イスタンブール・建築と歴史

トプカプ宮殿下・皇帝が見た街の風景

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           <トプカプ宮殿から見た新市街>

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 宮殿敷地の一番奥の方まで進むと、バクダット・キョシュキュという建物がある。17世紀のバグダット攻略を記念して造られた東屋だ。

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 金色の屋根のあるイフタリエと呼ばれる場所は断食明けの食事処で、皇帝たちはここから街を見下ろして優雅な時間を過ごしたという。

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 その手前、スルタンの私室付近で、30代前半と思われる東洋系の女性とすれ違った。アジア人なのかも、と思って声をかけた。ところが、「私はウズベキスタン人」との答えが返ってきた。「ごめんなさい、私は日本人です。ウズベキスタンは遠いですよね」。思わずそう話すと、彼女は首を振って「いいえ、日本の方がずっと遠いですよ」と笑いながら答えた。

 そう、ここはトルコ。この場所から見れば、日本なんて遠い遠い極東の外れの国だっけ。生まれて初めてのウズベキスタン人との会話は、ちょっと気恥ずかしい、でも柔らかい微笑みをもらえた瞬間だった。

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 イフタリエからボスポラス海峡越しに、豪華な装いを凝らした建物が見えた。これがドルマパフチェ宮殿だ。19世紀半ば、1856年に完成した宮殿は、ヴェルサイユ宮殿を思わせるバロック調。この完成により、政治の中枢は400年続いたトプカプ宮殿からドルマパフチェへと移って行く。

 トルコが共和国になった後は大統領官邸としても使われ、初代大統領ケマル・アタチュルクは1938年11月10日、この建物の中のベッドで死を迎えた。

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 旧市街を見れば、3つのモスクが並ぶ光景が間近に展開する。まさにこれがイスタンブール。

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 その一番手前のモスクがイエニ・ジャーミー。

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 遠目のスレイマニエ・ジャーミー付近の塔は、ベヤズット塔。意外に新しく19世紀初めに造られた火の見の塔だそうだ。

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 金角湾を挟んで旧市街から新市街に架かる橋は、手前がガラタ橋。こうして見ると真ん中部分が開閉できる機構になっているのがわかる。その奥はアタチュルク橋。

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 新市街ににょっきりと伸びているのがガラタ塔。今日は絶対あの塔に昇るぞ!

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 一通りの見学を終えて帰りの出口付近にあったタイル画。何となくハレムの雰囲気が漂う絵だった。

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 儀礼の門を出るとプラタナスの林と遠くのミナレットが迎えてくれる。

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 見学を終えたのは昼前の時間帯。見学中はがらんとした感じだったが、これからの観光客があふれんばかりに続いていた。早めに来て正解だったようだ。

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 通りに出ると、スルタン・アフメット・ジャーミー(ブルーモスク)の建物が正面に見えてきた。さあ、次は港に行ってボスポラス海峡を渡ろう。

 

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トプカプ宮殿上・ムハンマドの果てない夢

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 「コンスタンティノープルを開城し、そこをバラの花園に変えよ」。イスラム教の教祖ムハンマドが、こう言い遺してこの世を去ったのは632年のことだった。

 4世紀からずっと東西交易の一大拠点であり華やかな都であり続けたコンスタンティノープルの攻略は、イスラム教徒が何世紀にもわたって抱いてきた果てない夢だった。

 それをかなえたのがメフメット2世。1453年、船を陸越えで金角湾に運ぶという奇襲を使ってビザンティン帝国を滅亡させ、ついに都の征服に成功する。そのメフメット2世がスルタン(皇帝)の住む場所として建築したのがトプカプ宮殿だった。

 ボスポラス海峡側から見上げると、同海峡、金角湾、さらに旧市街を一望できる絶好の場所に建っていることがわかる。

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 ヒッポドロームからアヤソフィアの横を通って最初に見えるのが皇帝の門。今でも警備の兵士が銃を持って立っている。

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 その前にある建物はアフメット3世の泉。

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 門をくぐったが、すぐに宮殿があるわけではない。だだっ広い庭(第一庭園)にプラタナスの木々が高々とそびえている。凍える朝だったので、道はスケートリンクのようにつるつるだ。

