パリ 街の風景

ルーブル美術館中庭の夜

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 今回宿泊したホテルから、ルーブルは目の前。朝晩の行き帰りにも中庭がメインルートになっていた。美しいスペースだが、特に観光客が少なくなる夜の風景は見ごたえのあるものだった。

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 オペラ座側からの入口門をくぐると、ドーム型の出口に中庭のピラミッドが見えてくる。これがライトアップされると、まさにこれ自体が美術作品のように浮かび上がる。

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 中庭に入ると、建物に沿って街灯が並ぶ。

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 ピラミッド。イオ・ミン・ペイの設計したガラスのピラミッドは、1989年の完成当時賛否両論が飛び交ったが、今はすっかり馴染んできている。

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 ピラミッドと後方の建物ドゥノン翼のファザードとが見えるアングルは、まさに現代と中世の融合。

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 ドゥノン翼のファザードには女神像が刻まれている。

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 ピラミッドの後方にはカルーゼル凱旋門が見える。

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 この広場にあるカルーゼル凱旋門の上には4頭の馬の像が見えるが、一時ここにはヴェネツィア・サンマルコ聖堂にある4頭の馬が飾られていた。ナポレオンがヴェネツィアを占領した時に略奪したためだ。しかしその後戻されて現在に至っている。

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 ルーブル宮は10世紀の建築だ。

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 ドゥノン翼の屋根とピラミッドの先端が交わるような角度だと、生き物がこちらを見つめているようにも見えてくる瞬間がある。

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 ピラミッドの前、凱旋門と向き合うように建つ騎馬像はだれ?

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 この後で夕食に行ったレストランで「あれはだれ?」と聞いてみると、まだ若いウエイトレスさんが「ルイ14世よ」と即答してくれた。

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 こんな豪華な風景の庭だが、普通に路線バスの通り道になっている。モンパルナスからオペラ座に繋がる83番バスなど、外の見えない地下鉄よりもずっと楽しい観光気分になれること請け合いだ。チケットはどちらも共通で使える。

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 ホテルに帰って部屋の窓を開けると、うっすらとライトアップされたルーブル宮が夜の闇に浮かび上がって見えた。




































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コメルス・サンタンドレ小路とバルテュスの不思議な絵

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 パリ6区、サンジェルマン・デ・プレ教会からサンジェルマン大通りを東に歩いて行くと、地下鉄オデオン駅の手前左側にアーケードの小路がある。

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 入口を過ぎると屋根がなくなって、青空の見える道になっている。最初に気付くのは足元。石畳の道なのだが、とにかく歩きにくい。

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 それもそのはず、敷石があちこち壊れてガタガタ状態。でも、それだけ趣きはグンと深くなる。

 ここに来た目的は2つ。1つは画家バルテュスが描いた「サンタンドレ小路」という絵の、そのままのアングルを見つけること。フランスの画家バルテュスは、少女のかなり刺激的な少女の絵を描いたことや、日本人の女性と結婚したことでも有名だが(ちょうど今、東京都美術館でバルテュス展を開催中)、その中でも、変わった印象の絵があった。

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 「サンタンドレ小路」。すぐ先に突き当たりの家があって、広場とも道ともつかぬ空間に7人(?)の人と1匹の犬がいる。だれも言葉を発せず、誰もが曰くありげ。奇妙な静けさの中で時間が止まっている。全く現実の世界とは思えない。何でもないけど何か気になるというこの絵が、ちゃんと住所を持っていることが不思議。それならその住所に行ってみようと考えた。幸いその小路はちゃんとパリの地図に載っていた。

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 絵のコピーを見ながら小路を歩く。アーケードをくぐって小路の端から端まで歩いてみたが、それらしいアングルが見つからない。2回往復してみて気付いた。正面が突き当たりになっているということは、吹き抜けになっているメインの通りではなく、小路に入ってくるさらに小さい道からのアングルじゃないのか。

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 それで、この小路に入る横道を探してみると、」サンジェルマン大通り側からほど近い場所に短い横道を見つけた。ここに入って小路側を見てみると、確かに見覚えのある感じ。絵と同様に突き当たり側に通っている道がわずかに左側に傾いている。この場所だ!

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 たまたま右側のレストランが日避けよけテントを張り出しているため、余計に見つけにくかったことが分かった。

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 改めて眺めてみると、正面の建物は完璧に絵そのものの構造。見つけました!

