イスタンブール・トルコ

「インフェルノ」下 ラングドン教授の行きついた場所は?ーヴェネツィア、イスタンブール編

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 「馬の首を断ち、盲人の骨を奪った不実なヴェネツィアの総督」を探して、ラングドン教授と女医シエナはヴェネツィアに到着した。

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 水上ボートで大運河を走っていると、ある教会の壁に「LUCIA」の文字が。

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 ここはサン・ジェレミア・エ・ルチア教会。自らの目をくりぬかれた聖女(サンタ)・ルチアの骨がここに祀られている。ルチアはシチリアのシラクーザで殉教したが、その遺骨がヴェネツィアまで運ばれたものだ。

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 教授はヴェネツィアの中心・サンマルコ聖堂へ。そのファザードを4頭の馬が 飾っている。

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 堂内に本物があり、それはコンスタンチノープルから運ばれたものであることを知る。

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 堂内は黄金の壁画で装飾されて、まばゆいばかりだ。

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 馬をよく見ると、首に巻かれた首輪は、頭部が切断された跡を隠すためであることが明らかになる。

 サンタ・ルチアと馬の秘密が判明した。では誰がそれを行ったのか?調査の結果浮かび上がったのは、エンリコ・ダンドロ。十字軍を率いてコンスタンチノープルを陥落させた勇者だ。「黄金の色をした聖なる英知のムセイオンの中でひざまずき・・・」と、のヒントが提示される。

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 「ムセイオン」とは宮殿のこと。ならば、華麗な建物・ドゥカーレ宮殿にいるのか? しかし、ダンドロはこの宮殿にはいなかった。実に彼の墓はコンスタンチノープルにあったのだ。

 そうした解明と平行して、狂信的な科学者が、世界の人類を3分の1にしてしまうというウイルスをどこかに仕掛けたことが判明する。その仕掛け場所がダンドロの墓と密接な関係がありそうなことが分かってくる。

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 教授は一路コンスタンチノープル、つまり現在のイスタンブールに飛ぶ。ダンドロの墓はイスタンブールで最も有名なアヤソフィアにあることが分かった。

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 アヤソフィアはイスタンブールの中心にそびえ立っていた。

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 キリスト教の聖堂からイスラム教のモスクに変貌した壮大な内部空間。

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 2階にある「請願」と名付けられたキリストの壁画。

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 その真下にダンドロの墓はあった。墓に耳を当てると水音が聞こえてくる。水はどこに流れて行くのか?地下に宮殿があるという。それはアヤソフィアのすぐ近く。

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 そこは巨大な水槽だったが、まるで宮殿。

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 その奥にメドゥーサの首が。怪物はこれだ!

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 人類の大量死をもたらすかもしれないウイルスはここに隠されているのか。

 だが、時すでに遅し!ウイルスは拡散を始めてしまっていた。人類は、そしてラングドンはどうなるのか?

 あとは本をお読みください。

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思いがけぬプレゼント “イスタンブール遊覧飛行”

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 これまで何度も触れてきたように、イスタンブール滞在中は全く青空を見ることが出来なかった。ところが、予定外の日に思いがけず晴れ渡った街に出会った。それはローマからの帰り道。イスタンブールでのトランジットだったが、イスタンブール空港は旧市街やボスポラス海峡のずっと西側にあるので、そこに直接到着すれば海峡を見ることは出来ない。また、同空港から日本への便は夜なので、イスタンブールのパノラマは見られないと思い込んでいた。

 ところが、飛行機は空港を眼下に見ながらも、降下せずに旧市街に向かって進んで行く。そしてボスポラス海峡に沿うように北上して旋回し、空港に戻ってくるという、まるで遊覧飛行のようなコースを飛んでくれた。これが通常のコースなのか、その日が特別だったのかはわからないが、私としては極上のプレゼントをもらったような時間だった。

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 右側の出っ張った半島のような部分が旧市街だ。対岸はもうアジアの陸地。

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 ボスポラス海峡が横に延びてアジアとヨーロッパを分けているのが良くわかる。2つの大陸を分かつ海だ。

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 霞んでいるが、中央にボスポラス大橋が架かっているのがわかる。

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 さらに進むと第2大橋=ファティーフ・スルタン・メフメット大橋が見えてくる。

 1988年のこの建設の際、橋げたの高さを巡って旧ソ連とアメリカの双方からトルコに圧力がかかった。アメリカはソ連の大型船の通行を制限しようと、極力高さを低くすることを求め、ソ連はその逆を主張した。ソ連にとって、この海峡は黒海から地中海に進出するための唯一の海の道だったからだ。

