奪われたに違いない。1920年1月26日午前5時。まだ夜明けには早い暗がりの冬のパリ。ひたすら最愛の画家の成功を夢見続けた21歳の女性が、はかなくも短い人生をあっけなく終えてしまった。

 体内には8か月の赤子が宿っていたというのに・・・。

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 落下地点と思われる場所で6階を見上げていると、1人のおばあさんが 声をかけてきた。「ジャポネーゼ?」「はい、実は・・・」「こっちよ、いらっしゃい」。何だかわからないけど、とにかく「ついてらっしゃい」と、手招きして歩いて行く。私の知らない碑か何かがあるのだろうか、と付いて行った。

 おばあさん、角を曲がると家を指差した。「ほ~ら、あそこよ」。

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 指の先にあったのは、角の建物の屋根近くに取り付けられた亀のレリーフ。この近所では有名なのかもしれないが、こちらの目的とは何の関係もなさそう。「じゃあね」。おばあさんは、上機嫌で去って行った。多分、家に帰ってから家族たちに「さっき、亀の像を探していたジャポネーゼに教えてやったのよ」などと、話しているに違いない。不思議な出会いもあるものだ。

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 とにかく、ジャンヌの最期の場所にたどり着くことは出来た。

 モディリアニの死の床で、ジャンヌはこう語ったという。「私にはわかっていることがあるんです。私のために生きている彼に、もうすぐ会えるということが・・・」。2日前、彼女はすでに、天国で待つ彼の許へ旅立つ覚悟を決めていたようだ。

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 モディリアニの棺は、1月27日午後、ペール・ラシェーズ墓地に運ばれた。その棺をピカソ、、レジェ、シュザンヌ・バラドンらが見送ったという。

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 最後まで彼の面倒を見続けたズボロフスキーは、棺の前でこう語った。「今日、私の最も親密な友、アメーディオ・モディリアニは、多くの花々に囲まれてペール・ラシェーズの墓地に眠りました。彼は星々の息子で、彼にはこの世は存在しなかったのです」。

 一方、ジャンヌについても、友人たちは合同葬儀を望んだが、ジャンヌの父はそれを拒否し、遺体は別の墓地に埋葬された。娘を不幸に貶めたのはモディリアニだったとの思いを、断ち切れなかったのだ。ズボロフスキーらは、モディリアニの葬儀に供えられた花で造った大きな花輪を持ってアミヨ通りのアパートに集まったが、彼らの入場は墓地の入り口で拒否されてしまった。

 二人が同じ墓地に入ることが出来たのは、それから10年も後のことだった。

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 「栄光に達せんとした時、神に召された」とある、モディリアニへの献辞の下に、ジャンヌに捧げられた言葉も刻まれている。

 「その貞節は究極の犠牲すらいとわなかった」。

 

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“栄光に達せんとする時、神に召された”ーモディリアニとジャンヌの物語⑤

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 同棲を始めた1917年、シャンゼリゼ通りがクリスマスを控えて華やかな装いを見せる12月に、パリのベルト・ヴェイエ画廊で初めての個展が開かれることになった。ようやく画家として世間に認められるチャンスが巡ってきた。しかし、意外な展開が待っていた。

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 オープン初日に警察が会場を訪れ、こう宣言した。「ヌードのポスターは公序良俗に反する。この個展は認められない!」。こうして、初の個展はわずか1日だけで幕を閉じてしまう。

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 絵画におけるヌード作品は、現代では問題にならないが、まだまだ封建的な気風が支配する時代だった。思えば彼が個展を開いたのはこの時だけ。生涯で唯一の個展は、こうしてあっけなく終わった。

 モディリアニはまたロトンドに通う生活に戻った。ただ、過度の飲酒やハッシッシなどの影響、10代にかかった結核の再発などによって、体調はますます悪化していた。また、ジャンヌは彼の子供を身ごもっていた。