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 道路右側のチケット売り場で入場券を買って、国旗のはためく儀礼の門をくぐる。でも、ここを過ぎてもまた広い庭(第二の庭)。70万平米という広大な敷地には、正義の塔という塔以外はほとんど平屋建ての大人しい建物ばかり。来場者を圧倒する豪華さが目立つヨーロッパの宮殿や城に比べると、何とあっさりしていることか。

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 正義の塔の奥にあるハレムに入るには別にもう一度入場券が必要だ。まずはそのハレムに入ってみた。女性たちの部屋は4人の妻たちの部屋や別の女性たちの部屋などが続く。調度品もあまりなく、がらんとした雰囲気。天井が低く暗い場所だった。ここに500人もの女性たちが住み、スルタンの愛を得るための葛藤が繰り広げられた。権力と官能の渦巻く空間だったのだろう。

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 そんな場所で、すっきりとしたドームを見つけた。

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 こちらのドームには果物や植物の絵が描かれていた。

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 天井から伸びる模様つきの線。現代にも通じる斬新なデザインが面白い。

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 室内には装飾品などはないが、それだけに入口の飾りが目立つ。

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 貝を使った(?)扉のキラキラ。

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 そんな中でも、タイルの模様は一際目を引いた。伝統的な植物をモチーフにしたデザイン。

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 一方、ピラミッドを思わせるイラスト風なものも。

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 また、素晴らしいステンドグラスもあった。豪華な花束を連想させる美しいブルーの装飾だ。

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 こちらは、現代風なデザイン。

 ここから、宝物館に回り、86カラットという巨大ダイヤや世界最大のエメラルド、メリナ・マルクーリ主演の映画にもなったトプカプの短剣などを見た。だけど、そこは撮影禁止で写真はなしです。

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 中庭に出た。こうして見てくると、宮殿と言っても、ヴェルサイユやシェーンブルンなどといったヨーロッパの宮殿をイメージすると全く質素だ。なぜなら、オスマントルコはもともと中央アジアから移動してきた遊牧民族の国家。定住しないライフスタイルなので、ゴージャスな建築は必要としなかったという長い伝統がそうさせたのだろう。ただし、それも19世紀になると、すっかり様相は一変し、ヨーロッパ型のドルマパフチェ宮殿の建設になっていくのだが・・・。
 

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ヒッポドローム・アドリア海を渡った4頭の馬

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   <コンスタンティノープルからヴェネツィアに運ばれた4頭の馬>

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 ホテルからトプカプ宮殿に向かう途中、ヒッポドロームを通った。ここは3世紀ローマ時代に造られた大競技場跡。ヒッポドロームという言葉は、今でもイタリア語で競馬場を意味する単語だ。

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 縦500m横117mのU字型競技場があり、戦車競技が行われていた。そういえばローマのナヴォーナ広場も昔の競技場跡だった。八角形の建造物はドイツ・ヴィルヘルム2世から贈られたドイツの泉。

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 ここには3本の柱が立っている。1つはテオドシウス1世がエジプトの神殿から持ち込んだもの。高さは20m。

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 近づいてみると、象形文字が刻まれていた。

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 2つ目は青銅製の蛇の柱。途中で折れていて高さは8m。もともとはギリシャ・デルフォイのアポロン神殿に、ギリシャがペルシャ戦争に勝った記念として建てられたものだ。オリジナルは3匹の蛇が絡み合った形だったという。

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 3つ目の切り石積みのオベリスクは、コンスタンティヌス7世が最初からここに建てたオベリスク。ローマ帝国の新しい都として発足したコンスタンティノープルに、エジプトとギリシャという古代文明の都から持ち込まれた柱が今でも立っているというのが面白い。

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 ただ、今では失われてしまったものもある。その1つが、現在はヴェネツィア・サンマルコ大聖堂に納められている4頭のブロンズの馬。1204年、第4次十字軍がコンスタンティノープルを占領した時、ヴェネツィアはこの広場に飾られていた4頭の馬を戦利品としてアドリア海を越えて自国に持ち帰ってしまった。

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 ただし、この馬たちは元々ギリシャ・キオス島から持ってきたものなので、一方的にヴェネツィアが悪いかどうかは別問題かも。

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 また、同じ時ヴェネツィアは聖天使聖堂にあった「キリストが被った荊の冠」も持ち帰り、フランスに売った。これを買い取ったフランス国王が、その冠を納めるために造らせたのがステンドグラスの美しいサント・シャペルだった。