 東西冷戦は、翌年1989年のベルリンの壁崩壊とともに終了したが、ここは激しい潮流の関係で原子力潜水艦でさえ浮上しなければ航行できないという、現在でもきわめて重要な戦略上のキーポイントであり続けている。

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 飛行機は黒海の見える海峡北端付近まで行って、西に旋回を始めた。海峡クルーズの観光船はこの付近まで運行しているようだ。

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 はるかなトルコを眺めているうちに、村上春樹のトルコを語った言葉が思い出された。

 「僕はトルコという国に対して強い興味を抱くようになった。

 僕を引き付けたのは そこにあった空気の質のようなものではなかったかと思う。

 肌触りも 匂いも 色も 何もかもが

 僕がそれまで吸ったどのような空気とも違っていたのだ」

 (「雨天炎天ーギリシャトルコ辺境紀行」)

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 そんな どこにもない、そこだけにある空気感を、イスタンブールは強烈に発散していた。

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 「東洋と西洋のはざまで、3つの海に囲まれた比類なき都市。住民がいてスラムがあり、路地が曲がりくねった迷路のように走る、起伏に富んだ都市」

 (ネディム・ギュルセル「最後の路面電車」)

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 第2大橋の真上に来た。現在この付近に地下鉄建設工事が進められているという。

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 沢木耕太郎の「深夜特急」には、こんな印象深い文章があった。

 「旅は人生に似ている。以前私がそんな言葉を耳にしたら、書いた人物を軽蔑しただろう。少なくともこれまでの私だったら、旅を人生になぞらえるような物言いには、滑稽さしか感じなかったはずだ。

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 しかし今、私もまた、旅は人生に似ているという気がし始めている。多分、本当に旅は人生に似ているのだ。どちらも何かを失うことなしに、前へ進むことは出来ないから」。

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 大きく旋回した飛行機は、金角湾に架かる3つの橋のうち最も奥にあるハリハッチ橋まで南下してきた。この道路は、ボスポラス大橋を経由してアジア側につながるイスタンブールの大動脈になっている。もう、空港はすぐそこだ。

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 そして、空港に到着した。後は飛行機を乗り換えて日本に向かうだけだ。

思いがけない遊覧飛行をプレゼントしてくれたトルコ空港に感謝。また、異文化の不思議世界を垣間見せてくれたイスタンブールに感謝して、この旅行記を終えよう。

 そして、最後までお読みいただいた読者の皆様、本当に有難うございました。

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ガラタ塔から見下ろすイスタンブールのブルーファンタジー

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 夕暮れ時のガラタ塔からの眺めは、優しく青い気体に包まれたファンタジーの世界だった。

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 イスタンブールのアジア側から戻って、新市街にあるガラタ塔に昇った。

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 ガラタ塔は高さ67m。灯台として使われていたものを、その地区への居住を許されていたジェノヴァ人が14世紀に監視塔として改造した。エレベーターで8階まで行くとベリーダンスショーも見られるレストランがある。そこから階段を上れば展望所だ。

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 この塔からはすぐ向かいの旧市街はもちろん、アジア側も見渡すことが出来る。鉛色の空が次第に青味を帯び、たそがれを連れてくる。

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 旧市街は栄光と衰退の歴史を刻んだ世界史の舞台。その面影を伝えるトプカプ宮殿に明かりが灯る。

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 世界に類のない都市のフォルムを浮かび上がらせるモスクのミナレットは、信ずる神の交代を象徴する記念塔として時代の王たちが築いてきたものに他ならない。

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 街灯の薄明かり。闇が詩のように降ってくる。

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 2006年ノーベル文学賞を受賞したトルコの文学者オルハン・パムクは著書「イスタンブール」でこう語る。

 私は子供のころから、雪の降るのを待ち焦がれていた

 外に出て雪の中で遊ぶためではない

 雪の下の街が より美しくみえるからだ。

 早く暗くなる夕暮れを

 北風に震える裸の木々を

 黒いコートと上着をを着て薄暗い道を家路につく人々を

 眺めるのが好きだった。

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 ガラタ橋の向こう、もう見慣れたものになったあのモスクが光を発し始めた。