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 この小路に来た目的はもう1つ。1686年創業の世界最古の文学カフェ「ル・プロコープ」。これは簡単。どのガイドブックにも大体載っている。

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 入り口は反対側だが、こちらの小路側には当時の人間たちの肖像画などが掲げられていい雰囲気。この店には革命を志向したヴォルテール、マラーらが出入りした。

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 また、8番地には、彼らの機関誌「人民の友」を発行した拠点があった。マラーは1793年、入浴中に殺されてしまったが、その場面を描いたダヴィッドの絵に、ベルギー国立美術館で出会ったことを思い出した。

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 夜、モンパルナスからの帰り道、もう1度小路を通った。左右の建物は18世紀中期の建築。つまり、フランス革命前夜の雰囲気をそのまま伝える小路になっている。

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 テントを張り出したレストランの照明がいい感じ。

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 斜めの道の突き当たりの店はショコラティエの店。チョコのハイヒールが見事だ。

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 路地には、時間、記憶、歴史がとどまっている。そこを通る時、湛えられた時間が私たちを包み、古い歌が蘇る。

























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埋め尽くすーゲンズブールの家、芸術橋の南京錠

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 宿泊したホテル・ヴォルテールの裏通り、ほんの数分のところに壁中が落書きで埋め尽くされた家があった。よく見ると落書きの中心にある写真の主はセルジュ・ゲンズブール。20世紀後半のフランスで絶大な人気を誇った歌手の家だった。

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 彼は1958年に歌手デビュー。「リラの門の切符売り」という地下鉄の改札係を歌った歌で一躍スターとなった。恋多き人生で、ブルジット・バルドーと交際、

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 その後ジェーン・バーキンと結婚して娘をもうけたが、彼女は女優になったシャルロット・ゲンズブールだ。数々のヒット曲と華やかな女性関係と相まって、今でも人気は衰えていないという。

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 日本でも大ヒットしたフランス・ギャルの「恋するシャンソン人形」は彼が提供した楽曲だ。

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 落書きは多種多様。フランス語はわからないが、現地の人によると、

 「私のセルジュ、貴方への愛を貫くために、私は死ぬまで処女でいるわ」「天国の君の生活は薔薇色だが、君のいないこの世は最低だ」「神は愛煙家」など、さまざまな言葉が書き連ねられていて、しかも日々更新されているという。

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 彼は1991年死去。この家は娘のシャルロットの名義になっているという。

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 また、ホテルの斜め東側にポン・デザール(芸術橋)がある。1804年にナポレオンによって造られた、セーヌ川にかかる最初の鉄橋だった。

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 ここは車両の通らない歩行者専用橋になっていて、市民はゆったりと散歩気分でこの橋を渡り、晴れた日にはテイクアウトの食料品を持ちこんで時間を過ごすこともある。

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 すぐ左岸の向かいには国立美術学校があり、学生たちの姿も多い。

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 ただ、何といっても目立つのが、橋に架けられた南京錠。

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 橋の側面は金色の南京錠で覆い尽くされている。

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 恋人たちがお互いの名前を書いた錠を架けることで結ばれるという伝説があるようで、ものすごい数の錠が。

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 それがまた名物になってしまい、南京錠をバックに記念写真を撮る人たちも多い。

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 この女性はかなり凝ったポーズで自分撮りに精を出していた。

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 芸術橋の向かいはカルーゼル橋。ここがルーブル美術館の入り口になる。

 

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パリの隠れ家ホテルーオテル・デュ・ケ・ヴォルテール

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 今回のパリ滞在は、運よく希望のホテルを取ることが出来た。デュ・ケ・ヴォルテール。パリ7区、セーヌ川沿いに建ち、幾多の文化人が滞在した歴史的なホテルだ。

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 まず景色が素晴らしい。4階の部屋からは目の前のルーブル宮が正面に見える。

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 真下にはブキニスト。古本の露店がセーヌ河岸にずらりと並ぶ。けっこうレアな本が見つかったりする。美術関係の本も多かった。

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 もちろんその背後にはセーヌ川がゆったりと流れている。

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 西側にはロワイヤル橋越しにグラン・パレの屋根が見え、

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 東側には、サン・ジャック塔のそびえる姿を見つけることが出来る。