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 そんな状況を見かねたズボロフスキーは、2人を転地療養のため、南仏ニースに送り出した。

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 ニースの温暖で明るい気候は、彼の健康回復への転機となる。そして、その年1918年の11月29日、ジャンヌは長女を出産、同名のジャンヌと名付けた。

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 翌1919年、パリに戻ったモディリアニは、ロンドンで開かれた現代フランス美術展に作品を出展、肖像画が高額で売れ、いよいよ評価が高まろうとしていた。彼もまた、精力的に制作に励んだ。

 そんなある日、友人のガブリエル・フルニエは彼と出会った。「ある日、私は赤ん坊を抱えロトンドにやってくるモディリアニを見た。“僕の娘さ”モディリアニは答えた」。ちょっと照れ気味に笑顔を浮かべる彼の表情が浮かぶ。ほんのひと時の幸せが、そこにあった。

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 だが、時は彼を待ってはくれなかった。1920年1月、もともとの持病に加えて過労が重なり、1月23日に倒れる。

 チリ出身の画家オルティス・ザ・サラサは、粗末なベッドに横たわっているモディリアニとジャンヌを発見した。病院に運び込む途中、モディリアニはつぶやいた。「これで終わりだと感じている。僕はジャンヌに口づけした。僕たちは天国での再会を約束したんだ」。

 病院で注射を打たれて眠りに就いた彼は、そのまま目覚めることはなかった。1月24日、享年34歳。

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 その死を看取ったジャンヌは、こう語った。「彼が死んだことはわかっています。でも、私にはもう一つわかっていることがあるのです。私のために生きている彼に、もうすぐ会えるということが・・・」。謎のような言葉を残した2日後、実家に帰った彼女はアパートから身を投げることになる。

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 画家とその愛する人の続けざまの死といえば、エゴン・シーレとエディットのことを思い出す。1918年10月31日。ウイーンの片隅で、まだ無名だったシーレがスペイン風邪で急死した。その3日前、28日には妊娠6カ月の妻エディットが、同じスペイン風邪で死亡していた。モディリアニとジャンヌの死のわずか1年3カ月前の、オーストリアでの出来事だった。シーレが残した「家族」の絵には、まだ見ぬ我が子の姿も含めた3人家族が描かれていた。

 一方、両親の急死によって一人残された長女ジャンヌ・モディリアニは、その後モディリアニの両親の許に託されてイタリアで成長した。

 「学校に行く時に靴を磨くのに、祖母は褐色のコール天の小切れを縫い合わせて作った奇妙な布を私に手渡した。“お前の可哀そうなお父さんの上着の布だよ”と」。

 そんな子供時代を過ぎ、長じてからは美術研究の道に進み、父モディリアニの批判的研究の成果を「モディリアニー人と神話ー」として出版している。

 

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モディリアニのプロポーズーモディリアニとジャンヌの物語④

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 モディリアニとジャンヌは、出会ってから約半年で同棲を始める。ある日、二人はセーヌ川に出かけた。

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 橋のたもとで、夜空を見上げながら、モディリアニは言った。「僕は貧乏で何も買ってあげられないけど、この空にきらめくラ・セーヌの星空を君に贈ろう」。彼のプロポーズの言葉だった。

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 二人の新生活の場所は、グランド・ショミエール通り8番地。カファ・ロトンドから数分のアパートだった。

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 そのショミエール通りに行ってみた。朝早く到着したためまだ暗い通りに、ライトに照らされた像があった。あのロダンが制作したバルザック像。人通りの少ない路上にグンと胸を張って立っている。

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 通りの中ほどに「アカデミー・グランド・ショミエール」の看板がある。ここも画学校で、高村光太郎が通ったこともある。

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 そしてその向こうが8番地だった。もうすっかり立て直されたようで、立派なアパルトマンになっていた。

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 よく見ると、右のプレートにゴーギャンとモディリアニの文字が見える。時期は違うもののこのアパルトマンにはモディリアニの他にゴーギャンも住んだことがあることが分かった。