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 「金角湾には暗い光がポツリポツリ見える

 それに対して、イスタンブールの丘の上にはいくつもの首飾りが

 純白の華奢な首にかけられている

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 それは夜モスクのドームに灯され、四連の輝きを放って

 金の常夜灯のように輝いている」

 建築の巨匠ル・コルビジェは、モスクのミナレットを首飾りに例えた。

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 闇に沈んで行くボスポラス海峡を越えて、アジア側の照明も手を伸ばせば触れそうな近さで感じることが出来る。

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 すっかり青い闇に包まれたトプカプ宮殿のオレンジの明かりは、崇高な祈りにも似た静けさの中にあった。

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 アジア、新市街、旧市街・・・。深く異なる三つの街を併せ持つこの都市は、ビザンチン、コンスタンティノープル、イスタンブールと三度名称を変えてきた。

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 それは、取りも直さず三つの侵略によって成立してきたことを意味している。そして、異なった文明の衝突が、たぐいまれな新しい文化をも生み出してきた。この街が次の時代には私たちにどんなサプライズを準備しているのだろうか。

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 イスタンブールの最後の夜。

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 夜は時に、人々に対して回顧と展望の遥かな時間を提供してくれることがある。

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ハイダルパシャ駅・オリエント急行とアガサ・クリスティ

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 連絡船を下りてアジア側の街カドキョイに着いた。旧市街に比べると新しい街で、港前広場から賑やかな通りが広がっていた。

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 この表通りにはモダンなカフェやショップが並ぶが、今回は時間もないので目的地に直行する。

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 港を挟んで向かい側に建つ堂々とした建物が目的地のハイダルパシャ駅だ。6階建ての鉄道駅で、完成は1908年。ドイツのウイルヘルム2世がバグダッド鉄道敷設の権利を獲得した見返りとして建設された。

 当時のドイツは東方への進出を夢見ており、ベルリン、ビザンティン、バグダッドの3Bを結ぶ鉄道建設計画を進めていた。逆から見れば、アジアの人たちはこの鉄道に乗って、はるか東方からヨーロッパを目指す貴重な路線となる。そのアジア側の終着駅がハイダルパシャ駅になるわけだ。

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 一方、ヨーロッパ側の旧市街では、パリ、ロンドンへの陸の旅を可能とするオリエント急行が、1883年10月に運行を開始していた。始発駅はシルケジ駅。1923年にオスマン帝国が滅亡し、トルコ共和国が誕生すると、東西の交流が一層活発になって行った。

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 そんな1928年、ある一人の女流作家がイスタンブールへの旅に出発する。

 彼女は友人宅でのパーティで偶然オリエントの話を聞いた。興味をそそられた彼女だったが、船旅が苦手なため、気乗りはしなかった。「オリエントに行くには船しかないんでしょう?」「そんなことないですよ。汽車が走っていますよ」「本当?」。

 彼女は数日後、オリエント急行の車中の人となった。その人の名はアガサ・クリスティ。

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 アガサは同年、軍人の夫と離婚していた。未知の旅に心機一転を図ろうとしていたのかもしれない。旅はイスタンブールに2泊しただけでなく、アジア側のハイダルパシャ駅からベイルート、バグダッドまで足を伸ばしている。

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 その当時のハイダルパシャ駅は活発な東西の交流を反映して混沌とさえ言えるほどの活況を呈していた。彼女のこんな言葉が残っている。「ハイダルパシャ駅ほど精神病院に近い所は他に知らないわ」。今では差別用語になってしまう物の言い方が、当時の様子をよく表わしていると言えそうだ。

 この駅構内のステンドグラスも彼女は見ていたに違いない。

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 こうした見聞を基に後に創作されたのが、あの名作「オリエント急行殺人事件」だった。作品の冒頭はエルキュール・ポアロがシリア発の列車でハイダルパシャ駅に着く。ここから連絡船でガラタ橋まで行き、ヨーロッパ側のシルケジ駅からオリエント急行に乗って行く。海峡を渡る時は「冬のボスポラス海峡は荒れていて、船で越すのは大変だった」と記している。確かに・・。

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 彼女はその後何度もイスタンブールを訪れ、新市街のベラホテルを定宿にしていた。1929年の訪問の際には考古学者マックス・マローワンと出会い翌年に再婚している。彼女にとってイスタンブールは公私ともに忘れられない運命の地となった。

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 繁栄を誇ったオリエント急行も、間もなく衰退の運命が待っていた。第二次世界大戦以後急速に飛行機が普及すると、豪華でロマンティックな旅ではあったが、イスタンブールまで4日もかかる列車に比べて、飛行機なら数時間。遠距離旅行の主役は完全に飛行機に奪われてしまった。イスタンブールからパリへの定期便の最終列車は1977年のことだった。