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 また、コンコルド広場の大観覧車も見えた。

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 素晴らしいのは、見晴らしだけではない。 玄関ロビーにはここに滞在した何人もの著名な文化人の写真が飾られていた。ワーグナーは1861年から1862年にかけてここに宿泊し、「ニュールンベルグのマイスタージンガー」を作曲。

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 ボードレールは、ここで「悪の華」を書き上げた。

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 このほか、オスカー・ワイルドも宿泊したし、シベリウス、ヘミングウエイの滞在歴もあるという。

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 玄関に、そのプレートが掲げられている。下の金属製プレートは「悪の華」の一節が抜粋されている。

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 ロビーにはこんなタペストリーも飾られ、すっかり文化的な雰囲気に満たされた。閑散期だったことから、1泊100ユーロもしないリーズナブルな金額でネット予約できた。

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 このホテルは1780年、修道院として建設されたが、1851年にホテルに改装された。本来なら4つ星でもよいくらいなのに、たまたま改装した時室内にトイレのない部屋がいくつかあったために2つ星にとどめられた。改装しようとしたところ、常連客から「今のままの雰囲気を大事にして欲しい」といわれてそのままになっているという。

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 ルーブルへは向かいにあるカルーゼル橋を渡ればすぐ。オルセー美術館にも歩いて数分だ。サンジェルマン・デ・プレへも徒歩圏内で、毎朝デ・プレへ散歩がてら歩いて行き、カフェで朝食を摂るのが楽しみの1つだった。

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パリ カフェ巡り下 モンパルナス

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 モンパルナスは、物価の高くなったモンマルトルから移ってきた外国人芸術家たちの集う場所として1910年代から栄えた。彼らはエコール・ド・パリの画家としてそれぞれ独自の才能を開花させていく。中でも、カフェ・ロトンド、ル・ドームなどは才気あふれた若い芸術家たちが集まる店として毎晩賑わった。

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 ラ・ロトンド

 1903年にオープンした老舗。これまでもモディリアニの物語で何度も登場したこの店。彼の他、スーチンがここでカフェ・クレームを飲みながらフランス語の勉強をしていたり、

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 フジタが派手な赤い上着をはおった格好で出入りしたり、などの記録が残されている。

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 室内のあちこちにモディリアニ作品のコピーが飾られ、オレンジ色の色調で統一された落ち着いた空間が、人を誘う。

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 クロワッサンは朝食セットの一部。おいしかった。

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 ピカソ、シャガールらも当時はよく店に顔を出したという。文化人の中でも特に画家が多かった店として知られる。

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 ル・ドーム

 ロトンドの向かいの交差点に位置するのが、ル・ドーム。ヨーロッパ系の外国人芸術家の出入りが多かったロトンドに比べて、こちらはアメリカ人が主流を占めた。

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 ヘミングウエイ、ヘンリー・ミラー、フィッツジラルド 達が席を占めた。

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 夜のライトに照らされた玄関の上の持ち送りの装飾が美しい。

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 写真家マン・レイが、モデルのキキを連れて訪れることもあった。今は高級なレストランになっている。

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 ラ・クーポール

1927年創業の名店。

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 ある日、まだ無名だった写真家ロバート・キャパが、金髪、青い目のモデルを探して街を歩いていると、その条件にぴったりの女性が、クーポールのテラス席に座っていた。モデルを頼むことで知り合いとなった彼女は、キャパに1人の友人を紹介した。その女性が、実はゲルダ・タローだった。

 当時キャパはアンドレ・フリードマンという本名で仕事をしていたが、ゲルダは彼に「ロバート。キャパ」という洗練された名前に変えて作品を売り出すというマネージメントで、キャパを社会に 強力に送り出して行った。キャパの代表作となる「崩れ落ちる兵士」を撮影したスペイン内戦にも2人は一緒に従軍し、固いきずなで結ばれる。後に2人とも戦地で命を落とすことになるが、彼らのドラマチックな生涯の出発点が、クーポールのテラスだったとも言えそうだ。

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 現在はパリで最も人気のあるブラッスリーとなっている。

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 ル・セレクト

 ロトンドの1軒おいて隣りにある。ヘミングウエイの「日はまた昇る」で、主人公の行きつけの店として登場している。

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 ゴタールの映画「勝手にしやがれ」でもこの店が使われていた。ヘミングウエイだけでなく、ジャン・コクトーらも常連だった。

