プラート・トスカーナ

ルネサンスの恋愛スキャンダル・フィリッポとルクレツィア

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 プラートに来たのはドゥオモをみるためだが、実はもう一つの目的があった。この土地は、あのフィリッポ・リッピとルクレツィア・ブーティの運命の場所だった。

 フィリッポは1406年フィレンツェのアルノ川左岸、カルミネ教会裏手の肉屋の息子として生まれた。両親が早死にしたため僧侶になることを条件に同教会に預けられた。成長するに従って絵の才能が認められ、フィレンツェ祖国の父・老コジモも認める画家となって行く。

 しかし、肉屋のDNAがそうさせるのか、かなりの肉食系男子。すぐに女性に夢中になってしまい、そうなると仕事が手に付かない。ある時、コジモはその姿を見かねて、「ちゃんと仕事をせよ」と、アトリエに閉じ込めてしまった。ところがフィリッポはへこたれない。シーツを細く切って結び合わせてロープを作り、窓から逃げ出して女性のもとに通った。これにはコジモもあきれて、もう拘束するのをやめたという。

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 一方、ルクレツィアは1433年フィレンツェに生まれた。愛くるしく上品な女の子だったという。絹織物の店を共和国広場の片隅に出すつつましい家庭の子供だった。18歳になると妹スピネッタとともにプラートのサンタ・マリア・マルゲリータ女子修道院に入り、尼僧としての生活を始める。

 さあ、舞台はプラートに移った。このS・M・マルゲリータ女子修道院を探すため、ドゥオモ広場の案内所で市内地図をもらって歩き始めた。

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 この日は復活祭明けの休日とあって町周回のマラソン大会があり、ドゥオモ周辺もマラソンランナーがたくさん走っていた。

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 そのコースに沿って行くと、メルカターレ広場という大きな広場に出た。半分は駐車場になっており、その北端から北西に向かう道がマルゲリータ通りという名前が付いている。その辺りだろうと見当をつけて向かってみた。

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 マルゲリータ通りの角の家の屋根に小さな鐘楼らしきものが見えた。聞いてみると、やはりここがマルゲリータ修道院だった建物だという。

 ルクレツィアの修道院入りの翌年、フィリッポはプラート大聖堂の壁画制作のためにプラートにやってくる。本来この仕事はフラ・アンジェリコに依頼されたのだが、フラは多忙を理由に断り、フィリッポにお鉢が回ってきたというわけだ。ただ、すぐに2人の恋が始まったわけではない。

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 大聖堂の「聖ヨハネの生涯」壁画に取り掛かっていた彼に、よりによってマルゲリータ修道院長から聖母子像制作の依頼が舞い込んだのだ。いたずらな運命の歯車が回り始めてしまった。当然修道院に向かったフィリッポは、ルクレツィアと出会う。フィリッポ50歳、ルクレツィア23歳の時だった。

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 それからほどなくして、1456年5月1日がやってくる。この日は前回紹介したとおりプラート大聖堂に保管されている聖母の腰帯の祭りの日だ。日ごろ厳しい戒律の下で生活する修道女たちにとっても、年に数回しかない外出許可の出る日。

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 この日を待っていたフィリッポは、ルクレツィアを大聖堂左となりにある自らの工房に連れ込んでしまった。僧侶と尼僧、公の許可のない同棲生活が始まった。そして翌年、2人の間に愛しの長男が生まれる。後のフィリピーノ・リッピだ。修道院の関係者たちは、この逃亡事件を公にせずに、修道院に戻るよう説得を続けていた。これにほだされたのか、ルクレツィアは駆け落ちの3年後た一旦修道院に戻った。しかし、1年も過ぎた頃、我が子が気がかりだったのか、再びフィリッポの許へ。

 そんな時、1461年5月、フィレンツェ政庁に僧侶と修道女の駆け落ちを告発する手紙が舞い込んだ。もう、秘密にはしておけなくなった。本来は宗教裁判となるところだが、コジモのとりなしで、特例として還俗・結婚が許されたという。

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 スキャンダルではあったが、この恋愛事件は美術史上大きな遺産を残した。その第一がこの絵だ。「聖母子と二天使」は1465年の制作。晩年に手掛けた、フィリッポの聖母子像の中でも最高傑作と言われる。聖母はルクレツィア、キリストはフィリピーノをモデルとしたといわれる。

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 優美で高い気品に溢れる雰囲気の中にも柔らかい母性の親しみを感じさせる聖母の表情は、ルクレツィアというモデルなしには完成しなかったのではないだろうか。ちょうどこの年はプラート大聖堂の壁画が完成し、大仕事が一段落した年。ようやく肩の荷が下りて、最愛の妻と子を聖母子の姿に託して描き上げた渾身の作だ。

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 また、息子フィリピーノはその後ボッティチェッリの弟子となり、画家として大成する。父が見て育ったカルミネ教会ブランカッチ礼拝堂の壁画を最終的に完成させたのもこのフィリピーノだった。

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 修道院跡の向かいに建物がある。フィリッポの死後画家となったフィリッピーノは、母ルクレツィアが波瀾の青春時代を過ごした思い出の地プラートに母の家を購入した。その建物がここにあった(今は別の建物になっている)。