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 現在ではトルコ国内の交通は圧倒的にバスが多く、ハイダルパシャ駅も閑散としていた。でも、窓口のステンドグラスの風格はさすがという感じのものだった。

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 駅の外に出ると、花嫁姿の女性とすれ違った。

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 「コングラッチュレーション!」と声をかけたが、あまり反応がない。しばらく見ていたら、実は雑誌のグラビア写真を撮るためのロケのようだった。道理で反応が鈍かったわけだ。

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 駅前広場にはアタチュルク大統領がこの駅を訪問した時の写真パネルが掲示されていた。まさに鉄道全盛期の盛況がうかがわれる光景だ。日付は1929年8月6日。ちょうどアガサがトルコ旅行の際に再婚相手と出会った年だった。

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 ところで、オリエント急行に初めて乗った日本人は誰だったのだろうか?

森鴎外とされている。彼のドイツ日記には1888年9月28日にドイツーウイーン間を乗車したと記載されている。

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 旧市街側のシルケジ駅は工事中で、構内レストランにはオリエント急行の映画のパネルなどがあると聞いていたが、たまたま休みになっていた。残念!

気が付いたら、さきほどアクセス数がちょうど30万回を突破しました。これも皆様のおかげです。有難うございました!

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ボスポラス海峡・ナイチンゲールを英国で2番目に有名な女性にした出来事

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 「海峡の潮流は全く速い河のようである。風でもある日は白い波が牙をむくほどだ」(塩野七生「海の都の物語」)

 「町の中を流れているこの水は、アムステルダムやヴェネツィアの運河、あるいはまたパリやローマを2つに分けている川などとは比較出来ない。なぜなら、ここには強い潮流があり、風や波があり、深く暗いからである」(オルハン・パムク)

 ボスポラス海峡。確かにこの海峡は町の中を流れている。しかし、南北約32キロのこの流れは、北の黒海と南のマルマラ海、そしてエーゲ海、地中海を繋ぐ、まぎれもない海なのだ。そしてユーラシアの東西を結ぶ陸の道との交流点でもあった。

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 旧市街のエミノニュ港から連絡船に乗り、ボスポラス海峡を横断してアジア側のカドキョイに行った。

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 船は頻繁に出ているが、どの便も乗船者はかなり多い。この便にも駆け込みで乗ってくる人たちを見かけた。

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 船が港を離れる。正面のモスクが旧市街のスカイラインを彩っている。

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 新旧の2つの街を結ぶガラタ橋も間近に見える。

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 海峡に出た。天候は曇り。ボスポラス大橋が霞んで見える。アジアとヨーロッパとを初めて繋いだ橋だ。1973年完成のこの橋の長さは1074m。当初は世界で第4位の長い橋だった。なお、この海峡は広い所で2・5キロ、狭い所だと700mしか離れていない。

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 大橋完成の15年後、1988年、黒海に近い場所に2番目の橋ファティーフ・スルタン・メフメット大橋が架けられている。

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 旧市街側にトプカプ宮殿を見上げる位置まで船は進んできた。この場所は金角湾、ボスポラス海峡を見下ろす絶好のロケーション。古代ギリシャ時代はここにギリシャ神殿が建ち、アクロポロスと呼ばれる市街が形成されていた。

 その後、コンスタンティヌス1世時代には、営々と築かれた海岸の城壁が金角湾からマルマラ海まで総延長16キロにも及んだ。その城壁を今でも、宮殿のすぐ下にはっきりと見ることが出来る。

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 海峡から新市街を眺める。塩野七生の記述のように、今日も白い波が立っている。

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 海峡の途中で、ブルーモスク(6本)とアヤソフィア(4本)の合計10本のミナレットがきれいに横並びにそろう風景が見られる。アジア側に住んでヨーロッパ側に船で通勤している市民も多いが、彼らはこのような光景を見ながら1日を始め、夕陽に染まるモスクを眺めながら家路につく毎日を送っているわけだ。ちょっと羨ましい。

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 北側には灯台のような建物が現れる。王女の悲しい伝説が残るこの小島の建物は乙女の塔と呼ばれる。灯台だったが、今はレストランになっている。

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 アジア側にベージュの壁と4本の塔を持つセミリエ兵営が見えてくる。19世紀初頭にスルタンが建設した建物。この兵営は1853年に勃発したクリミア戦争時に野戦病院として使われた。そして、この建物はナイチンゲールを一躍世界的に有名にする場所となった。