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 ラ・クローズリー・デ・リラ

 こちらは詩人たち中心の店だった。アポリネール、マックス・ジャコブなどが夜ごと集まって文学談議を戦わせた。

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パリ カフェ巡り上 サン・ジャルマン・デ・プレ周辺

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 パリには20世紀初頭以来カフェ文化が栄えた。その2大スポットがサン・ジャルマン・デ・プレとモンパルナス。実際に入った店は少ないので、外観を中心に紹介しよう。今回は、サン・ジェルマン・デ・プレ地区。

 同名の地下鉄を下りて外に出ると、デプレ教会の塔がそびえて見える。この地区の華やかな時代は1950年代。実存主義の父サルトルがカフェ・ド・フロールにやってきたことから始まる。第2次世界大戦が続き灯火管制で街を出歩くのが不自由になったころ、それまでモンパルナスに出かけていた人々が近場のデプレに繰り出した。特にカフェ・ド・フロール、ドゥ・マゴなどは知識人のたまり場になって行った。

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 カフェ・ド・フロール

 パリに着いて最初に入ったカフェがこの店だった。

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 サルトルとボーヴォワールは毎朝9時にはここにやってきて昼まで原稿を書き、一旦出かけてから、午後にはまた戻って友人と会ったりしていたという。

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 この朝も常連と思われる年配の人たちが“定席”に陣取ってカフェを楽しんだり、新聞を読んだりして時間を過ごしていた。

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 テーブルには、クロスの替わりに昔日の店の写真が印刷されたペーパーが。

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 クロム・ムッシュ、カフェ・クレームでの朝食。

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 トイレが2階だったので上に上がると、ここはまだ無人状態。サルトルたちはこのスペースを原稿書きの場所にしていたという。「月と6ペンス」もここで書かれたのだろうか。

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 こんなユーモラスな人形があった。

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 無造作に張られたポスター。

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 数日後。夜に通りがかったフロール。テラスもにぎわい、いかにもパリらしい雰囲気だった。

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 カフェ・プロコップ

 1686年創業の、世界最古の文学カフェといわれる店。17世紀のパリ、この店で提供された黒い液体は、その芳醇な香りと共にパリっ子をとりこにした。革命期の人々の肖像画がウインドーに飾られている。

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 哲学者ヴォルテール、思想家マラー、さらにナポレオンやベンジャミン・フランクリンらもこの店に通った。店内にはナポレオンの帽子が飾られている。

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 カフェ・ドゥ・マゴ

 ここもサルトルとボーヴォワールの店として知られている。以前は毛織物のブティックだったが1855年からカフェに衣替えした。ブティック時代の看板に2つの中国人形(ドゥ・マゴ)が使われていたため、その名前を店名にした。 残念ながらちょうど店内の改装工事中で、中に入れなかった。

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 カフェ・ボナパルト

 ドゥ・マゴの向かい側にある。この店と同じアパルトマンにサルトルが住んでいたことがあるという。すっかり文化人カフェとして有名になった店に比べて観光客が少なく手ごろな店の感じ。

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 ブラッスリー・リップ 

 こちらはヘミングウエイの通った店として有名。彼は1921年にパリに来て、1926年まで滞在した。20年代の活気に満ちたパリの生活の様子を綴った「移動祝祭日」には、ヘミングウエイが原稿料を得るとすぐこの店に行き、ソーセージ、ジャガイモ、ビールを頼んで飲食したことなどが書かれている。夜のサンジェルマン通りに浮かび上がるリップの店から、あのたくましいヘミングウエイの声が聞こえてきそうだ。

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ラ・ロトンドでーモディリアニとジャンヌの物語⑦

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 晩秋の午後、ラ・ロトンドでカフェ・クレームを飲みながら外を通る人たちを眺めている。

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 ちょうどすぐ横にモディリアニの描いた絵が架かっている。ジャンヌ・エビュテルヌ。

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 そう、まっすぐ前を見つめる、強い意志を感じさせる、しかもちゃんと黒い眼のある肖像画だ。これは、モディリアニと出会った直後の姿だろうか。清楚で混じり気のない純粋さで人を信じることの出来た年代のようにも見える。

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 モディリアニと恋に落ち、愛する人に見つめられて自らの姿を描かれることの喜び。印象深いあの髪を結んだ写真のように、人を拒絶するような厳しさはない。強く、しかし受容の心を感じさせる視線でもある。