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 関連のエピソードがもう1つ。ヴェネツィア・サンマルコ大聖堂の外側壁面に飾られているムーア人の彫像もまた、コンスタンティノープルの街に置かれていたものだった。

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 広場からアヤソフィアは目の前。そこを過ぎればトプカプ宮殿に続いて行く。このヒッポドロームで、532年に事件が起こった。重税にあえぐ市民が「ニカ(勝利せよ)」と叫んでアヤソフィアの前身の旧聖堂を始め街中に火を放った。「ニカの反乱」だ。

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 時の皇帝ユスティニアヌス帝は、その勢いに押されて逃げようとしたが、皇妃テオドロは「位を捨てて生き延びるくらいなら、栄誉ある死を選びなさい」と夫に迫った。妻にここまで言われては、男として逃げるわけにはいかない。我に返った皇帝は反撃に出て、ついにクーデターを鎮圧したという。

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 皇妃テオドラとは、あのラヴェンナにモザイク像が残る女丈夫。この皇妃の叱咤激励がなかったら歴史は変わり、皇帝が再建して今に残るあのアヤソフィアもなかったかもしれない。

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 ただ、非武装に近い市民3万人をも死に追い込んだ行動は、為政者としては即失格ですねえ。

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 アヤソフィアを過ぎ、ブルーモスクを一度振り返ってから、トプカプ宮殿に向かおう。

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リュステムパシャ・ジャーミーで幻のイズニックタイルに出会う

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 バザールの後でイスタンブール大学の北にあるスレイマニエ・ジャーミーに行った。その名の通り、スレイマン大帝が建築を命じたモスクで、1557年に完成している。小高い丘にあるので、金角湾を挟んだ新市街側からもよく見える建物だ。

 スレイマン大帝は1520年の即位から46年間もスルタンの座にあり、この時代が帝国の最も栄えた時だった。

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 59m×58mの床面に直径26.5mの円形屋根を戴く大ドームは高さが53mあり、オスマン建築の代表とされる。作者はミマール・シナン。トルコ歴代最高の建築家と言われている。

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 中に入ると、アヤソフィアなどと比べてとても明るいことに気付く。いくつもの円がリズミックに繰り返される天井。その間に249もの窓が付けられ、ガラスを通して堂内に柔らかな光が差し込んでくるためだ。

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 この日は吹雪状態だったため、残念ながら輝くイメージはなかったが、晴れていれば格別な明るさを実感できたことだろう。

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 天候のせいもあって見学客は少なかったが、じゅうたんに座って熱心にガイドブックと室内とを見比べるように見つめる女性の姿が印象的だった。

 なお、このモスクで気付いたことは、中央の広いスペースに入って祈りを捧げるのは男性だけ。女性たちは一番奥の仕切りのある狭いスペースに固まってひそやかに祈っていた。男女が公の場では別々になるというしきたりがあるようだ。

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 スレイマン大帝は46年間の在位中13回もの遠征を実行し版図を拡大していった。1529年にはハプスブルクの都ウイーンを包囲し、あわやウイーン征服寸前まで攻め立てたが、冬将軍の到来で引き返さざるを得なかった。しかし、西欧社会に与えた衝撃は非常に大きなものだった。

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 当時、イスタンブールの人口は40万人。対してパリでさえ20万人、ローマは10万人と、イスタンブールが最大の都市となっていた。その背景には、大帝が信教の自由を保障したことが大きかった。イスラム国家であったにもかかわらず、住民のうちイスラム教徒は57%だけ。キリスト教徒33%、ユダヤ教徒10%など、異教徒もほぼ拮抗するほどの比率を占めていた。

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 なお、ウイーン攻撃は何度も実行された。1683年にも第二次ウイーン包囲があったが、ポーランド軍の救援によってウイーン征服の野望は実現しなかった。その撤退の時残して行ったコーヒー豆が、後の西欧へのコーヒー普及の源となったのは有名な話だ。

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 スレイマニエ・ジャーミーから金角湾に向かって坂を下りて行くとリュステムパシャ・ジャーミーがある。エジプシャン・バザール近くの問屋街の中にある階段を上るとジャーミーに到着する。