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 この地図で見ると、中央の水色が黒海。水色部分の真ん中に上からぶら下がるようにはみ出している島のような陸地がクリミア半島だ。

 クリミア戦争は、ロシアとトルコの戦争に英仏軍が参戦して、ロシアを撃退した戦い。ロシアは黒海から地中海へ進出する生命線として、ボスポラス海峡の通行権を奪いたかった。そこで当時衰退していたオスマントルコに戦いを仕掛けた。

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 戦いは激戦となり、1856年の終戦までに両軍の戦死者は20万人を越えたという。従って負傷者はそれを上回る多数となり、トルコ英仏連合軍の野戦病院がトルコ・アジア側のユスキュダルに設営された。それがこの兵営だった。ただ、病院と言っても急造のもので、ベッドもろくになく、負傷兵は床に横たわり、周囲をネズミが走り回るという不潔な環境だった。

 ロンドンタイムズは、負傷兵の扱いがいかにひどいかを報道、これを知った1人の女性は自ら志願し、38人の女性たちを率いて看護活動のために現地を訪れた。その女性がナイチンゲールだった。

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 毎日1千人を越える負傷兵が送りこまれる病院で、ナイチンゲールたちは不眠不休、献身的に看護に当たった。その姿に感動し、夜見回りをするナイチンゲールの影に、涙ながらにキスをして感謝する兵士もいたという。「クリミアの天使」の名称はこうして生まれた。

 彼女の活動は日々の看護だけではなかった。コレラなど伝染病の蔓延する野戦病院では衛生環境の改善が急務であることを、綿密な統計資料を作成して軍上層部に訴えかけ、ついに同病院での兵士の死亡率を40%から2%にまで引き下げることに成功した。

 ナイチンゲールは当時30代前半。若い看護師の活躍は母国にも伝えられ、彼女はあっという間にヴィクトリア王女に次ぐイギリスで2番目に有名な女性になってしまった。

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 余談だが、彼女のフルネーム「フローレンス・ナイチンゲール」は、両親が新婚旅行で訪れたフィレンツェに滞在中に、そこで彼女が誕生したことから名付けられたという(フローレンスはフィレンツェの英語読み)。といっても両親が“出来ちゃった婚”だったわけではなく、新婚旅行が2年間という超長期旅行だったことによるもの。イギリスの上流階級はスケールが違いますねえ。

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 出航から30分、アジア側の港カドキョイに到着した。

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 カドキョイの港から見た2つのモスク。高樹のぶ子は「イスタンブールの闇」にこう書いていた。

「イスタンブールのヨーロッパ側からアジア側に渡る。こうやって、戻るつもりで渡っても、二度と戻ることなしに死を迎えることも、人にはあるのだと思った」。

 旅の中で人生の節目を体験することもある。それが旅なのかもしれない。

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イスタンブールアラカルト・路地ねこからアルジャジーラの女子アナまで

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 イスタンブールには、飼い猫でも野良猫でもない「路地猫」がいる。地域の人たちがお互い了解のもとに猫に餌をあげ、見守っている猫たちだ。

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 地下宮殿近くの道で2匹の猫に出会った。路上をゆったりと散歩中。そこへおじさんが出てきて餌をやろうとする。「お宅の猫ですか?」と聞くと、「イッツ マイ キャッツ」との答え。すると、そこに別のおじさんが顔を出し、「ノー、イッツ アワ キャッツ」と訂正した。

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 この伝統はずっと昔からあるらしい。イスラム教の始祖・ムハンマドのエピソードにこんな話があるという。ある時、ムハンマドが居眠りをしていたら、1匹の猫が彼の着物の裾に包まるようにして一緒にうたた寝を始めた。目覚めたムハンマドは、そのまま起き上がれば猫を起こしてしまう。そこで彼は猫の寝ているほうの着衣の袖をハサミで切り離して、猫の眠りを妨げないよう、腕をそうっと引き抜いたという。

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 そんな、猫との共生の精神が根づいているのだろう。吹雪の路上で餌を与えるお爺さんの姿もあった。

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 猫を呼ぶ時は「ビス ビス」と掛け声をかけると振り向いてくれるようだ。警察官も猫に呼びかけているのを目撃した。

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 旧市街の大通りディワーン・ヨル通りを歩いていると、何度もスカーフを巻いた美人の笑顔に出会った。

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 新式のトラムに大きく女性の姿が描かれているからだ。

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 そんな最新型のトラムと数百年前のモスクとの取り合わせがイスタンブールの魅力だ。