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 やがてモディリアニの子を宿し、生み、さらに2番目の子を授かろうとしながら、夫の死のわずか2日後に自ら生命を断つという悲劇的な生涯の終わりを迎えた。出会いから死までわずか数年の間のことだった。

 画学校にも通っていたジャンヌ。その才能も決して侮れぬものだったはずなのに、選んだのは生きて画家の道を歩むことではなく、愛する夫のいなくなったこの世との決別だった。

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 このロトンドは、モンマルトルから移ってきた芸術家の拠点として栄えた。モディリアニはここで客の似顔絵を描き、フジタはこの店のカウンターでモデルを踊らせたこともあった。芸術家たちとその卵たちが集い、描き、語り、騒いで時を過ごした。そんな時間がこの空間に凝縮し、今も残り香が香っているかのようだ。向かいには、ヘミングウエイらアメリカ系の文化人たちが集まったル・ドームが見える。

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 犬を連れた、もう80歳にもなろうかという老婦人が、すんなりと窓際の席に座る。若いきりっとしたウエイターはさも当然のように「マダーム」と、オーダーを問いかける。日常の風景だろうが、それが、パリ、ロトンドだからこそ、しっくりと収まっている。

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 「だれとだれが初めて出会ったのは、この店だった」などというエピソードがいくつも転がっている店。

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 11月の平日の午後でも、次々と人が行き来するエトランゼの空間。そういえば、モディリアニ、フジタ、ピカソ、シャガール・・・。その多くが他国から移り住んだ異邦人たちだ。そこに刺激と感性の飛躍を夢見て集まった気鋭の若者たちが、新たな文化を創り上げるための熟成の場として、この店もまた機能していたことだろう。

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 今もそんな場となっているかどうかは知らない。ただ、何か赤いビロードに囲まれた空間でほろ苦いカフェを口にする時、一種の興奮状態に人を誘う作用があることは確かだろう。

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 モディリアニとジャンヌの短かった生涯をトレースしてパリの街を歩いてきた。その悲劇性ゆえに、二人の物語は画商たちとその関係者によって、より一層ドラマチックに飾り立てられ、彼の絵の値段を吊り上げる手段として利用されたことは否めない。

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 だが、そうした側面を踏まえたうえでも、二人の辿った20世紀初頭のストーリーは、それから100年を経過してもなお、やはり忘れ難く、深い印象を我々の胸に刻み込んでやまない。(終)

 

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ジャンヌが命を絶った場所へーモディリアニとジャンヌの物語⑥

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 ジャンヌの最期の場所へ行ってみた。モンパルナスから地下鉄を乗り継いでプラス・モンシュ駅で下車。目指す先はジャンヌの実家のあったアミヨ通り8番地だ。

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 ムフタール通りというレストランなどが連なる賑やかな通りを過ぎると、もう完全な住宅街。

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 トゥルネロ通りとぶつかる形で、その短い通りはあった。

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 偶数番号が並ぶ向かって右側の家並みの中で、1軒だけ大きなアパルトマンがある。それが8番地。6階建て(フランス式で5階建)で、近年リニューアルされたのか、白い壁面がまぶしいくらいだ。

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 わずかに日が傾きかけたころ、空が明るくなった。パリ滞在中ずっと見ることの出来なかった青空が、広がり始めている。モディリアニとジャンヌの出会った学校や、暮らし始めたアパルトマンを訪ねた時も、いつも厚い雲が垂れこめていた。それが、あまりに短い生涯を終えた、ジャンヌの終焉の場所に着いた時だけ青空が広がるなんて、何という皮肉・・・。

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 地面は石畳。

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 ジャンヌの実家の6階の窓から飛び降りたのだから、固い石畳に直撃したジャンヌは、一瞬で命を奪われたに違いない。1920年1月26日午前5時。まだ夜明けには早い暗がりの冬のパリ。ひたすら最愛の画家の成功を夢見続けた21歳の女性が、はかなくも短い人生をあっけなく終えてしまった。

 体内には8か月の赤子が宿っていたというのに・・・。

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 落下地点と思われる場所で6階を見上げていると、1人のおばあさんが 声をかけてきた。「ジャポネーゼ?」「はい、実は・・・」「こっちよ、いらっしゃい」。何だかわからないけど、とにかく「ついてらっしゃい」と、手招きして歩いて行く。私の知らない碑か何かがあるのだろうか、と付いて行った。