 まだ無名の二人の新居は、傾いた急な階段を3階昇った所。「建物は今にも倒れそうで、壁のあちこちから日が差し込んでいた」。

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 貧しくとも幸せな、つつましい生活が始まった。モディリアニは相変わらずカフェに行き、スケッチを売っては生活費を工面して仲間たちと飲み、議論を戦わせていた。ロトンドでモディリアニを見かけたある友人はこう語る。「あの叫び声は誰だろう。モディリアニだ。あの小柄な美しいイタリア人は、いつものように酒を飲んでいた」。

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 一方、情熱的な瞳、ふっくらした唇のロマンチックで神秘的な女性ジャンヌは、夕方になるとロトンドにやってきた。

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 そして「自分の席で最愛の人が何かを論じているのを、満足した目をしながら聞いていた」(ガブルエル・フルニエ)。

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 モディリアニは、そんなジャンヌを繰り返し描いた。今、ジャンヌの肖像画だけで20数点が残されている。

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 金を払ってモデルを雇うほど裕福でもなかった時代、魅力的な女性ジャンヌは格好のモデルとなった。

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 間もなく明けようとする朝まだきの暗いグランド・ショミエ-ル通りを見つめているうちに、酒に酔ったモディリアニがジャンヌに支えられて家に帰って行く光景が、浮かんでくるような錯覚に襲われた。

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ヘイスティングとの短い恋、そしてジャンヌーモディリアニとジャンヌの物語③

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 自由奔放でわがままな酒飲み、でもロマンティックでハンサム。モンパルナスの芸術関係者の間で、彼のことを知らない人はいなかった。画家ガブリエル・フルニエはこう述べている「その貴族のような風采、もじゃもじゃのカールした髪も含めたすべてが。彼の大変美しい顔の気品をさらに高めていた」。

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 モディリアニは朝カフェ・ロトンドに行き、店の薄い紙ナプキンに客の表情を描いては、5フランで売るといった生活を続けていた。知人によると、ほとんど昼過ぎまでにはその日の食事と酒代に十分な金を稼いでいたという。

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 そんな時、1914年7月、ある出来事があった。彫刻家ザッキンがロトンドのテーブル席で一人の女性と会っていた。店に入ってきたモディリアニに彼女を紹介すると、彼はすぐに彼女を口説きにかかったという。

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 彼女はベアトリックス・ヘイスティング、35歳。ロンドンの週刊誌「ニュースエイジ」特派員としてパリに来た彼女に、モディリアニは一目惚れしてしまった。すぐに同棲が始まった。しかし、ベアトリックスは女権論者で高い教養を持ち、プライドも高く、容易に妥協はしない女性だった。激しい性格同士、殴り合いのケンカもしばしば。だが、彼女が家を出ると、彼女を探して街をさまようモディリアニの姿がよく見かけられた。彼女を描いた作品は10点以上残されている。

 結局ベアトリックスとは2年足らずで別れることになるが、運命の歯車は音を立てて回り始めていた。

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 このころ、ポーランドの詩人レオポルド・ズボロフスキーと知り合う。彼は画商としての才覚を持っており、モディリアニの才能を見通すことのできる人間だった。それから長きにわたって金銭面の援助も含め、何かにつけてモディリアニを励まし、作品制作に協力してくれるかけがえのないスポンサーになることになる。

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 そして、運命的な出会いが待っていた。モディリアニは時々グランド・ショミエール通りにあるアカデミー・コラロッシという絵画学校にデッサンに通っていた。コラロッシは1815年の創立。国立美術学校(エコール・デ・ボザール)に入るための予備校的な存在で、若い画学生が多く通う学校。日本から留学した黒田清輝らもここに籍を置いたことがある。