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 また、バスにはボスポラス海峡クルーズのPRが。時間があれば行ってみたかった。

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 街中の交通事情は決して良くない。エミノニュ付近の道路は車の洪水だ。2020年のオリンピック開催地に立候補しており、東京、マドリードと競っているが、最大のネックはこの交通事情だろう。

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 トプカプ宮殿で見かけたイスラムの家族。とても和やかで温かそうな一家だった。

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 シルケジ駅近くにある家。壁一面のイラストはオスマントルコ時代の風景のように見える。

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 イラストと言えば、トラム駅近くにあった看板。アヤソフィアを描いているようだが、なかなか見事。

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 夕食時に食べたキョフテ(羊肉のハンバーグ)。セリム・ウスタという超有名店で、キョフテ以外にはほとんどメニューなしというこだわりぶり。安くてうまいB級グルメといった感じだった。

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 こちらは屋台で売っていたケスターネ・ケバブという小ぶりのケバブ。うまそうだったけど、食べなかったので味は未知数。

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 そしてトルコ名物の伸びるアイス。街で見つけなかったが、空港で売っていた。食べてみたが、まあまあ、味は普通。

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 最後に、ホテルのテレビで見たニュース番組。きれいなアナウンサーだなあ、と思って良く見たら、左下に出ていたテレビ局の名前は「アルジャジーラ」。アルジャジーラといえばイスラム過激派アルカイーダなどのニュースでよく聞く名前で、殺伐としたイメージだったのだが、日常はこんな優しそうな人がニュースを読んでいるんだなあと、妙に納得した瞬間だった。

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“青い”ブルーモスク  イスタンブールに耳を澄ます

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       <夜明け前、青く浮かび上がったブルーモスク>

 イスタンブール滞在3日目。この朝も例によって屋上レストランに行く。前夜は吹雪で視界も悪く残念な状態だったが、この日は雪も止んでいた。ちょっと期待しながらエレベーターに乗った。

 ウエイトレスのお嬢さんとも、もう顔なじみ。「メルハバ(こんにちわ)」。おはようも今晩はも知らないので一日中「メルハバ」で済ましてしまう。

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 外に出てみて驚いた。夜明け直前のブルーモメント。モスクの姿が照明に照らされてすっきりと浮かび上がっている。

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 視界の良さに加えて、モスクの屋根に積もった雪が、その明るさをワンランク上げているように思える。

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 ここの屋上は右のブルーモスクと左のアヤソフィアとをいっぺんに眺められるベストポイントだ。

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 さらに、アヤソフィアの左奥に青く見えるネオンはボスポラス大橋。

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 夜明けに近づくにつれて照明のオレンジっぽい色彩が青っぽく変化して行く。

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 より青さを強調できるようにカメラのセッティングを少し変えた。青い空の背景に青白いドームの屋根。まさにその名通りのブルーモスクが、そこにあった。

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 目を閉じ イスタンブールに耳を澄ます

 そよ風が優しく軽やかに舞う

 遠くに木々の葉の音が聞こえる

 目を閉じ イスタンブールに耳を澄ます

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 目を閉じ イスタンブールに耳を澄ます

 鳥が飛んでいる 空高く 群れになって騒がしく

 漁場では 網を曳く音が聞こえる

 目を閉じ イスタンブールに耳を澄ます

                    オルハン・ヴェリ

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 文明の十字路としてあらゆる異文化を合わせ飲んできた街。洗練と俗悪、美と醜。相反するものが、共に生きながらえる街。

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 そんなカオスの地でも、いやそんな混沌の地だからこそ、このような清浄な瞬間をも、さりげなく目の前に提示してくれるのかも。

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 朝食を終えると、もう照明は消えていた。トプカプ宮殿の丸屋根のむこうには新市街の現代的なビル群がそびえる。

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 何度も足を運んだこのテラスにも雪が積もっている。

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 ボスポラス海峡を臨む方角にはヒッポドロームの塔がちょこんと突き出ていた。

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 ブルーモスクは照明の助けを借りずとも、壮麗さは不変だ。

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 北側のトラムの走る通りを望む。修復中のビルにはイラストが描かれていたのに気付く。

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 アヤソフィアの奥にはアジア側の街並みが広がっている。今日はアジア側にも渡る予定だ。

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イスタンブールは雪、砂漠も蜃気楼もなかった

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           <雪に覆われたイスタンブール>

 夕方、雪が断続的に降る中、エミノミュの港からホテルに向けて歩きだした。

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 港の前に架かる橋はガラタ橋。旧市街と新市街を結ぶもので、1845年に木製の橋が出来た。1902年に2階建ての開閉式橋、さらに1992年に現在の橋が完成した。長さ約400m。