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 ここもミマール・シナンの設計で1561年に完成した。リュステムパシャはスレイマン大帝の下で宰相まで務めた権力者。ただ、大帝に比べれば富も多くはない。それで、シナンは敷地の1階を商店に開放するというアイデアを考えた。これによって店の賃料からモスクの維持費がひねり出されたという。

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 ちょうど礼拝が始まった所だった。邪魔にならないように最後方に座って礼拝の終わるのを待った。

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 ここの最大の見どころはタイルの美しさ。室内全体にイズニックタイルが張り巡らされている。特に、16世紀後半の数10年間だけ使われ、今はその製法が幻となって再現不可能だという鮮やかな赤色が、ここでははっきりと見ることが出来る。

 高城のぶ子の小説「イスタンブールの闇」で、主人公の陶芸家は、このイズニックタイルの赤についてこう考える。「オスマンの精神史では、赤は愛を表わす色だそうですが、この朱赤がオスマンの愛だとすると、それは何と日本の愛の概念からは程遠い、激しく強く、死の匂いや悪の陰りさえ帯びた、ふてぶてしく峻烈な愛でしょう」

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 そんな激しい赤は、床に敷かれたじゅうたんの色にも反映されていた。

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 また、青地に白い花模様のデザイン。

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 咲き乱れる草花の模様など、惚れ惚れする色彩のタイルがあふれていた。

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 ミマール・シナンは400ともいわれる膨大な建築をトルコ各地に残したイスラム世界随一の建築家だ。それは生涯をかけて偉大な歴史建築物アヤソフィアに追い付き追い越せという悲願と共にあった。

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 シナンの建築は、中央に大きなドームを置き周囲を半円蓋で固めて行く手法。円蓋の傾斜はピラミッド型になって行き、外側に伸びるミナレットが高さのアクセントを強調して、ゴシックの尖塔をも連想させる。そんないくつものドームと尖塔が建ち並ぶ世界でも例を見ないイスタンブールのスカイラインの景観は、まさに彼によって形成されたと言って過言ではない。

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地下宮殿から見つかったメドューサの首2つ

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 イスタンブールに戻ろう。アヤソフィアを出て地下宮殿を目指した。イエレバタン通りに入って間もなく道の左側に小さな表示があったが、目立たず通り過ぎるところだった。

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 階段を下りて行くと、地下に巨大な柱の立つ空間が見えた。

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 ここに人が住んでいたわけではなく、地下の貯水池だった所だ。

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 しかし、高さ9m、幅65m、奥行き143mというけた外れの広さに336本の大理石柱が林立する様は、まさに宮殿の名称に見合う雰囲気を漂わせていた。

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 個別の柱もよく見るといろいろな模様が刻まれている。これは涙の紋様が施されていた。古い神殿などの柱を活用して造られているせいだ。

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 4世紀にコンスタンティヌス帝が建設、6世紀にユスティニアヌス帝が拡大した。

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 ただ、オスマン帝国がこの地を支配した時は、100年ほどここの存在が知られていなかったという。

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 1番奥まで行くと、異様なものがみつかる。メドゥーサの首だ。

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 1985年に修復が施された際、柱の土台として使われていたメドゥーサの首が2つ見つかった。

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 このように、逆さまと横向きの2種類だ。メドゥーサは、ギリシャ神話に登場する女性。元々美しい娘で、特に髪の美しさを誇っていた。だが、それが度を越して女神アテナと美を競うという態度に出たことから、怒りを買ってしまった。罰として自慢の髪が蛇になり、彼女を見た者は石に変えられてしまうという、ゴルゴン3姉妹の末娘にされてしまった。

 ウイーンに行った時、クリムトらが起こした新しい芸術運動の拠点「分離派会館」のファザードに、ゴルゴン3姉妹の姿が刻まれていたのを思い出した。

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 さて、なぜそのメドゥーサが横や逆さまになっているのか?いろんな説がある。①彼女の恐ろしい目を避けるため②ローマ帝国はギリシャ文化を軽蔑していた③ギリシャ征服の意味を込めた・・・。だが、実際はただ単に、柱の高さ調節のため、というのが本当かも。

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 オレンジ系の照明を使っているため、柔らかい光が水面に反射して幻想的な色彩空間を形成している。

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 あらら、水中には魚が泳いでいた。

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 007シリーズの第1弾、ショーン・コネリーがジェームス・ボンドを務めた「ロシアより愛を込めて」では、この場所でロケを行ったという。だいぶ昔に観たんだけど、忘れてしまったなあ。