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 その建物跡に碑が掲げられている。「フィリピーノ、天使の庭に咲く 花のような聖なるあなたの姿を 何度ガラス越しに垣間見たことでしょう・・・」

19世紀の詩人ダンヌツィオの詩が刻まれていた。

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 また、同じ建物の窓の下には、ここにフィリピーノの壁画があったが空襲で壊されたことが記されている。

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 少し、街の風景も眺めてみよう。こんな素晴らしい城がある。神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世による13世紀の城。「皇帝の城」と呼ばれる。同皇帝がプーリアに造った世界遺産のモンテ城を連想させる。

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 サンガッロの代表的な建築であるカルチェリ教会。ミサ中で中には入れなかった。

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 市立美術館。先ほどの壊されたフィリピーノの壁画は修復されてここに保管されているらしいが、時間がなくて見ることが出来なかった。

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 ドッグレースが行われたらしく、表彰式が城の近くであった。

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 キャンペーンガールらしき女性も。

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 超派手派手なタクシーも。プラートはなかなか捨てがたい街だった。

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プラートのドゥオモでサロメに出会う

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 復活祭の翌日、好天に誘われてプラートまで足を伸ばした。フィレンツェの北に位置する小さな町で、電車で20分ほどで到着してしまう。町内に2つの駅があるが、ドゥオモに近いのはチェントラーレ駅ではなくプラート・セッラリオ駅。フィレンツェ駅の窓口で「セッラリオ往復」と切符を頼んだら、駅の係員が「ああ、ドゥオモに行くんだね」と話しかけてきた。街に詳しい人間になったような気がしてちょっといい気分。

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 駅に着くとまっすぐ伸びるマグノルフィ通りを3分も歩くともうドゥオモ広場についてしまう。13世紀建設のドゥオモは白と緑の2色の大理石を横縞模様に配した大胆なデザイン。この町の近くの山で採掘される大理石だ。今はかなり色あせた感じになっているが、修復すればきれいな模様に戻るだろう。高い鐘楼と左右非対称のファザードが特徴的だ。

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 目立つのは向かって右にある「聖なる腰帯の説教壇」。腰帯とは、聖母マリアが昇天した際、それを疑った使徒トーマスにマリア自身が天からこれを与えたと伝えられるもの。それを12世紀にこの町のミケーレ・ダゴマーリという商人がエルサレムから持ち帰ったとされている。その腰帯はドゥオモ内に保管されているが、このバルコニーは、広場の信者たちに説教をする場所だ。

 キリスト教に関する聖遺物は、ヨーロッパを歩いているとあちこちで見聞することになる。キリスト教徒でもなく聖書も完読していない身としてはかなり眉唾風にも思える物がいろいろあるけれども・・・・。

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 側面一杯にある浮き彫りはドナテッロの「踊る子供たち」。本物は付属美術館に保管されている。

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 正面入り口上部にあるのはアンドレア・デッラ・ロッビアの彩色陶板「聖母と聖ラウレンティウス、聖ステファノ」。

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 主祭壇の壁面に描かれているのはフィリッポ・リッピが12年の歳月を費やして完成した「聖ステファノと洗礼者ヨハネの生涯」の連作。ただ、この場所にはロープが張られて立ち入り禁止となっていたのでネットから画像を拝借した。最も有名なのが「ヘロデの宴」。時のイスラエル王ヘロデの宴の席でサロメが舞いを踊り、その褒美に洗礼者ヨハネの首を求めるという、あの場面だ。フィリッポはこの1枚の絵の中に3つの場面を描き込んだ。

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 画面中央には、サロメの踊り。華やかさ、妖しさ、残酷さ。サロメの衣装の襞の複雑な流れは実に魅力的だ。また、サロメの憂いを帯びた表情も忘れ難い。この絵の制作には弟子としてボッティチェッリも参加していたことは確実とみられる。そういえばヴィーナスの誕生の線のタッチや表情などは、フィリッポから彼に引き継がれて行ったのだろうと容易に想像できるものがある。

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 複写なので画面が荒れてしまったが、こちらは左側に描かれたヨハネの首をもらいうける場面。

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 そして右側ではヨハネの首を母ヘロデアに捧げる場面。素人としては教会の主祭壇にこんな凄惨な場面を描いていいのかなあと思うけど・・・。絵としては素晴らしい。

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 こちらはヨハネの少年時代の光景。これも3つの場面が描かれる。右側中ほどの、ヨハネ少年がひざまずいて合掌しているのは、天の声を聞いている。左では岩山も上から人々に祝福を与えて説教するところ。

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 そして、右下では、天の声に従って苦行の道に入るべく、両親に別れを告げるヨハネを、母エリザベツは心を込めて肩を抱いている。父ザカリヤも背後からじっと見守る。親子の別離の瞬間を見事に劇的に表現している。全体の中の一部分ではあるけれども、親子の情愛が濃密に滲み出ているような気がしてとても好きな絵になってしまった。

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 この場所が主祭壇。近くでじっくりと見られなかったのが心残りだった。

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 右側の礼拝堂などには入ることが出来た。

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 多分これもフィリッポの作品だと思うが、真偽のほどは不明。でも美しい絵だ。

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 こちらはちょっと時代を溯った作品のようだ。

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 そんな訳で、ドゥオモはフィリッポ・リッピ好きにはたまらない空間になっていた。

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