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 旅行前に見たいくつかのパンフレットなどでは、この橋一杯に並んで釣りをする人たちの風景が載っていたが、さすがにこの日の悪天候では、釣り人は少なかった。橋のすぐ先にあるモスクはイエニ・ジャーミー。

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 橋の下にはレストランがずらり。土産物店もあった。近くで名物のサバサンドを売る店もあったが、かなり生臭い臭いが強すぎて今回はパスした。

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 帰りがけ、アンカラ通りを散歩しながらホテルに向かった。途中に見たじゅうたんの店。2階の窓からじゅうたんの模様が見えるようになっていた。

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 アクセサリーの店。トプカプ宮殿に巨大宝石のコレクションがあるように、ジュエリーはどんな宗教信者にも魅力的なのだろう。 

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 そんな高嶺の花ではなく、庶民的な食料品に目が行ってしまう。ロカンタという庶民食堂では総菜などを店先に並べてあり、指差しで注文が出来る。

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 ここでは料理実演中だった。

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 別の店先にはドルチェがずらり。

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 大きな通りに出ると、さすがに人通りが多くなった。雪印がいかにも冬らしい。

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 ホテル近くの横町に入る通りには、星形のイルミネーションが。

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 ホテルに着くと、クリスマスツリーが飾られていた。イスラム教でも観光業だけは脱宗教なのだろう。

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 荷物を部屋に置いて屋上に上ってみた。また雪が降り始めたうえに、風が強い。

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 時折体がよろけるほどの強風も吹く。それで、空中に舞う雪の筋が写真にも写り込んでいる。

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 振り返れば、イスタンブールという地名をはっきりと意識したのは、「飛んでイスタンブール」という歌がヒットした年だったかもしれない。庄野真代のあの歌を紅白歌合戦で聞いたのが1978年。このころはジュディ・オングの「魅せられて」や久保田早紀の「異邦人」などエキゾチックな歌が流行していた。

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 日本人が当たり前に海外に出て行くようになり始めた時代。見知らぬ世界が手の届くかもしれない場所として認知されだしたころだった。

 あの歌に歌われたイスタンブールは、砂漠があり、蜃気楼が発生する不思議な世界。それが軽快なメロディに乗って街に流れていた。

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 だが、こうしてイスタンブールに来てみると、歌の世界とは全く違った吹雪の世界だった。

 庄野真代さん自身もヒットを放った翌々年、1980年の冬にバックパッカーとしてイスタンブールを訪れたという。その時の印象を「イスタンブールでは雪が舞っていた。砂漠や蜃気楼はどこにもなかった」とエッセイに書いている。

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グランドバザールからエジプシャンバザールへ

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 地下宮殿を出て、トラムの走るディワンコル通りを西に歩いて行くと、間もなく右手にグランドバザールがみつかる。正式名称は「カパル・チャルシュ」。単純に「屋根付き市場」というトルコ語だ。

 1461年、メフメット2世がコンスタンティノープルを征服してこの地の皇帝になった後、まず2つの市場をここに造営、それが基となって周囲にいくつもの商館が造られ、それらを繋ぐように店も広がって行ったという。

 東西の文化、物資、人々の交流の中継基地として、当時の世界有数の繁栄を誇った歴史が、このバザールを造り上げたのだろう。

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 広さは東京ドームの3分の2、店舗数約4400、中東の各国にもバザールはあるが、その中でも最大といわれる。

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 陶製のランタンがかわいい。

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 特に色彩の派手さがいかにも中東らしい。

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 あちこちから日本式に言えば「さあ、よってらっしゃい!」的な掛け声が飛び交っていた。

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 バザールの各所にトルコ国旗が目立つ。ここではそれに混じって日本国旗も飾られてあった。そんな中をチャイを配達する人が忙しく歩きまわっていたのが印象的。

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 この日は悪天候、年末のせいもあり、観光客の姿は通常よりかなり少なめだとのこと。

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 西に抜けて屋根のない通りに出た。

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 外はボタン雪に変わっている。

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 道に積もり始めた雪掻きをする店員の姿も。

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 ベヤズット広場に出ると、立派な門がある。これはイスタンブール大学の正門だ。

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 しばらく北に歩くとエジプシャンバザールに着いた。ここは主に香辛料を扱う店が多く、独特の強い香りが市場全体に広がっていた。食欲をそそる香りだ。