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 この学校に通う1人の画学生を、モディリアニは見染めてしまった。その名はジャンヌ・エビュテルヌ。まだ18歳の少女だった。パリの化粧品会社主任会計士の父の許、裕福な家庭の娘としてコラロッシに通い始めていた彼女の姿は、一瞬で33歳の恋多き男のハートをわしづかみにしてしまった。純真、無口、控え目。ベアトリックスとは正反対。しかし、芯の強さを、何よりもその眼光が物語っていた。

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 1916年12月30日、2人が出会って間もなく、モディリアニがジャンヌを描いたスケッチが残っている。彼女の愛称「ジャネットへ」というサインも。心震えるモディリアニの気持ちが、この素描からもうかがわれるようだ。

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 こうして出会った2人の物語は、グランド・ショミエール通りを拠点として展開されて行くことになる。

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イタリアからパリへ。彫刻修業ーモディリアニとジャンヌの物語②

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 イタリアの港町リヴォルノからフィレンツェの美術学校を経てパリに出てきた青年モディリアニが、モンマルトルからモンパルナスに移ったのは、1909年のことだった。今ではすっかりパリの市街地に組み込まれてしまったが、当時のモンパルナスは場末の下町といった雰囲気。従って、芸術を愛し、パリにあこがれて外国から集まった血気盛んな、しかし金のない若者たちであふれていた。

 シャガール、ザッキン、ピカソ、フジタ、ブランクーシら未来の巨匠たちが住み、夜ごとカフェに集まり議論を戦わせた。

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 ブランクーシ、アポリネールらが住んだラ・リッシュというアトリエもまた、芸術家の卵たちの集う場所だった。

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 モディリアニはそのころ、今の地下鉄ヴァヴァン駅に近いカンパーニュ・プルミエール通りに住んでいた。短い通りだが開放的な道で、手を広げて深呼吸をしたくなるような空が広がっている。

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 その通りの17番地には近代写真の父といわれ、20世紀前後のパリを活写したウジェーヌ・アジェが住んでおり、

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 23番地には藤田嗣治がいた。

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 さらに31番地にはマン・レイが住んでおり、この一角には野望を胸に、希望に燃えた日々を送る青年たちが 一種の芸術村的な空間を形成していた。

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 モディリアニの住んでいたのは3番地。もうすっかり建て替えられて近代的なビルになっていた。なお、詩人高村光太郎も後年、留学時の1年間この通りに住んでいた。

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 当時、モディリアニはブランクーシと 出会い、彫刻の手ほどきを受け始めていた。ブランクーシのアトリエは今、現代絵画の殿堂となったポンピドウーセンター の敷地の一角にある。地区再開発によって取り壊されたモンパルナスのアトリエをレンゾ・ピアノが再現設計して公開されたものだ。午後だけ開放されるそのアトリエに行ってみた。

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  そこには何点かの作品が無造作に置かれていた。よく見ると顔の長い極端に装飾を排した像がいくつも展示されていた。

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 その造形は、後のモディリアニの絵画にも影響を及ぼしたであろうことは想像に難くない。

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 彫刻を学び始めたモディリアニは1つの信念を持っていた。「 彫刻とは石から形を造り出すもの」。それはミケランジェロから続くイタリアの伝統だった。しかし、当時華々しく活躍の場を広げて行ったロダンは、粘土をこねて塑像から形成する手法で名声を勝ち取った。「ロダンのせいで彫刻は病に落ちた。誰もかれも粘土に走り、その結果泥ばかりになった。彫刻を救う唯一の道は再び石を直接彫ることにある」と、公然と言い放った。

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 1913年まで、彼は絵を捨てて彫刻に専念し、カリアティードの制作にも傾倒した。その作品の1つがこれだ。純粋に石からその姿を救い出す究極の造形に命を注いだ。

 しかし、もともと結核などの病気を抱えて肺が弱かった彼には、埃が飛び散る彫刻は不向きだった。結局体を壊し、彫刻を断念し絵画へと戻らざるを得なかった。

 