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 出入り口付近には売店やカフェもあった。コンサートも開かれるとのこと。夏場などはひんやりするこのスペースで一休みするのもよいのかもしれない。ただ、冬場はねえ。

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ラヴェンナに残るビザンティン美術の粋

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 ビザンティンのモザイクを語る上で欠かすことの出来ない場所がある。イタリアのエミリア・ロマーニャ州のラヴェンナだ。豊かな穀倉地帯、パルマの生ハムなど美食の州として知られるこの土地に、はるかかなたコンスタンティノープルの皇帝たちなどの輝かしいモザイク画が今も残っている。今回はそこに寄り道をしてみよう。

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 402年西ローマ帝国のホノリウス帝がミラノからラヴェンナに都を移して、ここは初めて歴史の脚光を浴びることになった。しかし、西ローマ帝国は476年に滅亡。その後支配権を握っていたゴート族を追放したのがビザンティン帝国だった。

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 コンスタンティノープルから派遣されたマクシミアヌス大司教の下で、547年、街の中心部にサン・ヴィターレ聖堂が建設された。あのアヤソフィア完成の10年後のことだ。

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 中に入ると、内陣に皇帝と皇妃を描いたモザイク画が迫力満点で目に飛び込んでくる。1つは皇帝ユスティニアヌスのモザイク。中央で冠をかぶっているのがその人だ。当時のビザンティン帝国第一の権力者。また、右から3番目の茶色の衣の人物が、皇帝からラヴェンナに派遣されたマクシミアヌス大司教。本来なら皇帝の横に並ぶほどの高位ではないのだが、現地での力を誇示しているかのようだ。金地に白を多用してすっきりとした構成の絵になっている。

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 また、もう1枚は皇妃テオドラのモザイク。こちらはやや左寄り冠の女性だ。テオドラは元々熊使いの娘で、場末の芝居小屋の女優だった。だが、皇帝に見染められてあっという間に皇妃の座に就いてしまった。美貌の人だったといい、この絵でもくっきりとした目鼻立ちはその面影を映しているのだろう。その上彼女は人一倍強い意志の持ち主だったらしい。「ニカの乱」の際のエピソードがそれを物語っているが、その話はヒッポドロームの回に説明しよう。

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 内陣上方には左右に天使らを従えたキリスト。若々しい姿だ。右端の司教が持つのは、このサン・ヴィターレ聖堂のひな型だ。

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 同聖堂のすぐ隣に簡素な家が見える。こちらはガッラ・プラチディアの廟。ラヴェンナの基礎を造ったホノリウス帝の妹の廟になっている。この日は地元の生徒たちが見学に来ていた。

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 外観からは想像できないような豪華なモザイク画がここにある。中央南側壁面には白衣の天使や福音史家たちなどの絵が一杯に描かれる。

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 聖ラウレンティウスの殉教場面。足元で燃える炎が迫力満点。また、満天の星のような深い青と金色の模様の組み合わせが見事だ。

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 さらにもう1つ、サンタッポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂に立ち寄った。鉄道駅の近くなので行きやすい。ここの壁面にもずらりと人物像が並んでいる。

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 右側の壁は26人の殉教者たちがキリストの許に向かう場面が描かれている。壮観だ。

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 そして左側壁面は聖母子を挟んで並ぶ22人の聖女たち。

 以前に書いたように、ビザンティンの本拠地であるコンスタンティノープルは、イコノクラスム(聖像破壊運動)によって10世紀以前のモザイク画などは壊滅状態となってしまったため、後世に残されたこの地のモザイク画は最も貴重なビザンティン美術となっている。イタリアの幹線から少し外れているため、ちょっと行きにくい感じの場所だが、モザイク好きな人なら是非お勧めの穴場だと思う。

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アヤソフィア下 蘇った黄金のモザイク

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   <黄金の背景に浮かび上がるキリスト、聖母、ヨハネ>

 1階の見学を終えて2階に向かう。

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 2階へ上る通路は階段ではなく、まるで古代ローマの街道のような石畳のスロープになっていた。不揃いの石が人の靴底ですり減ってつるつるだ。

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 2階から広い聖堂の空間を見下ろしていると、500年以上前のある日の光景を想像せずにはいられなかった。