 おばあさん、角を曲がると家を指差した。「ほ~ら、あそこよ」。

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 指の先にあったのは、角の建物の屋根近くに取り付けられた亀のレリーフ。この近所では有名なのかもしれないが、こちらの目的とは何の関係もなさそう。「じゃあね」。おばあさんは、上機嫌で去って行った。多分、家に帰ってから家族たちに「さっき、亀の像を探していたジャポネーゼに教えてやったのよ」などと、話しているに違いない。不思議な出会いもあるものだ。

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 とにかく、ジャンヌの最期の場所にたどり着くことは出来た。

 モディリアニの死の床で、ジャンヌはこう語ったという。「私にはわかっていることがあるんです。私のために生きている彼に、もうすぐ会えるということが・・・」。2日前、彼女はすでに、天国で待つ彼の許へ旅立つ覚悟を決めていたようだ。

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 モディリアニの棺は、1月27日午後、ペール・ラシェーズ墓地に運ばれた。その棺をピカソ、、レジェ、シュザンヌ・バラドンらが見送ったという。

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 最後まで彼の面倒を見続けたズボロフスキーは、棺の前でこう語った。「今日、私の最も親密な友、アメーディオ・モディリアニは、多くの花々に囲まれてペール・ラシェーズの墓地に眠りました。彼は星々の息子で、彼にはこの世は存在しなかったのです」。

 一方、ジャンヌについても、友人たちは合同葬儀を望んだが、ジャンヌの父はそれを拒否し、遺体は別の墓地に埋葬された。娘を不幸に貶めたのはモディリアニだったとの思いを、断ち切れなかったのだ。ズボロフスキーらは、モディリアニの葬儀に供えられた花で造った大きな花輪を持ってアミヨ通りのアパートに集まったが、彼らの入場は墓地の入り口で拒否されてしまった。

 二人が同じ墓地に入ることが出来たのは、それから10年も後のことだった。

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 「栄光に達せんとした時、神に召された」とある、モディリアニへの献辞の下に、ジャンヌに捧げられた言葉も刻まれている。

 「その貞節は究極の犠牲すらいとわなかった」。

 

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“栄光に達せんとする時、神に召された”ーモディリアニとジャンヌの物語⑤

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 同棲を始めた1917年、シャンゼリゼ通りがクリスマスを控えて華やかな装いを見せる12月に、パリのベルト・ヴェイエ画廊で初めての個展が開かれることになった。ようやく画家として世間に認められるチャンスが巡ってきた。しかし、意外な展開が待っていた。

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 オープン初日に警察が会場を訪れ、こう宣言した。「ヌードのポスターは公序良俗に反する。この個展は認められない!」。こうして、初の個展はわずか1日だけで幕を閉じてしまう。

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 絵画におけるヌード作品は、現代では問題にならないが、まだまだ封建的な気風が支配する時代だった。思えば彼が個展を開いたのはこの時だけ。生涯で唯一の個展は、こうしてあっけなく終わった。

 モディリアニはまたロトンドに通う生活に戻った。ただ、過度の飲酒やハッシッシなどの影響、10代にかかった結核の再発などによって、体調はますます悪化していた。また、ジャンヌは彼の子供を身ごもっていた。

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 そんな状況を見かねたズボロフスキーは、2人を転地療養のため、南仏ニースに送り出した。

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 ニースの温暖で明るい気候は、彼の健康回復への転機となる。そして、その年1918年の11月29日、ジャンヌは長女を出産、同名のジャンヌと名付けた。

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 翌1919年、パリに戻ったモディリアニは、ロンドンで開かれた現代フランス美術展に作品を出展、肖像画が高額で売れ、いよいよ評価が高まろうとしていた。彼もまた、精力的に制作に励んだ。

 そんなある日、友人のガブリエル・フルニエは彼と出会った。「ある日、私は赤ん坊を抱えロトンドにやってくるモディリアニを見た。“僕の娘さ”モディリアニは答えた」。ちょっと照れ気味に笑顔を浮かべる彼の表情が浮かぶ。ほんのひと時の幸せが、そこにあった。

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 だが、時は彼を待ってはくれなかった。1920年1月、もともとの持病に加えて過労が重なり、1月23日に倒れる。