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ペール・ラシェーズ墓地へーモディリアニとジャンヌの物語①

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 約100年前、鋭い感性で独特な人物像を描いたイタリア生まれの青年と、

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 射るような瞳の輝きを持つ少女が、パリ・モンパルナスで出会った。アメーディオ・モディリアニとジャンヌ・エビュテルヌ。二人の短くも波瀾に富んだ人生のひとときを追って、パリの街を歩いた。

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 日曜日、サンジェルマン・デプレのカフェで、カフェ・クレームとクロック・ムッシューの軽い朝食を済ませた後、パリで一番大きい墓地ペール・ラシェーズに向かった。モディリアニの足跡を追うにあたって、まずは墓参りから、と考えたからだ。

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 地下鉄4号線から3号線に乗り換えて、ガンベッタ駅で降りた。モディリアニの墓は墓地のだいぶ奥にあると聞いていた。

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 風もない穏やかな朝、墓地にたった一人で迷い込んだかのような孤独感さえ感じさせる静けさだ。

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 少し歩くと、大きな墓石に人が横を向いてうつぶせているような不思議な墓を見つけた。オスカー・ワイルドの墓。

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 近づいてみると、墓石の横側に何やら赤い点々が付いている。もっと近づくと、正体がわかった。キスマークだった。オスカー・ワイルドといえば、私には「サロメ」の作者として記憶に残っている。ヘロデ王に「洗礼者ヨハネの首が欲しい」と申し出た女・サロメ。悪女の手本のようにサロメを演出した戯曲の作者に口紅が一杯とは、ちょっとした違和感だ。

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 さすがに、「墓には敬意を払ってください」との注意書きがあった。

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 さあ、本来の目的に戻ろう。確かモディリアニの墓はこの近くだったはず。周辺を歩いたが、なかなか見つからない。辺りを見渡すと、1ブロック先に老夫婦が自分の家の墓をお参りしていた。そしてちょうど目が合って、婦人が尋ねてくれた。「何をお探しで?」。「実はモディリアニの墓を」。老婦人はモディリアニを知らないようだった。「墓は大ざっぱにいって、年代別になっているわ。私たちの家の墓は50年前くらいだから、その人はもう1ブロック向こうかしら」。

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 こんな会話があって、私はそのブロックに移動した。老夫婦は墓参りを済ませ、車に乗って自宅へ。と思ったら、車が引き返してきた。「ムッシュウ、あっちのブロックに人が集まっているわ。あそこじゃないかしら」。そこまでフォローしてくれた老婦人に何度も礼を言って 、私はそのブロックに向かった。

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 確かに数人の人が墓に向かって手を合わせていた。ここだ!と思って良く見たら、そこはエディット・ピアフの墓だった。でも、そこの人たちに聞いて、やっとモディリアニの墓にたどり着くことが出来た。

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 墓は特に目立つものではなく、ひっそりとあった。縦長の墓石の上に「モディリアニ」と 名前が刻まれているだけ。ただ、花と絵筆が添えられていた。

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 よく見ると、彼の名前の下に、ジャンヌの名前もあった。そう、二人はジャンヌが望んだ通り同じ墓の中に埋葬されたのだった。ジャンヌの死亡後だいぶ経ってからだったのだけれど。

 そして、名前の下に墓碑銘が。「栄光に達せんとしたその時 彼は神に召された」。短かった命。でも燃焼し尽くしての一生だったのだろうか。 また、ジャンヌの墓碑銘は「その貞節は究極の犠牲すらいとわなかった」。二人の愛の行方を追う中で、その言葉の意味を考えてみたい。

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 この墓地には他にも多数の有名人が眠っている。ピアノの詩人ショパンの墓は沢山の花束に埋まっていた。

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 故郷ポーランドの動乱の中でパリに亡命、恋人ジョルジュ・サンドとの愛の交流の末、1849年10月、39歳で生涯を閉じた。