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 みるからに辛そうな香辛料群。

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 こちらはグランドバザールと違って観光客は少ない。香辛料の他は日常的な生活用品中心で、庶民的な場所だ。

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 こんな皿の店もあった。イズニックタイルの伝統を継いでいるせいか、デザインも細かい植物模様が多く、バラエティ豊かな感じがする。

 2つのバザールは急ぎ足で通り過ぎただけだったので、いつか今度はゆったりと散策出来たら、と思いながら市場を後にした。

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千年の歳月を経た2つのモスク

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 翌朝、7時きっかりに屋上レストランに直行した。レストランは宿泊客の朝食会場になっており、朝食タイムは午前7時から。特に腹ペコだったわけではない。このレストランがオープンしないことにはその先にある屋上テラスに出られず、モスクと直に対面できないからだ。

 この日のイスタンブールの日の出は7時25分。7時であれば、ぎりぎりライトアップがまだ続いているはず。思惑通り、モスクは朝靄の中に照明を浴びて浮かび上がっていた。

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 テラスに飛び出そうとしたが、ドアが開かない。笑いながらウエイトレスさんがカギを開けてくれた。

 寒い。でも気にならない。改めて正面のブルーモスクを眺める。

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 ゴシック、ルネサンス、バロック。さまざまな様式の教会建築に出会ったが、これは全く似ても似つかない異次元の建物だ。

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 丸い大きな山がいくつも連なる山脈のような景観を囲んで、宇宙を目指すロケットがスタンバイしているといった感覚だ。

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 少し赤みのかかったアヤソフィアが、すぐ近くにそびえる。次第に朝の気配が広がってきた。

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 さあ、朝食を摂ろう。レストランスペースに戻ってよく見ると何とも豪華な料理が待ち構えていた。

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 煮物、サラダ、肉類など広いスペースにどーんと何十種類もの料理が並んでいた。卵料理でもちゃんと茹で卵と目玉焼き、スクランブルエッグまであった。

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 ほとんど高級ホテルには泊まらないので、普通の朝食はパン、コーヒー、ヨーグルト。ハムがあれば万々歳といったレベルなのだが、ここのラインアップは私にとっては感動的でさえあった。(ただ、コーヒーだけはインスタントだったのが残念)

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 食事をしている間に、ライトアップは消えていた。どんより曇ったままなので、ライトがないとモスクも街の風景に埋没してしまったかのようになる。

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 改めてテラスに出る。スルタン・アフメット・ジャーミー(ブルーモスク)にはミナレットと呼ばれる尖塔が6本ある。(この写真では5本にしか見えないが)。ここから礼拝を知らせる呼びかけ=アサーン=が流される。

 アサーンは1日5回。その時間は①夜明け前の黒糸と白糸の見分けのつかない頃②黒糸と白糸の見分けのはっきりする頃③自分の影のない時(太陽が真上に来た時)④自分の影の長さが2倍になった夕刻⑤夜中ーーという。だから礼拝時間は季節によってもかなり違ってくる。

 でも、毎日何の反省もなくだらだらと過ごしてしまっている身としては、せめて1日1回くらい自己反省していればもう少しまともになれたかも、と思ってしまう。

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 ブルーモスクのミナレットに関してはどのガイドブックにも書いてあるエピソードがある。スルタンから「黄金の(アルトゥン)塔を」と要望された設計者は、「6本の(アルトゥ)塔」と聞き間違えてしまったとされる。

 その後が面白い。イスラム教の総本山であるメッカの大モスクも同じ6本のミナレットだったために、スルタンは恐れ多いとして設計者を急遽総本山に派遣し、メッカの塔をもう1本増築させたのだそうだ。その大モスクは1990年代に拡張工事が行われ、さらに2本追加されて現在は9本になっているという。

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 そのスルタンはアフメット1世。スルタン・アフメット・ジャーミーという名称はまさにこの名前から来ている。そして、設計者はメフメット・アー。後ほど登場する名建築家ミマール・シナンの弟子だ。1616年に完成した。

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 一方、アヤ・ソフィアの起源は360年。現在の形に再建されたのが537年。つまり、並んで建つ2つのモスクの間には実に1000年以上もの歳月が横たわっているということにびっくりする。

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 さあ、それではスルタン・アフメット・ジャーミーの見学に出かけよう。この日は木曜日。金曜日は本格的な集団礼拝の日で、礼拝中は見学禁止になるので、今日のうちに見ておいた方が間違いないからだ。

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