 1453年5月29日。ビザンティン帝国最後の日だ。衰退の一途をたどっていた同帝国は、オスマン帝国のスルタン、メフメット2世の猛攻に遭っていた。金角湾に鉄の鎖を張って軍船の侵入を防いでいたが、オスマン軍は湾の北側、ガラタ地区に木材を敷き詰めて軌道を造り軍船を陸越しに運んで金角湾に到達させた。また、600キロの石弾を巨大大砲で発砲した。

 1100年もの間栄華を誇ったビザンティン帝国は風前の灯となった。コンスタンティノープルの人々はだれからともなくこのアヤソフィアに集まり、奇跡を願って最後の祈りを捧げていた。 しかし、間もなく分厚い壁を打ち砕いて、オスマンの大群はこの聖堂に突入してきたのだった。 その日を境に、ビザンティン帝国は滅亡し、この聖堂はキリスト教の総主教座の空間からイスラムの拠点へと変貌していった。

 広々とした1階の空間を見下ろしているうちに、最後の夜にここにこだましたであろうビザンティン市民の祈りと嘆きの声が、地の底から湧いてくるような錯覚を覚えてしまった。

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 コンスタンティノープル攻略という大勝利を収めたメフメット2世も、決して有頂天に喜んでいたわけではなかったという。激しい戦いはオスマン軍にも傷跡を残した。勝利の夜、メフメット2世はコンスタンティノープルの大地に出来た血だまりの海に三日月と星が映っているのを見た。「祖国のために流された血を永遠に忘れないために」と、この情景を象徴化した赤地に三日月と星というデザインを国の旗に決めたという。

 祈りもむなしく崩れ落ちたコンスタンティノープルの民、勝利の夜に血の月を見た征服者。戦争は勝敗にかかわらずすべての人に傷跡を残さずにはおかないものだ。

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 2階のハイライト、素晴らしいモザイク画を見よう。最初に出会うのが「ディシス(請願)」と題された壁画だ。最後の審判の際に審判を下すキリストに対して左の聖母マリアと右の洗礼者ヨハネが、人々への寛大な裁きを願っている場面という。下半分は失われてしまったが、坐像だったと思われる。 


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 キリストに向けて願いを伝えるマリア。

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 しっかりと目を見開くキリスト。

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 そして、祈るように願うヨハネ。モザイク画はもともと単純に強さを表わすテーマが多かったが、この時期になると帝国の衰退を反映してか、哀しみを秘めた感情表現を見てとれる。

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 南側にも金色のモザイク画が2点残されている。こちらは中央にキリストを配し、両脇に皇帝夫妻が控えている。

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 左に皇帝コンスタンティノス9世が金貨をキリストに献上するシーン。ただ、この皇帝の顔は作り替えられている。その理由は、右に描かれた皇妃ゾエの意向が隠されていた。

 ゾエは皇帝コンスタンティヌス8世の娘。8世は貴族のロマノスを娘の夫とし、皇帝に取り立てた。そしてこのころロマノスとゾエを描いたこのモザイク画も造られた。だが、政略結婚で、ロマノスはゾエをないがしろにした。これを恨んだゾエはロマノスを暗殺、若い愛人と結婚した。だが、この愛人も死亡。3度目の結婚をしてやっと安定した地位を確保したゾエは、にっくきロマノスの顔を削り落とし、現在の夫コンスタンティヌス9世の顔にすげ替えたのだという。

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 右側のゾエ。9世の顔に入れ替えた時に、自分の顔も直している。当時彼女が64歳。でもどうみてもそんな年配には見えない。確かに彼女は若々しい女性だったといわれるが、それにしてもかなりの“修正”があったことは想像に難くない。

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 そんな生々しい背景を持つ2つの像に囲まれたキリストさんは、少々迷惑そうな顔をしているような・・・。

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 もう1つ、モザイク画がある。こちらは聖母子を中心にして、別の皇帝夫妻が囲んでいる。

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 左が皇帝ヨハネス2世。先ほどの画と同様に献上用の金貨の袋を持っている。

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 左に皇妃エイレーネー。これも献上用の書状を持つ。

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 中央の聖母子。こちらの方はスキャンダラスなエピソードは伝わっていないせいか、母子とも平和な表情に見える。