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 シャンソン界の第一人者、イヴ・モンタンはシモーヌ・シニョレと一緒の墓。でも、すごくシンプルな墓だった。

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 それに比べて、ジルベール・べコーの墓は写真やピアノなど華やか。

まずは、墓参りを済ませた。次はモンパルナス界隈に出かけよう。

 

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館内外に展開する像たちーロダン美術館③

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 地獄の門、カレーの市民以外の作品についても見てみよう。

 庭園で最も迫力のある存在感を発揮していたのが文豪「ヴィクトル・ユゴー

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 一方、同じ文豪でも「バルザック 」は制作当時物議をかもした。フランス文芸協会から制作を依頼されたが、出来あがったその姿が「不格好だ」として教会側が受け取りを拒否。最終的にはモンパルナス・ヴァヴァン交差点に設置されたが、カレーの市民の時も含めてロダンの作品を巡ってはいろいろと問題が持ち上がった。

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 ヴァヴァン交差点の像に出会ったのは11月末の早朝。まだ市民が仕事に向かう少し前の時間帯だったが、ライトに照らされて一人立つ姿は、孤高の佇まいを見せていた。

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 館内には日本人の像もあった。フランス各地で巡回興業をした劇団の主役を務めていた「花子 」像。ロダンが唯一日本人をモデルにした作品だ。

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 「クロード・ロラン 」。17世紀の風景画家。地元のナンシー市から発注された。

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 また、正確なデッサンで農民や風景を描いた友人「バスティアン・ルパージュ」 像も。この像の背景には自然の風景があったが、これは画家の描いた自然を再現したものだろうか。

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 館内には様々なスタイルの女性像も配置されていた。これは「うずくまる女 」。

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 「イヴ・フェアファックス

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 「イヴ

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 「瞑想

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 館内を見学中、「青銅時代 」の像が見える隣りの部屋に入ろうとしたら、子供たちの声が聞こえてきた。

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 美術館での移動教室の最中だった。先生のレクチャーを興味深げに聞く子供たち。

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 その横を見慣れない日本人が通ったものだから、多少子供たちの気をそらせてしまったようだ。 でも、こんな幼いころから間近に世界的な彫刻家の作品に接することが出来るなんてうらやましい限りだ。

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 ロダンのコレクションも陳列してあった。これはゴッホの「タンギー爺さん」 。背景に浮世絵がどっさり。ジャポニスムの影響が良くわかる作品だ。

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 作品の端をよく見ると、ロダンのサインを発見できる。

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 最後に、ロダンがカミーユと出会って間もないころに制作した石膏像をご覧頂いて、このシリーズを終了することにしたい。

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「カレーの市民」の群像たちーロダン美術館②

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 ロダンの作品の中でも一際強烈な印象を与える群像が「カレーの市民 」だ。1347年、百年戦争を戦っていた当時、フランスの港町カレーはイギリス軍に占領された。イギリス国王エドワード3世は「市の名士が無条件で人質になるなら、住民の命は助けよう」と提案、6人の市民が自ら名乗り出て市民を救った。

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 1885年、このエピソードをテーマにした彫刻を市がロダンに依頼した。市側は勇ましい英雄的な姿を想定していたのに、出来あがったのは悩み苦しむ6人の像だった。このため市側は受け入れるまでに、発注から10年以上もかかるという紆余曲折があった。

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 しかし、その姿こそが、まさに人間の本質をえぐり出すものとなったように思える。

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 ちなみに、第一試作も館内に陳列されていた。こちらは、それほど大きな苦悩はうかがえないような感じだった。

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 6人の像は個々に分かれても配置されている。個々の像をアップして見ると、それぞれの性格をも含めて彫り上げたであろう表情がうかがわれて興味深い。

 コスターシュ・ド・サンピエール 抑えた表情の中にも滲み出る苦悩が推し量れる。

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 ジャン・ド・フィエンヌ 何かを訴える強い性格がうかがえる。

