ゴッホと弟テオの眠る墓へーゴッホ 最期の70日を追って⑤

果てしなく広がる麦畑。ゴッホはここを舞台に代表作の1つ「カラスの群れ飛ぶ麦畑」を描いた。
「嵐のような空の下に広がる麦畑の情景で、悲しみや極度の孤独といった感情を表現するのにほとんど苦労はしなかった。これらのカンヴァスが、僕が言葉に出来ないこと、僕が田舎に見出した健康的で元気づけてくれるようなことを、君に伝えてくれるだろうと、どこかで信じている」(弟テオ宛ての手紙。7月10日ころ)。
描いたのは1890年7月。まさに彼がその生涯を終える7月だ。
この絵に思いがけない人物が心を打たれていた。「ゴッホの絵の前にきて愕然としたのである。それは、麦畑で沢山のカラスが飛び立っている絵で、彼が自殺する直前に描いた有名な絵の見事な複製だった。その時はただ一種異様な画面が突如として現れ、僕はとうとうその前にしゃがみこんでしまった。僕はある一つの巨きな眼に見据えられ、動けずにいたように思われる」。

あの小林秀雄の著書「ゴッホの手紙」につづられた文章だ。それほどの衝撃を、しかも複製の作品だったのにもかかわらず、受けたことにも驚きを禁じ得ない。

私がその麦畑を訪れた日の天候は雨。灰色の空と麦色の地平が、静寂の中に広がっていた。

そんな畑の一角に町の共同墓地があった。

区画を分ける壁に沿って白い墓石が2つ並ぶ。

向かって左がフィンセント・ゴッホ。

右がテオドール・ゴッホ。最期まで兄フィンセントの面倒を見続けた弟の墓だ。

1890年7月27日、ゴッホはこの麦畑の西側約1キロのところで、自らの心臓めがけてピストルを発射した。その日はうだるような暑さに包まれた日だったという。
弾丸は肋骨に当たって即死はせず、傷ついた体で1キロほど歩いてラヴー亭の自らの部屋に戻った。知らせで駆けつけたテオのそばで、兄は徐々に弱って行き、29日午前1時30分、37歳の生涯を閉じた。 当時資金もなかったテオは、共同墓地の期限付きの墓地しか手に入れられなかった。
それから半年後、テオも病に倒れ34歳で死去。彼の墓は故郷オランダに造られた。
ゴッホは死後になってその作品が評価されてゆく。ちょうど墓地の使用期限の15年が過ぎたとき、テオの妻ヨハンナが改めて現在の墓地を購入、テオの遺骨も持ち帰って、今の形の墓地に造りなおした。

墓の前にヒマワリの花が一輪。
葬儀の際、ガシェ医師はヒマワリで作った花束を、そっと棺の上に置いたという。

また、一陣の風が雨粒とともに冷気を運んできた。かすかに揺れるヒマワリの花びら、さわさわと音を立てて自在に向きを変える麦の穂たち。それは、麦秋の時期だけに見せるオーヴェル・シュル・オワーズの限りなく孤独で繊細な一瞬の光景だった。

墓地からの帰り道、もう一度教会に寄った。

そこだけ光を受けて明るく輝くキリスト像に別れを告げ、駅へ。

駅前の建物は、壁中にゴッホゆかりの場所のイラストが沢山描かれていた。

パリに戻った私は、まっすぐにその足でオルセー美術館に行き、改めてゴッホの絵画作品の海に溺れた。
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