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 2階の高い窓から南側をのぞくと、アヤソフィアの半円ドームの向こうにブルーモスクの大きな姿が垣間見えた。

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 各所にぶら下がっている照明。近づいてみると先がつぼまった変わった形をしていた。

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 1階に戻って出口に向かう途中、子供が柱に向かって何かしていた。柱にくぼみが出来ており、ここに親指を入れたまま4本の指で円を描けたら願い事がかなうという「聖母マリアの手形」なのだそうだ。皆がこれをするのですっかりすり減っていた。ちなみに私は、もう1度この場所に戻れるよう願って指を回転させました。

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アヤソフィア上 歴史に翻弄された建築

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 ブルーモスクを出ると、外は吹雪になっていた。予定ではエミノニュの港から船に乗ってボスポラス海峡を横断し、アジア側に行くつもりだったが、この天気では海峡の景色なんか全く見えそうにない。そこで、急遽この日は建物中心の見学に切り替えた。

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 そうなれば、目指すのはアヤソフィアだ。ブルーモスクからすぐだし、この建物を見ずしてイスタンブールに来たとは言えない。

 この建築はイスタンブールの歴史の中で波瀾の運命に翻弄されてきた。最初に建てられたのは360年。コンスタンティヌス大帝がビザンティンに首都を移してから30年後に、この大建築がギリシャ正教の総本山として建設された。大ドームの直径は31m。屋根はギリシャ・ロードス島の軽いレンガが使われている。名前もギリシャ語でハギヤ・ソフィア=聖なる英知=と名付けられた。

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 何度かの火災にあって当時の姿は失われたが、537年にユスティニアヌス1世が現在の姿に再建した。ローマのサン・ピエトロ大聖堂が現在の姿に建てられる1000年以上も前のことだ。ビザンティン建築の最高峰と言われる。

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 キリスト教のゴシックの大聖堂はこの倍以上の高さの教会がいくつもあるが、ここアヤソフィア独特の重厚感は他に類を見ない。

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 現在は博物館だが、偶像崇拝を排するイスラム教のモスクとなっていた建物だけに装飾は目立たないが、唯一目につくのは高い壁面に張り付けられた円盤だ。昔からあったわけではなく、1859年、ムスターファ・イッゼトによって書かれたアラビア文字の書の作品として飾られている。それぞれイスラム教世界最大という直径7・5mの作品だ。

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 こちらの円盤の文字は「ムハンマド」と書かれているという。

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 対して向かって右側のものは「アッラー」。円盤の左上に何やら絵が描かれている。調べてみた。

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 何とこれはコンスタンティノープル時代に描かれた大天使ガブリエルの絵だとわかった。例の聖母マリアに受胎告知をした大天使だ。全体を見ることは出来ないが、ワシのような大きな翼を持っている。これほど立派な翼は見たことがないかも、と思ったが、そうそう、レオナルド・ダ・ヴィンチの受胎告知の絵でも立派な羽根の大天使が描かれていたっけ。

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 大天使の斜め左上には主役の聖母子が描かれている。金色の背景にマントをはおった聖母マリアが貴婦人のように座り、膝に幼いキリストを抱えている。キリストの左手は上を向き母の手のぬくもりにかすかに触れているようだ。9世紀半ばに制作された美しい聖母子の風景。

 8世紀前半、ビザンティン帝国ではイコノクラスム(偶像破壊運動)の嵐が吹き荒れた。偶像崇拝を禁止するレオン3世の命で、帝国中の聖像が破壊された。このため、それ以前の美術品はほとんど残っていない。わずかにその威光が行きわたらなかったイタリア・ラヴェンナなど遠隔地に残るのみだ。アヤソフィアでも同様で、こうしたイコノクラスムが落ち着いた9世紀以降のモザイクのみが残っているというわけだ。

 1453年にはオスマン帝国がこの地を征服し、アヤソフィアはモスクに転用されることになった。ただ、オスマンのイスラムは偶像崇拝を禁じているものの、破壊することはしなかった。壁面を漆喰で覆うという手法でキリスト教の像たちを隠した。また、キリスト教徒を迫害することもなかった。このおかげで、1930年代になってアヤソフィアが博物館として生まれ変わった時、その漆喰が取り除かれ、今のように貴重なモザイク画が再び姿を表わしたのだった。