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 全身像を見ても、両手を広げてアピールしている。

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 アンドリュー・ダンドル 最も困惑し、頭を抱えて 葛藤中だ。

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 ピエール・ド・ヴィッサン ねじって差しだした右手が劇的効果を高めている。

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 まるでシェークスピア劇か何かの一幕みたい。

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 ジャック・ド・ヴィッサン 困惑を振り払おうとしているのか、右手が顔の前に。

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 庭園内にあっても存在感たっぷり。

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 ジャン・デール どっしりと覚悟を決めた男の決意が浮かぶ。

 それぞれに異なった表現の中に群像の面白さがあふれている。

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 庭園を歩いていると、美術学校の女学生たちがスケッチに励んでいる所に出会った。

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 やはり、手の動きが面白いピエール・ド・ヴィッサンの姿に人気が集まっていた。

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 また、別の場所では、像と語り合うかのように1対1で向き合う女学生の姿も印象的だった。

 

 

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「地獄の門」関連の作品群ーロダン美術館①

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 ロダンとカミーユの物語では掲載し切れなかった作品もロダン美術館には多数展示されていた。改めてそれらを紹介しよう。

 まずは「地獄の門」関連の作品から。

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 館に入るとすぐ右側階段踊り場付近に展示されているのが「三つの影 」地獄の門を制作する過程でいくつもの像を産み出して行ったが、 最終的に「門」に採用されたのは考える人、三つの影、ウゴリーノなど、それほど多くはなかった。

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 この三つの影は、アダムの像を、角度を変えて三体並べて一つの作品にしたもの。「門」の最上部に取り付けられた。

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 多分、ロダンの作品の中で一番有名なのが「考える人 」。「門」の三つの影の下に配置されているが、独立した作品としても多数鋳造され、各地で見ることが出来る。右ひじを左の膝に置くという、非常に窮屈な姿勢。自分でやってみるととても不安定 で、深く物事を考えられそうにない。

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 しかし、像にして見ると緊張感が漂って、思索にふける男の姿に見えてしまうから不思議だ。これも作者の知恵?

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 「地獄の門 」を少し詳し目に見てみよう。そもそもこの作品がロダンに発注されたのが1880年。新築される予定のパリ装飾美術館の門扉として国が発注した。ミケランジェロが「天国の門」と称賛したフィレンツェ・サンジョヴァンニ礼拝堂の門(ギベルティ作)を目標として構想が練られた。ダンテの「神曲」に描かれた地獄篇の具体化を構想して制作にかかったが、内容は二転三転し、結局ロダンの生存中は鋳造が実現することはなかった。

 第一号の鋳造は1920年代になってから。現在世界に7つのブロンズ製の門が存在するが、そのうち2つは日本にある(東京・上野の国立西洋美術館、静岡県立美術館)。

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 下からアップして見ると迫力が増す。考える人はこんな形で配置されている。

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 地獄に落ちる人?

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 まさに3D状態で飛び出している。これは多分放蕩息子のようだ。

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 すがりつく女

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 母と子の姿も。

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 逆さまに落ちて行こうとしている。

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 抱きあう男女も。

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 上の部分は「ウゴリーノと息子たち」 。この像は 美術館内にも独立した作品があった。

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 罪を問われて息子たちと共に幽閉されたウゴリーノ。飢餓に飢えて、ついに子供たちの死体を食らうことになり、地獄に落とされる。ダンテ「神曲」のエピソードを再現している。美術館庭園内の池に展示されていた。

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 下の部分は「パオロとフランチェスカ 」。兄の妻だったフランチェスカと弟のパオロが犯した不義の罪で地獄を彷徨っている。これも「神曲」 のエピソードだ。

*なお、ロダン美術館で撮影し切れなかった部分などは静岡県立美術館ロダン館で撮影した写真を使用しています。

 

 

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