 チリ出身の画家オルティス・ザ・サラサは、粗末なベッドに横たわっているモディリアニとジャンヌを発見した。病院に運び込む途中、モディリアニはつぶやいた。「これで終わりだと感じている。僕はジャンヌに口づけした。僕たちは天国での再会を約束したんだ」。

 病院で注射を打たれて眠りに就いた彼は、そのまま目覚めることはなかった。1月24日、享年34歳。

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 その死を看取ったジャンヌは、こう語った。「彼が死んだことはわかっています。でも、私にはもう一つわかっていることがあるのです。私のために生きている彼に、もうすぐ会えるということが・・・」。謎のような言葉を残した2日後、実家に帰った彼女はアパートから身を投げることになる。

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 画家とその愛する人の続けざまの死といえば、エゴン・シーレとエディットのことを思い出す。1918年10月31日。ウイーンの片隅で、まだ無名だったシーレがスペイン風邪で急死した。その3日前、28日には妊娠6カ月の妻エディットが、同じスペイン風邪で死亡していた。モディリアニとジャンヌの死のわずか1年3カ月前の、オーストリアでの出来事だった。シーレが残した「家族」の絵には、まだ見ぬ我が子の姿も含めた3人家族が描かれていた。

 一方、両親の急死によって一人残された長女ジャンヌ・モディリアニは、その後モディリアニの両親の許に託されてイタリアで成長した。

 「学校に行く時に靴を磨くのに、祖母は褐色のコール天の小切れを縫い合わせて作った奇妙な布を私に手渡した。“お前の可哀そうなお父さんの上着の布だよ”と」。

 そんな子供時代を過ぎ、長じてからは美術研究の道に進み、父モディリアニの批判的研究の成果を「モディリアニー人と神話ー」として出版している。

 

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モディリアニのプロポーズーモディリアニとジャンヌの物語④

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 モディリアニとジャンヌは、出会ってから約半年で同棲を始める。ある日、二人はセーヌ川に出かけた。

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 橋のたもとで、夜空を見上げながら、モディリアニは言った。「僕は貧乏で何も買ってあげられないけど、この空にきらめくラ・セーヌの星空を君に贈ろう」。彼のプロポーズの言葉だった。

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 二人の新生活の場所は、グランド・ショミエール通り8番地。カファ・ロトンドから数分のアパートだった。

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 そのショミエール通りに行ってみた。朝早く到着したためまだ暗い通りに、ライトに照らされた像があった。あのロダンが制作したバルザック像。人通りの少ない路上にグンと胸を張って立っている。

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 通りの中ほどに「アカデミー・グランド・ショミエール」の看板がある。ここも画学校で、高村光太郎が通ったこともある。

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 そしてその向こうが8番地だった。もうすっかり立て直されたようで、立派なアパルトマンになっていた。

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 よく見ると、右のプレートにゴーギャンとモディリアニの文字が見える。時期は違うもののこのアパルトマンにはモディリアニの他にゴーギャンも住んだことがあることが分かった。

 まだ無名の二人の新居は、傾いた急な階段を3階昇った所。「建物は今にも倒れそうで、壁のあちこちから日が差し込んでいた」。

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 貧しくとも幸せな、つつましい生活が始まった。モディリアニは相変わらずカフェに行き、スケッチを売っては生活費を工面して仲間たちと飲み、議論を戦わせていた。ロトンドでモディリアニを見かけたある友人はこう語る。「あの叫び声は誰だろう。モディリアニだ。あの小柄な美しいイタリア人は、いつものように酒を飲んでいた」。

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 一方、情熱的な瞳、ふっくらした唇のロマンチックで神秘的な女性ジャンヌは、夕方になるとロトンドにやってきた。

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 そして「自分の席で最愛の人が何かを論じているのを、満足した目をしながら聞いていた」(ガブルエル・フルニエ)。

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 モディリアニは、そんなジャンヌを繰り返し描いた。今、ジャンヌの肖像画だけで20数点が残されている。

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 金を払ってモデルを雇うほど裕福でもなかった時代、魅力的な女性ジャンヌは格好のモデルとなった。

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 間もなく明けようとする朝まだきの暗いグランド・ショミエ-ル通りを見つめているうちに、酒に酔ったモディリアニがジャンヌに支えられて家に帰って行く光景が、浮かんでくるような錯覚に襲われた。

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