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 中央右横に階段のようなものがある。ミンバルと呼ばれる説教壇だ。キリスト教の教会にも説教壇はあるが、こちらは使い方がちょっと違う。説教者は階段の途中で説教を行う。階段の一番上はムハンマドだけに許された場所なのだという。

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 真横から見ると、側面には細かな細工が施されているのがわかる。

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 ミンバルの上にもアラビア文字が飾られている。

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 メッカの方角を示すミフラーブ。ブルーモスクの時は中央にあったが、ここは最初はモスクではなかったために、中央から少しずれている。

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 ミフラーブの上にあるステンドグラスの色彩が美しい。

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 ドームの天井を見上げると、中央に太陽が描かれ、その周囲にアラビア文字。また、翼を広げた大天使が四方に配置されている。キリスト教とイスラム教とが同じ空間に同居するという、非常に珍しい場面だ。

 次回は2階に上がって素晴らしいモザイク画を見てみよう。

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スルタン・アフメット・ジャーミー(ブルーモスク)を見る

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        <ブルーモスクの天井を見上げる>

 朝食を終えてスルタン・アフメット・ジャーミー(ブルーモスク)に向かった。思った以上に坂の多い街。少し迷いながら歩いていると、雪が降り始めた。

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 到着した。下から見上げるモスクはホテルの屋上から見下ろしていた時より数倍の威圧感がある。

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 正面入口にはアラビア文字。元々この文字はアラビア地域だけのものだったが、イスラム教の布教と共にイスラム世界全体に拡大した。トルコでは1928年の文字改革でこの文字の使用をやめラテン文字を採用したが、モスクなどには至る所にアラビア文字が残っている。また、“書道”の世界で独自の発展を遂げている。

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 広い中庭に必ず泉亭という水場が設けられている。ここでしっかりと手を洗い身を清めて中に入るしきたりだ。日本の神社に似ている。

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 靴を脱ぐように注意されて、ビニール袋に靴を入れて中に入った。1616年完成のこのモスクの正式名称は、皇帝スルタン・アフメット1世が建立したことから命名された。設計はメフメット・アー。後に紹介するオスマン随一の建築家ミマール・シナンの弟子にあたる。内部の装飾が青を基調に塗り替えられたことがあり、その時のイメージで「ブルーモスク」とも呼ばれるが、今はオリジナルに近い色に戻されている。

 ピカソの青の時代、フェルメールの青、イヴ・クラインのクラインブルーなど、青好きの私としては、青の時代を見てみたかったなあ、という気持ちも捨てきれないが、やはりオリジナルを保存するのが本筋だろう。

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 そこで、画像をちょっと調整して、“ブルーモスク”の雰囲気を出してみた。(トップの画像も調整したものです)

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 梁の部分に見えるのは草花の模様だけ。

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 そこを含めて室内にはどこにも人や動物の描写は見当たらない。偶像崇拝を禁じたイスラム教らしい空間だ。

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 照明は人間の背丈よりわずかだけ上の位置に、天井から紐でぶら下げられている。これは星を表わしているという。

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 こうして低い位置で見ると、奥の窓の青い光と連動して「夜空に輝く星」のイメージが湧いてくる。

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 ここにもアラビア文字の書が掲げてあった。

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 天井中心のデザインも実はアラビア文字だ。

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 ライトが当たる梁部分の装飾が美しい。

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 太い円柱は「象の足」と呼ばれる。直径5mもある。

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 その柱が森のように連なる。バティカンのサン・ピエトロ大聖堂にもベルニーニの「バルダッキーノ」の周囲に太い4本の柱があったが、重い天井を支える建築上の理由以外にも象徴的な意味を持っているのかもしれない。

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 室内空間の一番奥、中心にあったのがミフラーブと言われるもの。聖地メッカのある方角を示している。信者はこの方角に向かって祈りを捧げる。カトリックの教会ならここが主祭壇で、絵画や聖人像などが飾られるのだろうが、偶像崇拝禁止のイスラム教は味もそっけもない。金色の装飾だけが他の場所とは違っていたが・・・。

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 歳末の雪模様の朝一で入ったので、ずっと静かな空間だったが、少し経つと団体さんなどが入ってきてうるさくなった。一大名所なだけに、あんなに静かな時間などはほとんどないらしい。さあ、次の場所へ移動しよう。

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